14. 冷気

 何の家具も無いダイニングキッチンへ、桐治は靴のままズカズカと上がって行く。

 蛍光灯は嵌まっていないので、窓からの月明かりだけが照明だ。手提げの紙袋から彼が懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。


 ライトに照らされようが、中央に立つ黒い影は薄まりもせず揺らぐだけ。試しに宿命球を持つ手で払ってみると、一瞬消えた後、またモワモワと黒い霧が集まった。

 大胆な彼の行動に、ミキは戸口から思わず声を掛ける。


「狭山さんっ、か、影っ!」

「ん、こいつか?」

「そ、そ、それは!?」

「影だよ。今日は大きめだね」


 影は影、それだけだと、桐治はにべもない。影を産んでる虫を退治しないと駄目なのだと、彼は説明した。


 そう言われても、ミキは部屋に入ろうとはしない。だが、飛んで逃げ出さないのは、今までの彼女を考えれば賞賛に値するだろう。

 恐さを紛らわせるためなのか、彼女の質問が次々と発せられた。


「その影、う、動いてますよね!」

「揺れてるんだよ。戸が開いて、温度が変わったからだろ」

「温度?」

「この手の影は冷たいんだ。温めると――ほら、鰹節を熱い物にかけると揺れるじゃん?」

「ああ! お好み焼きとか、お吸い物とか?」

「それそれ」


 喋りながらも、桐治は部屋のあちこちに球を掲げてみる。

 シンクの下、影の生える床、壁。宿命球は左壁に当てた時、鈍く光った。


 この部屋で首を括った若い女は発見が遅れ、大家が訪ねた時には既に腐乱した状態だったと聞く。

 溶け落ちた肉は床に汚濁の水溜まりを作り、猛烈な異臭と黒ずみを残した。

 影が立つのは、その染みがあった辺りに違いない。そのため、桐治も床ばかりに注目していた。


 しかし、球が反応したのは壁。

 彼は壁紙の継ぎ目を探し、隙間を見つけると、爪を立ててめくりに掛かる。


「球は役に立つな。探知機代わりにも使えるとはね」


 上から下へ継ぎ目を広げて行き、指が入るほどのスペースが出来ると、壁紙の端を掴んで一気に引き剥がした。

 ベリベリと騒々しい音を立て、壁の半分ほどのクロスが垂れ下がる。


 懐中電灯の光が、剥がれた先の壁を照らすと、中を覗いていたミキが引き攣った声を出した。

「ひっ!」

「……これが原因か」


 一面に、どす黒いインクで書き殴られた文字。

“死ね、死ね、シネ、殺す”

“シネ、コロス、絶対に、ユルサナイ”


 拳くらいの大きさの字で、ビッシリと前の住人の恨み事が書き連ねてある。

 壁を埋め尽くす字のせいで、元の壁の色すら判別しにくい。


「大家が悪いんじゃないか。上から貼って隠すとか、いい加減なことするからだ」

「こ、この、字が、原因!? 恨んで怨霊になったの?」

「血文字だよ。玉と同じで、人の血や肉は虫の餌になるんだ」


 桐治はスクレーパーを取り出し、残る壁紙も全て剥がしてしまう。

 文字は御丁寧なことに、床の近くまで書き込んであり、綺麗に消すのは骨が折れそうだ。

 洗浄は明日に回そうかと思案する彼は、ふと球で血文字を擦ってみる。


「コ…ロ…ス…っと。おっ、これは!」

 字が消えはしないものの、球の軌跡に沿って色が失われた。赤みが無くなり、薄墨で書いたようなグレーに変化する。


「ホントに便利だな、球。おーい、ミキも手伝ってくれ、球ケシの出番だぞ」

「この部屋に入れと! 私に!」

「一人でなぞるには、量が多いんだ。大丈夫、何も危険は無いって」


 普通なら、いくら頼まれてもミキは手伝いやしないだろう。影の立像はまだいるのだ。

 ところが、桐治に影響されてなのかは分からないが、えいっとばかりに彼女も部屋に入った。


「お、お邪魔します。こんばんは」

 ミキは律儀に頭を下げて、部屋を横切り、彼の傍らに立つ。


「球で字を書く感じで。袋にライトももう一個入ってる」

「はい……」


 二人で取り組めば、壁一面でもそう時間は掛からない。

「し……ね……し……ね……こ……ろ……すっ」

「音読はやめてください」


 血文字の浄化が終わると、彼女は後ろを振り返り、影が消えたことに気づく。


「やった! 影の人、いなくなりましたよ」

「あれは単なる影だって。虫が寄って来てるのを退治しとかないと」

「まだ何かやるんですか?」


 口で言うより、行動の方が速いと、彼は紙袋からガムテープを出して、窓の目張りを始めた。

 自分の出番は無さそうなので、ミキはまた部屋の外に退避する。十分も経たずに桐治も外に出て、今度は閉めた扉の周囲にガムテープを貼り出した。


 彼の持って来た紙袋の中は、ライトを取る時にミキも覗いており、何をやっているかは察しているものの、一応尋ねてみる。


「この音ってもしかして?」

「バルサーだ。虫によく効く」


 噴出式殺虫剤バルサー。床に固定された缶から、今ごろ勢いよく室内に煙が噴き出しているはずだ。この文明の利器に、これまで何回世話になったことか。


「バルサーって、虫……というか、黒いのにも効き目があるんですか?」

「もちろんだ、虫なんだから。Gも毬藻もイチコロだぞ」

「へ、へえー……」


 唯一の難点は、しばらく部屋に入れなくなること。外で待つには、三時間は長い。

 一度、自分の部屋に戻るため、二人が一階に降りた時、桐治の胸辺りから鈴の音が鳴った。





“狭山さん、大変なんです! 今、病院にいるんですが――”


 泡を食った静村の声が、携帯のスピーカーから流れる。やや音が割れてしまっていて聞き取り辛い。


 秦樽市民病院、その救急診療者用のロビーから、青年は電話を掛けていた。病院には柿長夫婦が緊急搬送され、現在、二人とも入院したそうだ。


 ブランが閉まる少し前、午後七時頃に帰宅した柿長の夫は、縁側に面した和室で昏倒する妻を発見する。

 慌てて救急車が呼ばれたが、家に隊員が到着した際には、夫も妻の横で気を失っていた。

 病院で治療を受けて夫は意識を取り戻したものの、八重美はまだ酸素マスクをして目を開かない。

 喋れるようになった夫が呼んだのは、親でも友人でもなく、静村だった。


「柿長はなんで倒れたんだ?」

“原因は分からないんです。低体温症だと、医者は言ってました”

「……酷いのか?」

“ご主人は、もう話せる状態です。奥さんも心肺機能は回復して、明日には喋れるだろうって。ただ――”


 末梢組織壊死、要は手足の先は切断することになるだろうと言うのが、医師の見解だった。特に八重美の症状が重く、指は残らない可能性が高いそうだ。


「で、なんで君が呼ばれた?」

“ご主人が、玉を捨ててくれって。玉にやられたんだって、譫言うわごとみたいに繰り返してました ”

「コブシ玉の呪いのせいだってか。まあ、回収、頑張ってくれ」

“何を他人事みたいに! 狭山さんも来てくれないと困ります。 ボクまで凍えたらどうするんですか!”

「えー? オカルトは信じないって言ってたくせに……」


 桐治は一度強引に通話を切り上げたが、また直ぐに静村から着信があった。青年の必死さに根負けして、彼も車で秦樽に向かうこととなる。


 虫退治グッズを自室に片付けて、桐治が外に戻ると、薄手のコートを着たミキが待ち構えていた。

「どういうこと?」

「凍死防止です。もっと着込んだ方がいいですか?」

「違う、コートじゃない。ミキもついて来る気か」

「あー、私も寝たいんですけどね。塩さんに約束させられてるんです。自分がいない時は、代わりに写真を撮っといてくれって」


 二○三号室に突入した結果、彼女の肝が据わったように見える。柿長が倒れたと聞いても、臆する素振りは無い。


「まあいいか。さっさと行って片付けよう」

「車で三十分くらいでしたっけ」

「この時間なら道も空いてる。もう少し早く着くだろ」


 静村とは秦樽駅前で待ち合わせ、車で柿長の家まで先導してもらう手筈だ。彼らが駅に着いたのは、それから二十分後、午後九時を少し過ぎる時刻だった。





 話に聞いていたように、柿長の家は垣根も立派な二階建ての日本家屋である。家の前に車を横付けし、桐治たちは門扉から玄関へと歩く。

 ミキとは初対面の静村は、一から事情を説明しようとして、彼女に止められていた。


「瑠美ちゃんといい、狭山さんの店は可愛い子揃いですね。羨ましい限りだなあ」

「前を見てないと、コケますよー」


 玄関の鍵は開いており、三人は中に入ると、まず八重美が倒れてた部屋を探した。

 部屋を一つ過ぎた先の廊下が、縁側に続く。

 縁側に面した広めの居間は、外へ通じる半分ガラス張りの障子も、部屋のふすまも全て開け放たれていた。


 茶卓の上の散乱具合から、ここが二人が倒れた場所と思われる。

 静村が照明のスイッチを入れ、部屋が明るくなると、床に横倒しになった桐箱が皆の目に入った。


「玉が入ってない……どこかに落ちてませんか?」

 青年は床を這いつくばって、コブシ玉を探す。

 そんな彼を放置して、持って来た懐中電灯で庭を照らす桐治とミキ。


「柿長が犬を殺したのなら、なんで庭に埋めなかったのか不思議だったんだ」

「これじゃ埋められないですねえ」


 庭はそれほど大きなものではなく、大半は石組みの池が占めている。その周囲も石畳と苔生した岩で埋められ、掘り返すような土の地面が存在しなかった。

 晩年、作庭に凝り出した多江の夫によるオリジナルの小型庭園であったが、センスのある出来とは言い難い。


 軒下にあったサンダルを履き、桐治は庭に降りた。正面にある最も大きな庭石の裾を、彼のライトが照らし出す。


 砕けた陶器の壺、飛び散る白い粉。それらから少し離れて転がる二つの半球。


 コブシ玉は、八重美の手によって、真っ二つに割られていた。

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