30. 郷岐の神主

 瑠美の家に寄って彼女を拾い上げた際、桐治は車を降りて背中を見てもらった。言われるままに目を凝らし、瑠美は黒い汚れを指摘する。


「ここ、シミが出来てますね。なんかこう、モワーッと」

「シミならいいんだ。シミなら」


 彼女にすら見えにくいなら、大抵は汚れで押し通せるだろう。安心した彼は、一路兼崎へとハンドルを繰った。

 観光協会の事務所は、湖から少し離れた兼崎駅の近く、商工会議所の七階建てビルの中に間借りしている。

 ビル裏の駐車場に車を停め、正面玄関に回ると、小吹田が彼らを迎えてくれた。


「協会は三階です。エレベーターへどうぞ」

「ありがとう。みんなもう来てるのか?」

「南蔵のメンバーは、後二十分くらいは掛かるかと」


 桐治たちの立場はオブザーバーで、市や協会の仕事に関わるつもりはない。

 会議室の真ん中に固められた長机、その左右に並ぶ席は両市の会談用。三人はそこには座らず、部屋の隅で事が終わるのを待つことにした。

 南蔵からのゲストを案内するため、小吹田はまた玄関へと降りて行く。


 協会理事、市の産業観光部部長、教育委員会や県の役人が集まる中、野上も書類鞄を提げて到着した。

 桐治を見つけると、彼はにこやかに駆け寄る。


「狭山さん、あなたのお陰で、面白い写真が撮れた。アドバイス通りだったよ」

「そりゃ良かったです。また亀に会えたんですね」


 今日は何よりこれを見て欲しかったのだと、野上は大きく引き伸ばした湖畔の写真を差し出した。カラープリントではなく、印画紙に焼き付けた白黒写真だ。

 やや暗い湖面から突き出た黒い影。粒子が荒く、細部は判然としないが、知っている人間なら何を撮ったか直ぐ分かる。


「沖に帰るところか」

「おお! 君なら分かると思ったよ。食事に満足して戻っていく後ろ姿だ」


 カネッシーの貴重な初画像として、写真は協会に贈られるらしい。

 写真を見てもらえたなら、もう僕の仕事は終わりだなどと笑いつつ、野上は兼崎側の席に着く。


 また宣伝材料が増えて喜ぶ小吹田の顔が、桐治には容易に想像できた。暫くして、その元気溢れる青年が、南蔵一行を連れて会議室に入ってくる。


「今日はよろしくお願いします」と軽く言葉を交わした後、彼らは机の片側に着席。小吹田の司会で各代表が挨拶し、メンバーの紹介が行われた。


 桐治が注目した人物は唯一人、郷岐神社の神主、弥那山みなやま昂蓉こうよう

 大層な名前だが、本名かどうかまでは分からない。白髪混じりの六十代といったところで、ニュース動画よりも老けて見える。

 地味なスーツにネクタイ姿で現れたため、小吹田の説明を聞いて初めて彼が神主だと知れた。


 今後の交流事業の説明、各市でのイベントと予算案、野上氏を始めとする人材派遣の計画について。

 桐治たちには退屈な話し合いが、一時間半ほど続く。


 最後に南蔵市の観光協会理事による挨拶で締め、会談は円満に終了した。この後、南蔵側は兼崎市長を表敬訪問する予定だが、まだ少し時間が有る。

 一階のラウンジで休憩してくださいと、小吹田が案内したタイミングで、桐治は弥那山へ近付いた。


「郷岐の神主さんですね。狭山と言います。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」

「ええ……構いませんが」


 他のメンバーは、もう部屋を出ようとしている。

 兼崎側も上役は同行し、会議室には片付けのため、小吹田たち雑用担当が残るだけだ。


 身分のはっきりしない桐治と若い女性二人を前にして、神主は怪訝な表情を隠せない。それでも、この部屋にいて誰も咎めないということは、桐治たちも関係者ということ。

 とりあえず促されるまま、大人しく着席すると、弥那山は用件を尋ねた。


「私にお話とは?」

「これをご存じですね?」


 上着のポケットから、桐治が宿命球を出して神主に見せる。

 艶やかな透明球を一瞥した途端、彼の表情筋はあからさまに強張った。返事を求め、質問がもう一度繰り返される。


「この球を、知ってますよね?」

「…………」


 沈黙する弥那山を威嚇するように、鼻先へ突き付けられる球。神主は頭を引き、球から逃げるように顔を背ける。

 右を向いた顔を追いかけ、桐治が球を握った手を伸ばすと、顔は直ぐさま反対側へ。

 球を左にすれば、顔は右へ。


 ブルンブルンと首を振る弥那山へ、苛立った桐治が声を荒げた。


「アンタ、知ってるから逃げるんだろ。なんで黙ってるんだ」

「し、知ってる……から、近づけないでくれ!」


 どうも宿命球を嫌がっているようにしか見えないが……撒いたのはコイツだよな?

 不可解な神主の態度に彼が首を捻っている隙を突いて、弥那山は席を立つ。


「まっ、また今度、文書で――そう、手紙を書くよ。今日はこれで失礼させてもらう」

「いや、説明さえ聞けば、俺たちは納得するから」


 まだ帰らせまいと、桐治も両手を広げて立ち上がった瞬間、神主は奇声を発した。


「キエェーッ!」


 大声を上げたまま、弥那山は自分の書類鞄の底を探り、畳まれた白い紙を取り出す。薬包紙のようなその紙の中身は、一握りの白い粉。


「落ち着けって」

「寄るな、消えろ!」

「うわっ、なにすんだよ!」


 神主は粉を摘み、桐治目掛けて力一杯撒き散らした。上着に付いた粉を払い落としている間に、弥那山は一目散に走り去ってしまう。

 騒ぎに驚いた小吹田は、彼を追って部屋から出て行き、桐治たちは呆然と顔を見合わせた。

 瑠美が床へしゃがみ、神主の撒いた粉を指先ですくう。


「これは……塩ですね。さすが本職の塩人しおんど

「俺は荒巻鮭かよ。調理される謂れはないぞ」


 調理された原因を指摘したのはミキ。


「前に来てます。胸の下辺り」

「あ、ああっ!」


 自分の上着を見下ろした彼は、いつの間にか移動していた黒いシミと目が合った。塩が染みるのか、平面毬藻はパチクリと瞬きを繰り返す。


「お前のせいかよ。しかし、あそこまで逃げなくてもいいだろうに」

「虫嫌いの神主さんも、いるんですねえ」


 話を聞けば帰るつもりが、これでは空振りにもほどがある。一階に降りた桐治たちへ、小吹田が神主のその後を報告してくれた。

 弥那山は市役所に同行した後、昼食会に出席し、兼崎で回収された宿命球モドキを持って駅に向かう予定だ。

 桐治には会いたくないと言っており、近付けないよう厳命された。


「狭山さん、何かしたんですか?」

「してないよ。いきなり逃げたんだ」

「まあ、怒ってるわけでは、なさそうでしたけど……」


 弥那山があの調子では、無理やり話し掛けても、喋ってはくれないだろう。

 神主が新幹線に乗るのは三時過ぎ、今は十一時。南蔵一行はラウンジから出て来て、移動用のバスに乗り込もうとしている。


 自分の車に戻った桐治はボンネットに腰掛けて、神主に話をさせる方法に頭を捻った。

 ミキも彼の隣、車のドアにもたれ掛かる。


「諦めて手紙を待ちますか?」

「悠長過ぎる。何か知ってるのは間違いないんだ」


 瑠美は彼らの正面に立ち、唇に指を当てて、同じく方策に思考を巡らせていた。


「いっそのこと、さらいます?」

「物騒だな、おい。そこまでしなくても、何とかなりそうだけど……」

「だけど?」

「時間が無い。瑠美の親父さん、呼び出せないかな」

「今日は家にいると思います。何をさせる気ですか?」


 桐治の考え出した作戦に、ミキと瑠美は耳を傾けたのだった。





 瑠美の父、篠田州然の役割は時間稼ぎ。急な話なのは承知の上で、南蔵市の一団への挨拶を申し入れてもらう。

 桐治は挨拶だけしか考えていなかったが、州然は絵の寄贈を約束してもいいと言う。作戦を聞いて、えらく乗り気になった彼自身からの提案だ。


 寄贈まで言明されては、向こうも無下にはできない。帰郷の新幹線を遅らせて、画家との顔合わせの時間を作ることとなる。

 これで一時間は予定がずれ、州然次第ではもう半時間くらいは延長できるだろう。


 この間に、桐治は準備のため車を飛ばす。

 ミキと瑠美の担当は、買い出しと一団の監視。神主の状況は、電話で逐次彼へ伝える手筈である。

 今一つ事態が飲み込めないながらも、小吹田は彼女たちの移動を請け負ってくれた。


 十一時三十分、兼崎市長と面談。十二時三十分から二時まで、昼食会。

 その後、各種業界団体との懇親を図り、篠田州然は三時に遅れて到着する。


 ゆっくりもったりと話す州然の努力の甲斐あって、南蔵の一団が解放されたのは、四時になろうかという時刻だった。

 駅に向かうバスの後方、小吹田の車の中で瑠美が電話を握る。


「桐治さん、まだですか?」

“駅前に来てる。もうちょっと掛かりそうだけど……神主は今どこだ?”

「そっちへ向かうところです。あと五分くらい」

“多分、大丈夫。あっ、親父さんはいる?”

「はい、隣に」

“眼鏡渡しといて”


 瑠美の予測通り、バスは五分後、四時二十分に駅前に着いた。

 続々と降りてくる南蔵のメンバー、そして、彼らに買い替えた新幹線のチケットを配る若い職員。


 皆が改札へ向かって進み出す中、最後にバスを降りて来たのが、ターゲットの弥那山だ。集団の最後尾を、新たに増えた大きなカバンを抱えて神主が歩く。


「ぎいぃえあぁーっ!」

 本日二回目の奇声が、夕方の兼崎駅構内に響く。

 先を行く関係者だけでなく、通りすがりの通勤客たちも、一斉に彼へ振り返った。


「た、た、助けてくれぇっ!」


 踵を返し、泡を吹きながら逃げ出そうとする弥那山。

 慌てて回れ右をしようとしたため、震える足がもつれて、その場にカバンごと倒れ込んでしまう。

 駅を指差す彼の顔は、ブルーハワイ並みに青い。


 夕焼けを背に浮かぶ駅舎には、改札前を塞ぐように、巨大なナナフシのシルエットが張り付いていた。

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