~幼年期9歳~ 弱い自分
「呆れた……それで、川を流れてるゴミを犬が溺れてるって勘違いして飛び込んで風邪?」
「わ、悪かったわね、考えなしで!」
さすが北国、9月にもなるともう川の水って冷たいのね。
友人の冷たい視線が痛い。普通、友人が赤い顔で鼻水ズビズビさせてマスクして登校してたら心配してくれるものじゃない?
「……いや、安心したわ。アンタが風邪なんてって思ったけど、実にアンタらしい理由で」
「どういう意味よぉ!?」
「素直で優しくて勇敢だって意味よ」
「……ちょっと目を見て言ってくれるかしら?」
「……」
二秒くらいで視線が逸れた。
「あ、今目逸らしたわね!?」
「キノセイヨ」
「棒読みで言うなぁ!?」
そんな感じでわいわい騒がしく登校していたら……何か視界を過ぎった。
「……ん?あ、ごめん、ちょっと待ってて」
視界を掠めたものに、妙に気を取られて一言断りを入れて道路脇のスーパーの入口へ回り込む。
そこに居たのは……
「犬?」
白くてモコっとしてふわふわな……なんかこう、凄くそそられる感じのわんこが店の扉をかりかりしていた。その先に見えるのは……
「何、お前、これが欲しいの?」
探し人の張り紙……まさかとは思うけど、指さしてみると何だか大人しくなって、行儀良く座ると綺麗な青い瞳でこちらを見上げてきた……うっ、やばい、可愛い。
「えーと、ちょっと待っててねー。おじさーん! 居るー!?」
……まぁ、古くなってるしそろそろ変えてもらう時期かな思ったし。色々な場所に貼ってもらうためいつも持ち歩いている、印刷済みの貼り紙は何枚かある。
まだ開店前の個人経営のドアを潜ると、いつも通りおじさんが開店前の作業をしていた。自家製の野菜なんかも売っているこの店、時折忙しい時期に農作業の手伝いもしているため、勝手知ったるなんとやらなのだ。
「おう、嬢ちゃん今日も元気……にゃ見えねぇな。お前さんが風邪ってえのも珍しいなぁ。今年の雪は早そうだ」
「どういう意味よそれ!? って、そうじゃなくて。おじさん、この張り紙、そろそろ変えていってもいい?」
「ん? ああ、別に構わんが……お義父さんも、大変だな、まだ妹さん見つかんねぇんかい」
鞄から、入り口に張ってあるものと同じものが印刷されているコピー用紙を取り出して貼り替えながら、んー、と養父の普段の状況を思い出す。最近はやはり特に何か変わった様子は無かったなぁ。
「色々仕事の合間に頑張ってるみたいだけどねー。 はい、おっけ、ありがと!」
「いいってことよ! それじゃ、これでも飲んで学校頑張んな、お大事になー」
「えへへ、ありがとー、困ったことがあったら言ってね、おじさん」
ラッキー、おしるこもらっちゃった。うん、きっとあのわんこは幸運のお犬様に違いない。
「……お、ちゃんと待ってたね。偉い偉い。はい、これでいい?」
外に出ると、犬は同じ場所に行儀良く待っていた。おん、と元気よく鳴いたわんこは、丸めた紙を差し出すと、咥えて尻尾を振って去って行ってしまった。
……でも、変な犬だなぁ。なんで探し人の広告なんて欲しがったんだろ。
いつも鞄の中に数枚用意してあるそのコピー用紙へ視線を落とす。
義理のお父さんの妹さん。私を引き取る前に、この辺りに旅行に来た際に行方不明になったらしいけど……
……綺麗な人だけど、犬がそれで欲しがる訳、無いよねぇ。
変な事もあるものだと首を捻って皆の下へ戻る。
「あ、おっそーい。何してたの?」
いつの間にかもう一人友人が合流していた。一人目のクール系美人さんと見事に対極的なゆるふわちゃん。
「いやー変なわんこが居てさ、ちょっと困ってたみたいだから助けてた」
「へー、可愛かったの? どんな犬種?」
「うん、すっごい可愛いの! でも、ちょっと変な事聞くけどさ……」
一瞬だったから、見間違いかもしれないけど、どうにも気になるんだよねー
「変な事? あんたが変なこと言うのはいつもだけど、言ってみ?」
「うん、あのさ……」
――犬って、羽根の生えた種類なんて居たっけ?
『もう、お前は私の娘などではない。生かしてはおいてやる、が、それはまだお前に使い道があるからだ』
散々殴られ、蹴られ、四肢の骨もいくつか砕かれうつ伏せに倒れ伏している私に、父上殿がそのような言葉を吐き捨てた。
……気が合いますね。私も、生まれてこのかた貴方を父親だと思ったことはありませんが。
『お前は只の道具だ。優れた力を持った子を作るための道具。貴様は駄目でも、貴様の子供ならまた神子になる望みも高いかもしれぬ。だから生かしてはおいてやる』
朦朧とする意識の中、好き勝手に吐かれる言葉が脳内を滑っていく。
……父上殿にとって使い道があるから生かされる。それは、今迄と何が違うんでしょうか。
『育ててはやるが、それは貴様の為ではない、貴様がもたらすであろう子の為だ。それが嫌ならば目につかぬ場所で勝手に自害でもすればいい』
そう、怪我で身を起こす事も出来ない私へと吐き捨てると、もはやこちらを一瞥もせず立ち去って行った。
自殺は、禁忌です。そうでさえなければ、今すぐこの場で舌を噛み切ってやったのに。魂に染み付いたその認識を恨みながら、意識は闇の中に墜ちていった……
――二年前、私が神子でなくなった日の事でした。
「――っ!?」
落ちかけていた意識が、腕にかかる強烈な痛みで突如覚醒した。
ぐりぐりと、体格で勝る中学生くらいの男子に踏みにじられた腕がギシギシと軋みを上げている。
まずい、折れる……そう思い始めた直後、ようやく足が退けられ、腕が自由になった事で身を起こそうとしました、が。
「おい、玩具が持ち主に無許可で勝手に動くなよ!」
「――がっ!?」
僅かに浮いた体を地面に叩きつけられるように、足が背中に振り下ろされ、潰れた肺からげほげほと空気を吐き出しました。
そんな背中に容赦なく少年……腹違いの兄の足が降ってきて、そのたびにがっ、ふっ、と口から空気の漏れる変な音がする。
(……大丈夫、今もちゃんとお付きの狐面もいる、されるのは暴力だけ、致命的なものは止められる。もうちょっとやり過ごせばいいだけ)
しばらく地面に伏したまま執拗な暴行に耐えていると。
「坊っちゃま。そこまでに」
「何だよ! 俺の邪魔をするのか、傀儡風情が!!」
「……当主様の、ご命令ですので」
「……チッ」
遠ざかっていく靴の振動を頰に感じながら、ようやく新たな痛みが増えないことに安堵の息を付きます。
いつものことだ。この腹違いの兄が、私が視界に入ると決まってこうして暴力を振るってくるのは。
こうならぬようにいつもは注意を払っていたが、今回は厠帰りに偶然逃げられぬ状況で鉢合わせてしまいました。
父はあの時以降寄り付こうともしない。
たまに鉢合わせると、数発思い切り蹴飛ばすとそれで満足して去っていく。
体への負担は一番かかるが、短く済むうえにすぐに気絶できる分、精神的には楽な方だ。
たまにふらりと現れる祖父は、幼子…曲がりなりにも孫に対し憐憫があるのか優しいが、その裏はただ私が成長し、好き勝手にできるようになる日が来るのを待っているだけだろう。
隠せていると思っているみたいですが、目はその日が来るのを待ちわびているかのような好色な色がぎらついているが、それでも一緒に居る時間は数少ない安全な時間だ、多少の怖気は無視すればいい。
いずれにせよ、命に関わるような危険な暴行は事前に止めて貰えますし、お腹や顔は絶対に攻撃されません。そのほとんどは手足か背中。痛いし、苦しいですが、それだけです。
無視して、痛みを受け流せばいい。
無視、して――できる。大丈夫、これくらい。
最初は絶望的だと諦めかけていた貞操の方も、子を成せるようになる前の幼子に無理をして、万が一にも生殖機能を壊すような事になるのは父上様としても本意では無いらしく、そうした空気になると周囲が止めるため実際に事に及ばれたということは今の所無い。
果たしてそうした幸運はいつまで続くものか……少なくともあと数年以内にはその猶予期間も消えるであろうし、それ以前にふと心変わりされただけで無かったことになる蜘蛛の糸、ですが。
(……ねぇ、レティム、貴方はどこまで行ったの?)
ずっと繋がらない眷属との念話。
少し遠くまで出かけて来る、絶対に帰ってくるから頑張れと去ってからすでに三月。彼がかなり遠く、圏外まで行ってしまったのは間違いない。
孤独に折れそうな心を叱咤し、身を起こそうとして……先程踏まれた腕に激しい痛みを覚えてべしゃりと顔から地に落ちる。
あ、これはだめだ……そう思った瞬間、意識は闇に飲まれていきました……
「……さま、お嬢さま……!」
誰かが軽く身体を揺する感覚に、意識が覚醒しました。
うっすらと目を開けると……そこには、私の身の回りの世話をしてくれている早希さん……私の乳母だった女性の、心配げな顔が目に入りました。
まだ30にも満たない年若い女性ですが、私と同い年の息子さんが居るらしく、なにかと細かく気にかけてくれます……私の扱いを間近でずっと見ているため、沈痛そうに顔を曇らせてしまっていることを申し訳なく思います。
「あぁ、良かった……当主様もおぼっちゃまも、どうしてこのような酷いことを……!」
涙さえ浮かべこの身を案じてくれる彼女の存在に、この環境に参りかけた気持ちが僅かに和らぎます。
(……今、何時だろう)
そう、横になったまま目で訴えると、早希さんは、涙をぬぐい、私の体を起こしてくれます。
「……夜9時、家の方々はすでに部屋にお戻りになられた時間です。まだ入浴は可能ですが……今日は、止めておきますか?」
その言葉に、首を横に振る。今日は床を這いつくばらされたせいで、このまま寝るのは少し気持ち悪い。
すると、早希さんがさっと私を抱え上げて運んでくれる……随分軽々と持ち上げるなと思うが、実際発育不良気味で背も低くやせ気味な私が軽いのだろう。重い筋肉もほとんどありませんからね……
古めかしい木造建築の廊下には、明かり代わりに所々蝋燭がかけられています。実際は電気照明も通っていたはずですが……まぁ、見た目から入る人たちの巣窟ですから。
幸い、これ以上家の者に出くわす事はありませんでした。
寝静まった屋敷の中、浴場に水の跳ねる音がします。
身体に付着した、包帯の下にあった傷跡から滲んだ血が、ぬるま湯程度に調節された湯で優しく洗い流されていきます。
「……傷に沁みたりは無いですか?」
「……(ふるふる)」
心配げに声を掛けてくる早希さんに、首を振って大丈夫だと伝えます。実際は若干……特に重点的に痛めつけられた右腕や背中は沁みますが、何時もの虐待と比べると大したものではありません。
正面の鏡に映った自分の姿を見ます。今の生活になって変化したのが、神子としての教育を諦めたため、鏡を見ても何も言われなくなった事でした。
負傷して半日も経っていない筈ですが……灯篭の明かりに照らされ暗がりに浮かび上がった私の裸身は、もう殆ど痣や傷跡は残っておりませんでした。常に体外に漏れ出ている私の力が、常時回復しているからなそうです。
ありがたい事に、よほど大きな傷でなければ……気まぐれに振るわれる暴力程度であれば傷一つなく治癒するため、この白い裸身にはこれだけの暴力を振るわれながら、未だ傷跡一つありません……尤も、それ故に暴行が過激になっているため一概に良かったとも言い難いですが。
……ただ、二年前に失われた両腕の霊的な回路は戻りませんでした。非常に、目を凝らさなければ見えないほどには傷が目立たなくなった細い腕。軽く握ってみますが、動作は特に問題なく、細かな作業にも支障はありませんが、術師としては、一生回復は絶望的、だそうな。
それにしても……鏡の中の自分を眺めます。
周囲の反応から予想はしていましたが……かなり容姿には恵まれている気がしますね、この身体。
将来子を産ませる為に生かされているためか、日々のケアや食事自体は、意外とまともな扱いを受けています。
薄汚れた餓鬼みたいなのは流石に願い下げだったのでしょう。上辺の見た目に拘る人達みたいですから。
あくまで私の客観的な感想ですが、顔は…まぁ、整ってますね。色素の抜け落ちた白い肌と赤い目は、あまり動かない表情と相まってやや人形めいた、無機質な不気味さを相手に与えそうですが、造作自体は非常にバランスが整っていると言えなくも無いです。
やや垂れ気味な目は、どこか眠そうにやや伏せがちで、あどけない印象が若干先程の不気味さを緩和しているでしょうか。
その顔を縁取る、腰のあたりで綺麗に切りそろえられた長く白い髪は、今は水に濡れ艶めいていますが、普段は癖毛もほとんどなくさらさらと流れます。これは小まめに手入れをしてくれる早希さんのおかげでしょう。
まるで筋肉の付いていない体は、痩せて華奢ながら、適度な脂肪の柔らかさはきちんと存在します。
腰の位置の高い骨格と、触ると肌理細かく柔らかな肌は西洋東洋両方の人種の良い所どりなのでしょう。
……色狂いの家の連中が執着する訳です。
特に、兄なんかは幼女性愛の気があるのか、最近はこちらを見る目に悪寒が増しつつあります。腹違いの実の妹、しかも幼子に欲情するとは、なんとも……中学生にして、随分と業の深い性癖です。
かなり、容姿には恵まれています。
ですが、容姿に恵まれているだけです。
ただ、それだけの、弱い自分。そのことを隠そうと虚勢を張っても、その現実からは逃れられない。
前世の記憶なんて関係ない。私が持っているものは、この弱い体だけだ。
私は、弱くなった。肉体的にも――精神的にも。
はぁ、とため息を無意識に着いたのですが……私は、この時この場に別の人が居たのを忘れていました。
お嬢様が就寝し、私も自分の部屋への帰路についている所でした。
……このままで良いはずが無い。
脳裏に浮かぶのは、あれだけの理不尽な仕打ちに健気に耐えている、幼気なお嬢様の事。
声が出ず、表情もうまく作れないお嬢様ですが、先程身を清めているときに漏らしたのは、どこか諦観したようなため息。
……きっともう、心身ともに限界なのだ。このままでは、彼女を生んで間もなく亡くなったあの少女と同じく体調を崩して倒れてしまう。
日に日に体調を崩していった、同い年だった少女。当主様が近頃お気に入りだった妾に子を孕ませたと一時騒ぎになりましたが、すぐに静養しろと静かな場所へ移され、皆興味を失い沈静化しました。
そんな中、同じく若くして結婚した旦那の子を身籠っていた私は、同じ初産同士話し相手になれればと時間を作っては訪れていましたが……しかし、彼女はお姫様のように綺麗な子でしたが、その瞳はいつも暗く諦観に曇っていました。
当主様は妾として引き取ったと言っていましたが……実際は何処からか誘拐されたという専らの噂でした。
当時は仕えている家がそのような恐ろしい悪事に手を染めていると思いたくはなく、根も葉もないうわさだと自分に言い聞かせていました。
……ところが、彼女の娘……お嬢様の、二年前の事件の後の扱いをこうして見ていて、噂は事実であると確信しました。
亡くなった母親の代わりに、お嬢様に乳を与えたのは私です。
実の子と共に、私の乳を吸って育ったそんな子に情が移っていないわけがありません。
だからこそ皆が当主様の不興を恐れて世話役を渋っている中で、真っ先に手をあげました。
そんなお嬢様が、このままここに居ては心身全てボロボロにされてしまう。しかし、ならばどこに助けを求めればいいのか。
おそらく警察等ともつながりがあるでしょう、それだけ仕えているこの家は古く大きいです。個人で出来ることなど、とても……
私はまた、こうして弱っていくのを指を咥えてみているしかできないのか。そんな陰鬱な気持ちで歩いていると……私の部屋から、がさがさと何かが漁っている音がする。
「……誰!?」
慌ててバン! と部屋の扉を開けて飛び込むと……そこには、何もいませんでした。ただ、窓が少しだけ空いていた以外は。
……物取り? でも、こんな大きな家に、わざわざ使用人の部屋に?
そもそもどこかを漁った形跡も何か無くなった形跡もなく、首を捻っていると……一つだけ、異変があったのに気が付きました。
整頓された部屋には似つかわしくない、薄汚れた紙が一枚机の中心に置かれていたのです。
「……何でしょう、広告?」
何気なく手に取ったその覚えのない紙きれをざっと眺め……
「……え……探し……人……!?」
その、だいぶ風雨に晒されていたであろう探し人の情報を求める紙には、あの外国人の女の子……今の主人であるお嬢様の、母親の写真が印刷されていたのです――……
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