31. 百鬼夜行
弥那山は、桐治に張り付いた黒毬藻に反応した。
彼には
彼を締め上げるのに、これを利用しない手はない。
アパートでの経験からして、宿命球には黒い虫たちに話を伝える力が有るのだろう。間穂神社に車を走らせた桐治は、球の力で助っ人を呼んだのだった。
自称リアリストの桐治には、ナナフシに話し掛けることに多大な抵抗があったものの、無事説得に成功する。
駅を行き交う人々に、影虫の巨体は目に映っていないようだ。陽の
騒ぐのは、地面にへたり込んだ弥那山だけ。
いや、もう一人、狂騒の雄叫びを上げる者がいる。幻想日本画家、篠田州然、片眼鏡付き。
「おっほ! あれか、こうかっ! ひょっほぅ!」
「お父さん、恥ずかしいから! 叫ばないでっ!」
クロッキー帳と駅へ交互に視線を動かし、猛烈な勢いで手を動かす。
小刻みに位置を変えつつ、スケッチに燃える画家の姿は、芸術パフォーマンスと思われたらしい。立ち止まって眺める通行人も現れ、瑠美の頬は夕陽色に染まった。
州然が言語不明瞭な叫びで耳目を集めたおかげで、神主の狼狽からは人々の注目が逸れる。
這って逃げようとする彼に近付くのは、南蔵の職員とミキ、そして第二の助っ人、蜘蛛の群れ。
一匹は仔犬ほどの大きさで、ボディは丸く平べったい。
その体から生えた十本以上の脚をシャカシャカと動かし、数十匹が素早く駅前通りに展開する。
体色は他の虫と同じく真っ黒な、影の世界の住民だ。動きこそ蜘蛛そっくりだが、見た目は偏平なウニに近い。
瑠美ですら生理的な嫌悪感を掻き立てられた蜘蛛たちに、弥那山が耐えられるはずもなかった。
「ひいぃっ! た、助けてくれ……」
駅にはナナフシ、バスが来た道には蜘蛛が迫るとなれば、この駅前には逃げる方向が二つしか残っていない。線路と平行に、右か左へ。
ふらつきながらも、ようやく立ち上がった彼は、右手を選んで走り出す。
市バス乗り場の前を横切って駅ビル角にまで進んだ時、弥那山は急停止して、息を飲み込んだ。
信号機の支柱に、ムカデが巻き付いている。
黒いベルトに並んだ無数の脚。ベルトの幅は、三十センチ以上はあった。
例えムカデが明後日を向いていても、こんなものは弥那山の恐怖心の許容量を、軽く飛び越えてしまっている。
ジワジワと後退する神主へ、黒ムカデは鎌首をもたげた。
もう、恐怖ですらない、原始的な本能だ。
――この場を離れなければ。叫ぶ力も勿体ない。
手足の動きはコミカルでも、弥那山の懸命さを笑うのは酷というもの。
周囲の声に一切耳を貸すことなく、ただ逃げたい一心で、神主は駅の左側へと足を動かす。
州然の「凄い、ムカデだ、ひひょっ!」などという歓声は、単なる雑音である。
「お父さん! 危ないから車道に出ちゃダメ!」こんな叫びも然り。
「そっちに行っても無駄だって!」
桐治の真横を、弥那山は無心で駆け抜ける。
ラン・神主・ラン。
駅の向こう、あのドラッグストアを抜けた先が脱出口だ。走れ、弥那山。
彼の名を呼ぶ
駅前を区切る縁石に
ゴールが彼を待っている。
神主は歯を食いしばり、片膝を立て、魔界からの出口に顔を上げた。消費者金融のノボリ、ピザ屋の看板、放置された自転車。
ちょうど街灯が点き、アスファルトの道路が鈍く照り返す。横断歩道の白い縞模様、その真ん中に盛り上がる影。
影? いや、これは――
丸い半球状の影が立ち上がり、弥那山に振り返る。
二足歩行の亀と対面した彼は、とうとうその意識を手放し、地面に力無く突っ伏した。
◇
目を覚ました弥那山は、明るい照明に目を細め、ゆっくりと上体を起こした。
自分がどこにいるか理解するのに、結構な時間を要する。寝かされていたのは店内の長椅子、目の前にいるのは観光協会で出会った二人。
ムシャムシャとピザを頬張っていた桐治は手を止め、辺りを見回す神主に声を掛けた。
「おはよう。アンタの好みが分からないから、シーフードにしといた」
「……ピザ屋?」
「毒は入ってないから、安心して食べてくれ」
弥那山を介抱する場所にピザーレを選んだのは、彼が倒れた場所が近かったという理由だけではない。
黒亀が店の前のメニュー表を凝視して、離れなかったからだ。
大量にソーセージの乗ったピザを与えると、ようやく黒い甲羅は動き出す。今頃は桐治の車で大人しくしているはずである。
自力でここまで来られるナナフシや蜘蛛とは違い、亀は足が遅過ぎて、自動車に乗せるしか間に合いそうになかった。
カネッシーがこんなところにいると知れば、小吹田と野上は狂喜するだろう。
二人には申し訳ないが、人払いがしたかった桐治が頼んで、彼らにはもう帰ってもらっている。
この店にいるのは、桐治とミキ、それに弥那山、少し離れた席に南蔵の若い職員が三人のみ。
神主は静かにグラスの水に口をつけた。擦り傷が痛む肘を気にしながらも、彼に怯えた素振りは窺えない。
生涯、何度もない衝撃を受けた弥那山は、すっかり毒気を抜かれてしまった。観念したと言うよりは、憔悴しきった、が適切か。
やっとまともに話せそうだと、桐治は身を乗り出した。
「朝はなんで逃げたんだ?」
「……怖かった。魔は、本当に恐ろしい」
「神主なら、あんなのいくらでも縁があるだろうに」
「郷岐にはいない。南蔵は浄化された地だ」
種返しの伝統がある南蔵では、もうずっと昔に黒い魔は消滅したらしい。他の地方から侵入してくる魔は、狗玉が退治してくれる。
「狗玉――宿命球は退治用に撒いてるのか」
「狗玉に選ばれた者には、近付いてはいけない。魔を引き寄せるから」
「“魔”とか大袈裟なんだよ。たかが虫じゃん」
郷岐神社の境内には、狗石と呼ばれる巨岩が存在する。伝説に登場する岩として人々の参拝を受けているものの、真の狗石は本殿に安置された丸石だ。
水晶球にも似た不思議な丸石の周りには、人知れず小さな
隔年で集めた球を湖に撒き、土地を護ってくれる
この風習の意味をちゃんと理解している者は、南蔵でも一握りの人間だけ。
今では“玉返し”は“種返し”となり、“南蔵の狗”の掛け声は“なんぞにいね”と変わってしまった。
「しかし、なんで兼崎湖に撒いたんですか?」
これはミキからの質問だ。
「南蔵に撒いても、もう狗人が生まれないんだ。魔がいないと玉は主人を選ばず、歪んでしまった挙げ句に漂着してしまう」
「そうなったのが、カバンに入ってる“出来損ない”ですね」
彼女が神主の傍らに置かれたボストンバッグを指すと、彼はそうだと頷いた。
南蔵が浄化されても、他の土地にはまだまだ魔が蠢いている。
魔を恐れる弥那山は、伝統儀式も続ける一方、機会があれば他所でも種返しをしてきたのだと告白した。
漂着した不完全球は、丸石の近くに置いておけば、いつしか姿を消すと神主は言う。
これが丸石のエネルギー補給なのか、不完全品を放置すると何か害があるのか、それは彼にも分からない。
回収すべしとの伝統に従って、兼崎に再訪しただけだった。
「人騒がせな話だなあ。他人の迷惑を考えろ」
「これが正しいと……申し訳ない……」
魔を討つ大儀は尊いものと信じてはいても、実際に狗人に会い、怒りをぶつけられれば彼に返す言葉は出ない。
自分の恐怖心を思い返せば尚更で、眼前の青年もどんなにか恐ろしい目に遭ったのだろうと想像する。
小さく肩を
「その狗人の役目、どうやったら解消される? 一生ってわけじゃないよな」
「自然と消える、としか。死ぬまで狗人だったという人物は知らない」
「自然って。日焼けみたいに言うなよ」
まったく、厄介な伝統を持ち込みやがって。無責任な神主に呆れた桐治は、天井を仰ぐ。
ミキも解決策が聞けなかったことに落胆し、ピザを食べるスピードが半減した。
もう少し
このくらいで放してやることに決め、桐治たちは神主を職員に引き渡した。
弥那山は帰り際、深々と頭を下げて謝罪の気持ちを表す。そのポーズ通り心から反省してくれよと、桐治は思わざるを得なかった。
コインパーキングに停めた車に戻る桐治とミキ。そこで白い自動車にへばり付く、未だ興奮冷めやらぬ州然を見て、さすがに彼らも絶句した。
沈静化していないどころか、絶賛スケッチ中だ。
「まだやってるのか……」
「桐治さんからも言ってやって。私も神主さんの話、聞きたかったのに」
瑠美にしては珍しく、ミキの物真似のように口を尖らせた。
せっかくモデルが動かないのに、描かない馬鹿がいるかとゴネる州然も、桐治たちの説得で何とか帰宅を承諾する。
片眼鏡があれば、亀でも虫でもまた観察すればいいだろうに、ここまで執着するとは。
次の機会を設けるようにと念を押しつつ、州然は娘を連れて紀多へ帰って行く。
彼らと別れると、桐治も車を発進させた。助手席にはミキ、後部席には黒い亀。シートベルトをするために、亀は人のように甲羅を立てて腰掛けている。
帰宅の前に、この亀を野上のアトリエの近所に放り出そう。少し寄り道して帰る車の中、彼は今日得た知識を元に、宿命球について考察を続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます