15. 修復師

 桐治が割れた玉の前にしゃがむと、ミキもその惨状に気が付く。玉の片割れを持ち上げる彼の側へ、彼女もライトを持って走り寄った。


「ひどい! なんでこんな……」

「柿長は玉のせいで倒れたと思ってる。まあ、それは本当だろう。何とかしようと、庭に投げ捨てたんだ」

「こっちの壺は?」

「これは多分――」


 砕けて中身が飛び散った小さな壺については、静村が教えてくれる。青年も二人を追って、靴下だけで庭に降りて来ていた。


「柴犬の骨壺です。協会が手配して、犬の亡骸なきがらは火葬しました。玉と一緒に夫妻へ渡したんです」

「じゃあ、この白い粉は骨? そんなものまで投げたの!」


 信じられないと憤慨するミキと違って、桐治には八重美の行動が想像できた。

 彼女を襲ったのは、玉から発生した凄まじい冷気だ。あまりの冷たさに、庭に投げたんだろうが、その程度では収まらず、骨壺にも原因を求めた。

 おそらく、昏倒したのはその時。壺が割れた瞬間、八重美の身体は氷点下に冷え、機能を停止した結果があの低体温症ではないか。

 この推測を聞いたミキは、それでは丸きり「玉の呪い」ではないかと指摘する。


「そりゃ呪いの定義にもよるけどさ。別に犬の怨霊が現れて、八重美に噛みついたわけじゃない」

「冷やされるのと、どう違うんですか?」

「八重美が勝手に冷えたと思い込んだ・・・・・んだ。実際には気温は下がってないよ」

「思い込み、ですか……」


 呪いにせよ、霊にせよ、実体化したような例は知らないし、有り得ないと彼は力説する。

 ただ自己暗示のような恐怖だけが、人を本当に傷付けてしまう。


“呪物”、その呼称を使うのを桐治は嫌がったが、コブシ玉は強力な呪物であろう。呪物は人の心をそのまま返す。

 悪意には悪意を、恐れには恐れを。

 玉が返した冷気は八重美の恐怖を育て、遂には凍らせてしまう。


「暗示はタチが悪いぞ。斬られたと心底信じ込めば、本当に傷が出来て血が流れる」

「恐いですね。やっぱり、私にはちょっと呪いに思えるな……」


 二人が話している間、静村はコブシ玉のもう片方を抱えて、途方に暮れていた。眉を八の字に垂れ下げて玉の断面を撫でる彼に、桐治が助け舟を出してやる。


「玉はまだ温かい。直してやろうか、この玉?」

「ええっ、直るの!? 本当ですか、狭山さん!」

「金は取るぞ。修復賃は、相場で一ま――うっ」


 桐治の脇腹に肘鉄を食らわすと、ミキがずいっと前に進み出た。

「十万円です。十五万円のところ、五万はサービスしましょう」

「それは助かります! 十万なら、玉の管理予算から捻出できそうだ。掛け合ってみます」


 本領を発揮した女子大生に呆れつつ、桐治は必要な作業を静村な指示する。

 割れた玉と細かな破片は桐箱へ。

 骨壺に入っていた灰と骨は、可能な限りでいいので、ビニール袋に移す。ゴミと骨を混ぜるくらいなら、拾い残す方がいいと桐治は伝えた。


 静村にライトを貸し、家の中に戻って行く彼をミキが追いかける。

「狭山さんは拾わないんですか?」

「調べなきゃいけないことがあるだろ。ミキもこっちを手伝ってくれ」


 二人は手分けして、家捜しを開始した。

 桐治は居間からキッチンへと回り、ミキは玄関回りを見た後、納戸を覗いてから桐治と合流する。


 彼の探し物は、食卓に乱雑に積まれた手紙類の中にあった。取り上げた請求書の差出人は、『はたたるシルバーセンター』だ。

 その封書をポケットに捩込ねじこんだ桐治に、ドラッグストアの袋を持ったミキが声を掛けた。


「これ、納戸にありました」

「……殺鼠剤か」


 包みは開封され、半分以上使われた形跡がある。一緒にビニールに入っていたレシートによると、購入したのは先月頭だった。


「辻妻は合うな。これが犬の死因っぽい」

「証拠……にはなりませんか」

「あいつらを犬の殺害で告発するのは難しいだろうよ。でも、罰は充分食らったんじゃ?」

「そうだといいんですけど」


 静村の方も仕事を終え、大事そうに玉とビニール袋を持って現れた。

 物が揃えば、この家に用は無い。三人は車に戻り、ミキが静村から荷物を受け取った。


「修復が完了したら、また電話してください。取りに伺います」

「明日の夜には終わってると思う」

「は、早いですねえ」


 驚いた顔を作りつつも、青年はかなり嬉しそうだ。桐治の態度に、修復できると期待が高まったのだろう。

 静村と別れ、紀多市のアパートへと帰る道中、ミキが今後の予定を尋ねた。


「修復は今夜からやるんですか?」

「いや、明日にするよ。準備も必要だし。帰ったらバルサーを片付けないと」


 この言葉で、彼女も虫退治をしていたことを思い出す。

「それそれ、虫! もういなくなったんですよね!」


 残念ながら、彼の返事はミキの期待には応えてくれなかった。

「あのさ、バルサー焚いたら、Gはいなくなる?」

「G……あっ、ゴキブリですか。しばらくは、いなくなりますけど……」

「だろ? ずっとは無理だと思う。ただ、血文字は処理したから、減りはするんじゃないかな……黒いやつ」


 彼女は少しガッカリしたものの、改善するならと納得する。私もバルサーを買ってこよう、そうミキは決めたのだった。





 翌日の月曜はブランの定休日。

 いつもより遅く、八時半まで寝た桐治は、午前中に仕入れを済ませて、自宅で昼食を取っていた。

 手早く食べ終わり、ラーメン鉢を洗っていると、玄関のチャイムが鳴る。


「こんにちは、狭山さん」

「ああ、ミキか……塩?」


 カメラ用の三脚と、大きなカメラバッグを肩に掛けた瑠美が、ミキの後ろに控えていた。


「昨日、ちゃんと写真を撮らなかったって、塩さんに怒られたんです」

「今日は私が撮ります。このデジタル一眼でね」


 コブシ玉の破損と、その修復を受けたことをミキに報告され、瑠美は喜び勇んで出陣してきた。

 本格的な修復作業を間近で見られると、親のカメラまで持ち出して来る始末だ。


「そんな面白いもんじゃないぞ。店でやるから、来るなら手伝ってもらう」

「任せて下さい。BGM用の読経CDも用意しました」

「キミがそれをいつ聞いてるのかが気になるよ」


 桐治の仕度ができると、三人は閉店中のブランへ。作業はカウンターと厨房で行う。


 彼が裏に必要な資材を取りに行く間に、瑠美は三脚にカメラを固定して、撮影の準備を整えた。

 カウンターに並べられたのは、白い布巾に乗せられた玉の破片、乳鉢と乳棒、筆とヘラ、蓋の付いた小さなガラス瓶。

 瓶に入っているのは、静村が懸命に集めた犬の遺骨――いや、もう遺灰か。鉄箸でザクザクと突き刺して骨を細かく砕くのが、昨晩寝る前の最後の仕事だった。

 雑巾とメンディングテープ、それに接着剤。


「……これ、木工用のボンドじゃ?」

「そうだよ。速乾性のやつ」


 えらく安易な修復材に、瑠美の目が細められる。どうも彼女は、得体の知れない呪術道具の登場を期待したらしい。


 厨房には古い鍋と、寒天が固まったような茶色い棒が一本。鍋に水を張り、湯を沸かして棒を溶かす作業をミキが担当する。

「よく掻き混ぜて、ドロドロになったら教えてくれ」

「了解でーす」


 厨房は彼女に任せ、桐治は割れた玉の接合を始めた。大きな半球を二つ、両手に持って噛み合い具合を確かめる。

 明るい場所で見ると、半球にも何本か疵が走っており、元の美しさは損なわれていた。


 早速、瑠美のシャッター音がうるさい。

 割りと簡単に正しい合わせ方を探し当て、彼はチョークで玉に印を付ける。


 もっと細かい破片もあったが、そちらは小さ過ぎて、どこから割れたものか見当がつけづらい。

 二つほど隙間を埋めるパーツが分かった時点で良しとし、彼は接着に移った。


 木工用ボンドが、玉の断面に塗られるのを見て、瑠美が小さく呟く。

「ホントに接着剤でくっつけるんだ……」

「接着剤に、他の使い方なんかあるか?」


 半球に小さなパーツを二つ乗せ、さらに上からもう片方の半球を被せる。はみ出たボンドを、布とヘラで丁寧に取り去り、テープを貼って第一段階の終了。


「なんか思ってたのと違う。術式成分が足りない。臭い」

「臭い?」


 瑠美の嘆きに合わせて、厨房でもギブアップの悲鳴が上がった。

「臭いです! この茶色いの、めちゃくちゃ臭い!」

「我慢してくれ。そういう物なんだよ」


 煮詰まった飴状の茶色い液体を耐熱グラスに移し、タオルで巻いてカウンターに運ぶ。

 少し冷めるのを待って、その液体をスプーンですくい、茶碗ほどの大きさの乳鉢へ注いだ。


「これはにかわですね。でも、こんなに臭かったかな」

「さすが芸大生には馴染みがあるか? これは合成膠じゃないからな。獣の骨髄で作ると、かなり臭いんだよ」


 桐治はスプーンを替えると、今度は犬の遺骨を乳鉢へと入れて行く。鉢を乳棒でゴリゴリと混ぜる姿を、瑠美は熱心に撮影し出した。


「少し呪術感が出て来ました。これって、胡粉ごふん?」

「そういうこと。貝じゃなくて、骨だけどね」


 日本画などで使う白い絵の具は、貝殻などのカルシウムを原料としている。桐治はそれを犬の遺灰で作ろうとしていた。

 白さは絵の具に劣るが、主眼はそこではない。


 膠と骨粉がしっかり混ざると、また双方を注ぎ足して、擦り潰す作業を繰り返す。

 客席側に移動して彼の仕事を見守るミキに、ファインダーから目を離さない瑠美。


 十分近く、ひたすら乳棒で擦り続けた結果、鉢に半分ほどの自家製胡粉が完成した。

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