01. 球

 コンビニで弁当を買い、店から歩いて二十分のアパートに帰った桐治は、キッチンテーブルの上に荷物を投げ出す。


 顔を洗い、椅子に深く腰を下ろすと、彼は天井の染みを数え始めた。

 右隅から数えて、全部で八箇所。昨日と変わらず。

 変化も無ければ意味も無いが、多少、ささくれた彼の気持ちも治まるというものだ。


「さっさと食うか……」


 コンビニの袋に伸ばした手は、しかし、途中で止められた。

 シャツの胸ポケットの膨らみが、今日の災難を甦らせる。

 忌ま忌ましげにポケットに指を突っ込み、球を摘むと、彼はテーブルの上に転がした。


 球はコロコロと机の中央まで進み、ミネラルウォーターのペットボトルにぶつかって止まる。

 蛍光灯の光を受けたガラス球が、隣の半端な透過物を嘲笑うようにきらめく。


 先のクレームで得た六個は、店のゴミ箱に直行させた。明日、もう一度それらも拾い直した方がいいと桐治は思案する。

 こんなことが続くなら、警察に通報することも考えるべきだし、その時は証拠品も必要だ。


 不幸の源を睨みつけ、明日の朝の指針を決めると、彼の夕食が開始された。

 から揚げ弁当を掻き込みながら考えるのは、やはり嫌がらせの犯人である。


 どうやってもバイトの子が怪しいものの、彼女を疑う気にもなれない。

 多少、我が儘でドライな気質でも、腹に何か抱えるような陰湿さは感じなかった。

 彼自身が面接で選んだ子であり、自分の人を見る目も信じたい。


 弁当の中身をあらかた片付けて、萎びたレモンの輪切りを咀嚼しつつ、ガラス球を手に取る。

 照明にかざすと、球は完全な透明ではないことが分かる。


 中には何やら黒い紐状の――何だろう。

 栓抜きのような、クエスチョンマークのような。ヒジキを思わせる紋様に、彼の目が細められた。

 思い出すことも減った父親が、ここに来て頭によぎる。

 マニアックな紋様図鑑が、父の蔵書にあったはず。この形の意味は、さて何だったか。


「もうこういうのは卒業させてくれよ。受け入れたかねえぞ……」


 その内部にある黒い印以外には、一点の曇りも無く、ガラスにしては美し過ぎる。

 金属ほどではないが、やや重く、皮膚に貼り付くような冷たさが感じられた。

 妙な触感は、案外、値打ち物にも思える。とすると、単純な嫌がらせではなくて、呪いをかけられたとか。

 マイナス方向に傾き始めた思考を、桐治は首を振って追い払う。


 ――やめやめ、明日は万事上手く行くさ。


 天井の染みを左から目で追い、九つを数えたところで、彼はシャワーを浴びにバスルームへ向かった。

 汗とほこりを落とすと、一日の緊張が解けて眠気が襲ってくる。

 夜更かしするくらいなら日の出前に起きる方がいいと、彼はさっさと寝床に就いた。


 だが、あまりに早く寝たためだろう。真夜中に目が覚めてしまい、結局起きてキッチンへ行く。

 照明も点けず、弱い常夜灯の明かりを頼りに、机の上に置きっ放しのペットボトルを引き寄せた。

 渇いた体の内側へ、冷たい刺激が注がれ、半開きだった目も機能を取り戻す。


 テーブルの上の安っぽい時計、その蛍光の針によれば、今は午前三時。

 起きてしまうには、まだ少し早い。

 もうちょっと寝るか、と空になった容器を乱暴に置く。


 奥の居間へ向き直った瞬間だった。

 天井から、黒い影がポトリと落ちる。

 入居者が少なく静かなこのアパート、小さな落下音でも聞き間違いはない。

 続いて起こるフローリングを這う微かな異音に、彼の耳が引き付けられた。


 ――最悪だ、あれだけはダメだ。


 何年も一人でがむしゃらに生きてきた彼は、精神力も随分と鍛えられた。

 吠え猛る犬だろうが、強面こわもてのオヤジに対しても気後れすることはなく、蜘蛛やムカデも平気。

 夜の墓場で踊って来いと言われれば、墓石を叩いてリズムを取るだろう。やれとは言われないし、怒られるからしないだろうが。


 そんな桐治が唯一、苦手とするもの。直視を避けるために、つい顔を歪めてしまうものが、害虫の王、ゴキブリだった。

 なぜと言われても、生理的にとしか答えようがない。これだけは、世の多くの主婦と彼が共有する数少ない感情である。

 Gと略する呼称を考えた人物にすら、彼は感謝していた。


 対Gの備えならある、各部屋に一つずつ。

 壁際の棚下に、すかさず手を伸ばし、目で見なくともその缶を掴む。

 氷撃バスター・アルティメット、“正義は我が手に有り”。


 わずかな空気の震動を聞き漏らすまいと、桐治は床に神経を尖らせ、バスターを構える。


「そこか!」


 退路を断つべく、音の発生源の奥へとガスが噴射された。

 彼へ向かって、カサリという響きが近付く。

 来るなら来るな。来る前に殺す。


 氷結の弾幕が扇状に形成され、接近者を迎え撃った。

 黒い染みが床を滑り、テーブルの下を潜り抜ける。

 必殺のガスを浴びて尚、相手は彼の足元へと寄って来た。


 おかしい、大き過ぎると、桐治の額に嫌な汗が吹く。

 二十センチを超えるGなど、存在するものか。

 スプレー缶を右手に握り締めたまま、彼の左手は照明のスイッチを求めて壁をまさぐった。


 パチリ。

 蛍光灯が、対峙する者の姿を光に晒す。

 黒く大きな毬藻。但し、無数のうごめく触手の隙間から、体表を走る濃く赤い筋がチラチラと覗く。


「なっ……?」


 細かな管虫を連想させるが、あるはずも無い空気中の波に揺らめく。

 禍々しい漆黒のその物体は、人の部屋に在っていいものではなかった。


 狂気の産物が、目を見開く。

 そう、そいつは、丸い身体の中央の毛を二つに分け、体長そのままの目をあらわにした。

 サイズ以外は、化け物らしからぬ人によく似た一つ目が、彼を見据える。


「あ、あ……」


 缶を握る手が強張り、白く色を失って行く。

 桐治は異形を前に膝を突いた。


「あっ……アホかあぁーっ!」


 力一杯、氷撃バスターが目玉に向けて振り下ろされる。

 ゴオンという反響音が、金属缶を震わせた。


「Gじゃねえじゃん! 心臓が止まるかと思ったわ」


 小さな侵入者を潰すべく、バスターが幾度となく叩き付けられ、黒毬藻は必死で目を閉じる。


「ギギギギッ!」

「うるせえっ、あっ、こら!」


 触手の一部が伸びたかと思うと、彼の右手に絡み付き、缶と手先が毛に覆われた。

 立ち上がった彼は、追撃のための武器を探して、左手をテーブルの上に伸ばす。

 ペットボトルを掴むと、自分の右手に張り付いた黒塊へ打ち下ろした。


いたっ! くそっ、離れろ」


 痛みは自ら叩いた打撃に因るものだ。

 ペットボトルは毛に絡み取られ、缶に続いて奪われてしまう。

 武器が要る。新たな武器が。


「この野郎!」


 有効打になるとは思っていなかった。小さな球は殴り付けるのに向いた形状ではなく、何故そうしたのか彼自身も不思議だ。

 そこに当然のように在ったから、か。彼はガラス球を握った拳で、黒毬藻を思い切り殴った。これでもかと。


 ガラス球を持とうが、握り拳で叩いたのでは、もう素手で攻撃しているようなものだろう。

 球は手の中に収まる大きさで、黒毬藻に直接触れるのは手の方だ。


 しかし、桐治の掌中には、確かに熱が発生していた。

 化け物には不愉快な、彼には何か昔を思い出させる暖かさ。

 陽溜まりの縁側、冬の炬燵こたつ、そんな連想を頭に浮かべつつ、彼の真アルティメットな打撃が炸裂する。

 拳が毛玉の中へめり込んだ途端、電撃を浴びたように毛の群れが逆立った。


「ギギッ、ギギギッ! ギッー!」


 断末魔の金切り声を上げ、毛が吹き飛ぶように四散する。

 フワフワと浮かんだ毛の霧は、すぐに黒みを失い、空中に溶け去った。


「な、何なんだよ、もう……」


 人知を超えた生き物も、寝ぼけた彼には睡眠を妨害する只の虫。それよりも――。

 桐治の視線が、また球へと注がれる。

 冷たく光る球から感じた郷愁は、眠気と共にどこかへ消えていた。


「……やっぱり、値打ち物かもしれん。売れないかな」


 この手の物には関わりたくなかった彼も、虫への威力を目の当たりにして考え直す。

 一応、大事に仕舞っておこうと手頃な箱を探した彼は、シンクの横に立て掛けてあった空箱に目を付けた。


 氷撃バスターを定位置に戻し、代わりに箱を取り上げてテーブルに置く。

 取引先から貰った焼き菓子の詰め合わせで、クッキーはもう全て彼の胃の中だ。

 仕切り板を捨ててスッキリした金属の箱へ、球を入れて蓋をする。


「Gの野郎のせいで、体が温まっちまったよ。いや、毬藻か」


 ぶつくさと独り文句を呟きながら電気を消して、今一度布団へ潜り込む。

 睡魔を再召喚するべく、頭の中に数える対象を思い浮かべる。


“黒毬藻が一匹、黒毬藻が二匹……黒毬藻が三匹……”


 増殖する毬藻たちを、彼は脳内でリズム良くプチプチと潰した。

 軽快な作業のイメージが、やがて彼を夢へと誘う。


 犠牲になった毬藻は、四十二匹だった。

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