惨劇の三十分

【前書き】

ストレス展開、苦戦展開が苦手な方は、ご注意を。


【本文】

 ―― AM10:50 狸塚まみづか ひじり ――





(……どうして、こうなっちゃったのかな……?)




 あの日、あの戦闘で昏倒させられたあと……意識を取り戻してから昨日一日は監禁されながらも特に何もされなかった。どこかの窓も無いコンクリートの一室で、一日ずっと放置されていた。

 蛇口を捻れば水は出たし、おトイレも使用できた。着替えもなくボロボロな服を替える事ができなかった事と、怪我を水で洗う程度しか出来なかった事を除けば、拍子抜けする程平穏だった。


 だけど、今朝、突如良いことを思いついたとニヤニヤしながら部屋に戻ってきたあの少年に、無理やりここに引きずってこられ、窓の鉄格子に両手を拘束された状態で、恥ずかしい写真を撮られた。


 撮影者は、今は目の前で気絶している……取り付いていた蟲が離れ、飛んでいったのが見えたから、多分そのせい。


 だけど、それは事態が好転しているとは言い難かった。


「精々、彼が目覚める前にお友達が助けに来ることを祈るんだな」


 嫌らしく歪んだ顔でそう耳元で呟いて、男に指示だけして朝早く立ち去った少年の言葉が胸に刺さる。


(……お願い、起きないで……っ)


 必死に祈る。今の、このような格好で吊るされたままで、はたして男が起きたらどのような事をされるか……それが分からないほど初心ではないつもり。


 今まで沢山のお付き合いの申し出をお断りして来たけれど、それが全て円満に解決して来たわけではない。

 中には納得せずに、力づくでものにしようとして来た者もたくさん居る。

 倒れている撮影者……そのピアスにまみれ刺青を掘ったその見た目からは、まさしくその、円満に終われない類の男性にしか見えない。


 幼い時から修道女の道を定めて真面目に生きてきたこの身には、それはとても恐ろしいことだった。




 ……だけど、無情にも、その時は来た。


「……う、痛ぇ……なんだ、何が……?」


 眼前で倒れていた男が起き上がったことに、びくりと体が跳ねた。こちらに気づかないでと祈りながら、息を殺す。


「なんでオレ、こんな場所で寝て……あ?」

「……ひっ」


 当然そんなはずはなく、周囲を伺っていた男性の目がこちらを向き、みるみる嗜虐と色欲の色に染まっていく。


「……良く分かんねぇけど、ラッキー、しかも君、めっちゃ可愛いじゃん、何、こんな格好で変態なの?」

「違う、違うから! 止めてください……!」


 女の子が怪我をして、普通自分でできるはずもない、両手を手錠で動かせなくされて……普通に考えて、この状況が私の望んだものではないと分かるはずなのに、そんな、訳ないのに……っ!


 元々胸元が大きく引き裂かれた服が乱暴にはだけられ、ほとんど人目に、それでも男性の目に晒した事のない肌が晒されて、我慢出来ずにポロポロと涙が溢れた。


(……いや、助けて、東狐ちゃん、緋桜ちゃん……ああ、でも、来ちゃ駄目、お願い来ないで……!)


 駄目なのだ。私が連れてこられた目的は……特に緋桜ちゃんは、絶対あの子から離れては……!


 助けて。

 助けに来ないで。

 相反した願いに、おかしくなりそう。


「それじゃ、いただきまー……」

「わたしの友達に、汚い手で触ってんじゃ……ないわよぉ!!」


 突然炎が眼前に舞ったかと思うと、男が身も蓋もなく真横に吹っ飛んで、壁に激突して呻き声一つ上げれず昏倒した。

 凄まじい勢いで駆け込んできた、炎を纏った少女に目を丸くする。


 ……あの人、生きてるかな……逆に心配になる。


「狸塚、無事!?」

「え、緋桜ちゃん!?」


 心配そうに、私の肩を掴んで焦ったように問いかけてくる友人。

 ああ、来てくれた。喜びに涙が出るも、何で来てしまったの、と悲しみの涙も溢れる。


「遅くなってゴメン、今、解くから……どうしたの、どこか痛む?」


 力無く、俯いてふるふると首を振る。だけど、しいて言うならば心が痛い。

 ばきんと手錠の鎖を引きちぎられ、両手が自由になる。


「……ありがと、でも、駄目なの。狙いは、私達じゃない」

「……どういうこと?」

「危ないのは、ミステルちゃんなの……早くあの子のところに行ってあげて、お願い!」


 あの少年は……良く観察出来るだけの時間があったから、その容姿にほんの少しだけ、先日お友達になった幼い女の子との共通点がある事を見出せていた。

 そんな彼は、ずっと妹へ向けた愛の言葉……とは思いたくない、呪詛じみた事を呟き続けていた。

 もう少しでまた一緒になれる、今度は逃がさない……って。


 ところが時折その中で、人が変わったようになる瞬間があった。その時は、やけ私にも親切で……だけど、元の少年の方がマシに思える位に、その状態の彼を本能が拒絶していた。


「…………どういうこと!?」


 緋桜が、私の肩を掴んで必死の形相で詰め寄る。


 その時、可愛いらしいフサフサした一頭の犬? が、空を駆けて緋桜ちゃんの所へ飛び込んで来た。


「レティム、どうしたの、あなた、こんな所に!?」


 驚く緋桜ちゃんに、そのわんちゃんが、何か焦ったようにてしてしとその体を小さな前脚で叩く。すると、緋桜ちゃんの顔がみるみる驚愕に見開いていった。


「そんな……ミステルちゃんと、連絡が……取れない!?」


 ――え、あなた、その子と会話できるの!?


 わんちゃんと意識疎通らしきものをしている友人に驚きを覚えるけれど、その必死な様子はそれどころじゃないみたい。


 そんな、注意が他に向いた緋桜ちゃんの背後に、床から不自然な影が染み出してくるのが見えた。


「ごめん、狸塚、私、戻る!」

「待って、前!?」

「え――うわっ!?」


 踵を返して踏み出そうとした緋桜ちゃんの眼前を、黒い影が横切った。


「こいつらは……」


 次々と床から湧き出してくる『アザービースト』達。

 緋桜ちゃんが刀を抜いた。私も、どうにか隠し通した短剣ミセリコルデを構える。


 私は限界近い、ここを切り抜けるのが精一杯だから、なんとして緋桜ちゃんだけでも送り出さないと。お願い、ミステルちゃん、どうか無事でいて……っ!










 ―― AM10:30 ミステル・ヴァレンティン ――




 ――戦闘開始から、早くも十分は経過していた。


 勢いをつけて一歩踏み出す……と見せかけて、翼をブレーキに急減速。眼前、私が踏み出す筈であったであろう一歩先に現れた影の槍を、その横から薙ぎ払って斬り飛ばす……!


「なんで……なんで当たらないんだよ!?……うわぁああ!?」


 円形に6個並べた小規模の亜空間『銃身』から、時計回りにチャージを終えたものから順に、この世界で言うガトリングガンのように絶え間なく連射して、必死に縮こまり、まとっている影で身を守っている兄の、その周囲にそびえる黒い影の防壁を叩き、その衝撃に怯えて動けない兄をその場に縫い留める。


 そうして出来た隙に、一体、二体と襲い来るアザービーストを切り払い、着実に数を削っていく。連携されれば厄介だが、分断してしまえば余裕は十分にあった。


 ……もう、半分は潰した。指揮している兄の余裕も無くなったため、その動きはどんどん単調になっている。




「なんで、何で何で何で!?」


 兄が、喚き散らしながら我武者羅に足元から影を繰り出してくる。しかしその全ては予測演算が済んでいる。

 何の技術もない、どこを狙ってくるかもわかっている攻撃は私にとって何の障害にもならず、ただ何もない虚空を貫く槍ごとまた一体影に潜む下級魔神を斬り捨てる。


 簡単な話だ。初戦で東狐さんを不意打ちで戦闘不能にした、もともとは戦闘経験など無かった兄は、それに味を占めて同じ攻撃に頼りきりになっている。

 足元から来ると分かっている攻撃など、攻撃位置さえわかればあとはタイミングさえ会わせてしまえばいい……そして、私はその両方を知る術がある。


「ひぃっ、ひぃぃいい!?」


 防戦一方になりつつある兄は、必死に影の防壁で身を守っているが……


(条件設定、強度が薄く、術者に直撃させない箇所、算出完了。仮想視界に投影します)


 ただ我武者羅に撃っていた訳ではない、その影の壁に着弾する度に、返ってくる反応から脆い部分をずっと探っていた。


 ぴぴぴ、と数か所にターゲットマーカーが重なる。丁度6か所。


 ――ジッ


 合計六つ、大気を灼く音が同時に響いた。


 狙い外さず正確にもろい部分を打ち抜いた光線は易々と壁を貫通、兄の体を炙りつつも傷つけずにその背後に着弾。複数個所を貫かれた壁は強度を保てず、ぼろぼろと崩れていった。


「こんな、こんな筈が……僕は、強くなったんだ……! お前より、お前なんかより!!」


 それでも、劣勢を認められず、喚きながら、恐慌状態で殴りかかろうとして来る兄……ごめんなさい、と頭の中でだけ謝って、その両肩、両肘、両膝に、限界まで出力を絞った閃光が放たれる。

 ひとたまりもなく関節を貫かれた兄は、もんどりうって倒れた……これで、もう立ち上がれはしない。


「……痛い!?  痛いよぉ!? 動かない、何で、何で僕がこんなぁ!?」


 痛みにのたうち周る兄を尻目に、残っていたアザービーストを全てロック。『オーリオール』で表示されている、現在待機中の魔法一覧を左手でスクロールさせ、チャージ完了のマークが点灯する一つを選択し、完全に彼の抵抗の意思を折るため、行使確認ボタンに左手を叩きつけた。


(『ワールド・デストラクション』……薙ぎ払う!)


 鎌に、追加の能力が付与される。この世界で起きた事は現実には影響を及ぼさないというのであれば、遠慮はしない……!


 全身を使って周囲をなぎ払った一閃――その瞬間、世界が、一瞬だけズレた。


 空間を切り裂き、その鎌の軌跡の延長線上にあったもの……倒れ伏した兄の頭をギリギリ掠め、残っていた全てのアザービースト、全ての兄の使役する影を切り裂き……さらには、共に巻き添えを食らった範囲内の建造物が切断面からズレてゆっくりと崩落していく。


 ――私の周囲、数百メートルが、全て灰燼に帰した。私と兄を除いて。






「……そん、な……」


 手勢を全て失い、すっかり様変わりした周囲の様子に、呆然と兄が呟いた。


「なんだよ、それ……そんなの、チートじゃないか……」


 その言葉が、チクリと胸を刺す。

 どれだけ前世で血反吐を吐き、幾度も死の……消滅の危機に晒されながら鍛えた力と言っても、そんな物はこの世界には関係なく、今世では何の苦労もせず得たズルチートなのには違いない……特に、こうして東狐さん達が二人掛かりでもやられた相手を容易く圧倒出来る、となれば。


 不意に突かれた疎外感を押し殺し、一歩彼の方に踏み出すと、その肩がビクッと揺れる。

 だがそれをズルというならば、他者の……それも、絶対に耳を貸してはいけない類の他者に力を借りて、人を害した兄も同類だ。


『……その力を手放してください。そうすれば、怪我を治療してそのまま帰っていただきます』


 宙に光で文字を書いて、見えるように兄へ向けて押す。


「こんな……僕の、力……」


『いいえ、それは手にしては駄目な力なの。悪いようにはしないから』


「…………」


 黙り込んで、抵抗の意志を失ったのを確認し、その身に宿った魔神を消し去ろうと、一歩踏み出す。


「分かった、手放す、手放すから……! もう近づかない、だから、殺さないで………っ」


 弱々しく、頭を抱えて許しを乞う兄の姿に、途端に罪悪感が湧き上がりました。

 形はどうあれ、彼は私のせいで運命が大きく狂ってしまったのだと思うと、憐憫の気持ちも湧いてきます。


『では、治療と、浄化します。怖がらないで』


 その私の言葉を見て、今度こそ抵抗の意思をなくしがっくりと頭を垂れた兄へ、私は一歩踏み出しました……












 ―― AM11:00 天野あまの 緋桜ひおう ――




 何て失敗。レティムまでこちらに来ている以上、あの子は今一人。私が焦って先走ったばかりに……!


『緋桜さん、道を拓きます』

「お願い!」


 今は、三メートル以上はあるかというフサフサな毛皮をした竜の姿を取っているレティムが、口に光を充填する。


 次の瞬間吐き出されたブレスが、視界を真っ白に染め、直線上にいた多数の影達を貫き、壁を融解させて消えた。


『――もう一発……!』


 再度、充填した力を放とうとした、その時――


 ぽん、と音を立て、レティムが元の子犬姿に戻ってしまっていた。


(……え……そんな!?)

「レティム、どうしたの!?」

(マスターの、マスターの意識が途絶えました……!?)


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「そん、な……」


 ――あの子が、やられた……?


 ――そう驚愕していた自分・・・・・・・・・・に愕然とした。


 どこかで、油断があったのかもしれない。あの子なら、いざというときでも一人で切り抜けられると。私が一体倒すのが精一杯だったあの狐面のあの連中を、一人で一掃してみせたあの子なら、大丈夫だと。


「……そんな、そんな、そんな……!? 私の、私のせいだ……!」


 一緒に連れてくるべきだったんだ。あんなにあの子はついて来ていたがっていたのに、私は危険な場所に連れて行きたくないから先に帰れと、独り善がりな自己満足のため、あの子を引き剥がした。一人にはしないと言って一人にしてしまった・・・・・・・・・


 ――一番居なければいけない時に、一緒に居なかった……!


「どうしよう、私、そんなつもりじゃ……狸塚、どうし……っ!?」


 ――パァン、と、乾いた音が響いた。


 頬の痛みに、今、狸塚に頰を叩かれたのだと数秒遅れて理解する。


「……だったら、こんなことをしている場合じゃないでしょう? お願い、行ってあげて」

「でも、この状況で……」


 周囲は、まだ10匹近い影の獣が徘徊している、武装の大半を失っている狸塚を残していくのは……


「大丈夫、自由になってすぐに応援を呼んだもの。それまで生き延びるだけなら、私だけでもどうにかできるわ、舐めないで」


 どこからか取り出した短剣を握って、決意したような強い目で見つめてくる狸塚。だけど……その手は、細かく震えている。

 それでも、この子は、私が思っていたよりずっと強かった。


「ねぇ、緋桜、お願い……私はあなたの足手纏いになりたくて、友達をやっているわけじゃないのよ……?」


 そう言う狸塚に、私は頷くしか出来なかった。


「……ごめん、レティム、この子をお願い、私は行く!」

(お気をつけて! マスターのこと、どうか……!)


 先程レティムの作った道を、来た道を戻るため、駆け出した。







 ―― AM10:40 ミステル・ヴァレンティン ――




 兄の元へ歩み寄った私は、膝をついてうなだれている兄に屈んで視線を合わせると、憑いた魔神を浄化するため、目を閉じて集中に入――ろうとした。


「……まったく、これだからあなた達、善人というのは理解しかねる」

(……え?)


 ポツリと、兄が呟いた言葉に、はっと顔を上げる。が。


「一息に首でも刎ねていれば……こんな事にはならなかったのにねぇえ!?」


 がぱりと突如開いた兄の口から、何か黒い煙のようなものが……!?


(…………~~~~~っ!!?)


 ばちりと、神経が纏めて焼き切られたかのような頭痛に、全身が硬直し背がビクンと跳ね上がった


(警告、『ラプラス』、過負荷が一定以上に達したため、予測演算を強制終了します)

(……え? …………え!?)


 突如、『ラプラス』のシステムダウン。脳内を暴れまわる激痛に眩暈を起こし、涙をボロボロ流しながらも急に予測演算が剥ぎ取られたことを察して、咄嗟に飛び退ろうと、羽根を羽ばたかせ――


「逃がしはしませんよ! ようやくこのような距離までノコノコ接近してくださったのですからぁ!」


 次の瞬間、生暖かい何かに、右脚が太ももの付け根付近まで覆われた。


(――あああぁぁあ!? ……がはっ!?)


 ――激痛が、右足に奔った。

 浮かぼうとしたその足を何かに引っ張られ、地面に叩きつけられた。衝撃に空気が体から絞り出され、ケホケホとむせる。


「まったく、せっかちなお方だ……ですが、私の演技もなかなか大したものでしたでしょう?」


 気障ったらしい所作で、服についた誇りをぱんぱんとはたき落とす兄を、尻餅をついたまま呆然と見つめる。


 ……違う、これは、兄ではない、別人だ。ずっと、私は思い違いをしていたのだ……兄など、既にこの世界に居なかった……!


「申し遅れました。私、レドルグと申します。以前の世界では、あなたに目見える資格もなかったような、しがない下級魔神でありますが」

(……ひっ!?)


 ようやく回復してきた視界に、目に飛び込んできた物に思わず悲鳴が出た。足に、影の魔物が喰いついていた。ぎりぎりと食い込む牙に、魔法体の肌……境界面が、びし、ぱし、と不吉な音を立てて罅割れ、内部から光を漏れさせていた。


(こ、のぉ! 離して!?) 


 鎌を振るい、その影の魔物を斬り飛ばす。


「おや、私の方にかまけてていいのですか?」


 あっ、と思った時には、鎌を掴んでいた方の手、二の腕あたりまで、先程兄の口から吐き出された靄がまとわりつく。次の瞬間――


(ぅあああ゛あ゛あ゛!? いっ、あ゛ぁぁあ゛ぁあ゛あ゛!?」


 無数の小さな刃が突き立てられたような、先程の物すら比べ物にならない激痛に、思考がはじけ飛んだ。

 無様がどうとかいう事も考えられず、必死に黒いナニカが纏わりつく腕を必死に地面に、壁に叩きつける。

 しかしぶちぶちという、激痛を伴った正気を抉る音と感触は止まらず、意味もなく、ただ痛みに耐えようと痙攣するように必死に握った手がカリカリと虚しくアスファルトを削る。


(や、あ……痛い痛い痛ああっ! 離れてぇ!?)


 それでも、必死に、力ずくで靄を振り払った腕は……あっという間に穴と罅だらけになったガントレット部分を遺して、その周囲が穴だらけに食い破られ、夥しい光を漏れださせていた。


(そん、な……)


 ――喰われた。その事実に、ぞっとする。


 辛うじて鎌を手放さずに済んだ程度の握力は残っているが、その肩から下は動かない。

 腕の中の擬似神経まで激しく損傷している。既に少しずつ再生は始まっているが、数分はこちらの腕は使い物になりそうにない。


 先程はまだひと抱えあるボール程度の群れだったその靄は、今は大人の男性くらいのサイズに膨れ上がっていた。


 黒い靄、あれは……イナゴの群れだ。それも、真っ黒な蝗の魔神


 魂に刻まれた恐怖が、体を竦ませる。私は、アレを知っている。辛酸の味と共に。


「怖いですか、怖いですよねぇ……なんせ、貴女は彼に……私の主に、一度も勝ったことがない、のですから」


 びくり、と体が震える。


 ――逃げないと。


「もっとも……我が主がまともに顕現するには、この世界は大気中の魔力が薄すぎまして。そこに現れたのが……以前、我が主が、『他の誰よりも旨い』と褒めちぎっていた、貴女です」


 ニタァ……と浮かべられた笑みに、ひっと喉が引き攣った。



 ――逃げないと!


 コイツに、『ラプラス』は役に立たない。数が多すぎて負荷が大きすぎるから。

 コイツに、『オーリオール』は役に立たない。情報量が多すぎて、処理速度を殺されるから。

 コイツに、手にした大鎌は役に立たない。たとえ数百を消し飛ばしても、次の瞬間食いつかれればそれを餌に何倍にも増えるから。

 コイツに、銃身も役に立たない、一点を貫いても、殆ど意味はなさないから。


 前の世界で、ヒオウが完全に滅ぼすまで、執拗に追い回され、幾度も捕食された記憶は未だに強く恐怖となって根付いている


 ――物質のみならず、魔力神力問わず喰い漁り、無限に増殖する、飢饉と暴食を司る魔神の将。


(……魔神将、グラァバ、ドーン……っ!?)


 私の、前世での最大の天敵。ただ皆の後ろで震えて他の者に相手を任せるしかなかった、最悪の天敵。


「だから……我が主の餌になってくれませんか? 『勇者の守護天使』さん?」


 こいつは、前世の私を知っている。


 私が、私だけは、この魔神将に勝てない事を知っている……!




 ――それを理解した瞬間、私は、一目散に逃走しようとした。











 ――逃走しようと、したのです――……

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