13. 真っ黒
チャーハンと春巻きにコンソメスープ、店の残り物を適当にボウルに盛ったサラダ。
家から持ってきた冷や飯に、近所のスーパーで買った春巻きを合わせて、そこそこボリュームのある晩飯の完成だ。
炊飯器はまだ無いが、中華鍋が新しく店に導入された。もっとも、この鍋が活用できるような販売メニューはなく、純粋に桐治たちの賄いに使うだけである。
配膳を手伝いながら、瑠美の聞き込みに成果はあったのか、ミキが尋ねた。
「有ったどころか、あの女、悪評だらけだったわ。静村さんが、もうちょっと使える人だと、捗ったんだけど」
「彼、頼り無いの?」
「頼り無いと言うより子供っぽい、かな。詳しく知りたい?」
「あっ、静村くんの話はどうでもいい」
手厳しい二人の言葉を聞き、皿を並べる桐治が青年を庇ってやった。
「そう言ってやるなよ。また休日潰されたんだろ、彼は。仕事熱心じゃん」
「まあ、やる気はありましたね。孫みたいって、年寄りウケは良かったし」
皆は席に着き、ミキと瑠美が手を合わせる。チャーハンを口に運びつつ、瑠美が調べてきたことを話してくれた。
「柿長の家……かなり大きい一軒家でした。庭付きの……んぐっ」
「食い終わってからでいいぞ。舌噛みそう」
「大丈夫です。そこ、本来は八重美の家じゃないらしくて」
柿長夫婦は、今年の七月初旬に秦樽へ引っ越してきたばかりだった。
それまでは旦那の親夫婦が住んでいたのだが、夫が春に亡くなり、老いた妻が一人暮らしをしていたそうだ。
近所に古くから住む御意見番のような老人がおり、柿長家の事情を聞き出すのに苦労はしなかったと言う。
引っ越してきた若夫婦は近所付き合いが悪い上に、今度の犬騒動だ。噂話好きの老人たちにすると、話を聞きに行った瑠美たちの訪問は、待ってましたと言わんばかりだったらしい。
「柿長多江さん、柴犬はこのお婆さんが飼っていたんです」
「玉は、その婆さんのか。家にいるんだろ?」
「それが、どうも今はいないみたい」
「えっ、じゃあどこに行ったんだ」
近隣の住民にも、多江の行方を知る者はいない。おそらく介護施設に送られたのだろう、皆はそう予想していた。
独居老人となった多江の元に、息子夫婦がやって来る。母を施設に入れ、代わって息子たちが家へ。
「家が欲しくて来た、そこまで言うつもりはないが……」
「施設に連れて行けない犬が邪魔になった、そうは思いませんか?」
「うーん」
比較的、彼女と親交のあった老婦人が、いなくなる前に話をした最後の人物だった。彼女が言うには、多江は介護施設の世話になること自体は、覚悟していたそうだ。
“息子に迷惑かけちゃ悪いもの。ただ、テンちゃんと別れるのがねえ……”
息子は高校卒業後に家を出て以降、秦樽には寄り付かなかった。勤め先も分からず、近所との交流も皆無。結婚していたということも、近所の人々は今回初めて知る。
多江の夫は寡黙な仕事人で、夫婦で連れ立って歩くところを見た者は少ない。
彼女の連れはテンちゃんであり、数年前、足を悪くするまでは、犬の散歩に付き合う姿が朝の定例だった。
夕食を終え、桐治は締めのコーヒーに、女性陣はミキの用意したミルクティーに移る。
柿長家の事情を知って、ミキも八重美に真っ黒判定を下した。
「どうにかならないんですかねえ。家も玉も八重美の物じゃないのに」
「婆さんの居場所を聞くしかないだろうな。静村は何て言ってた?」
ノートに書き物をしていた瑠美が、ペンをカップに持ち替え、顔を上げた。
「月曜日に、八重美と面談するそうです。買い取りにしろ、玉の展示許可にしろ、多江さんと話したいって」
「そこからだろうな。ゴネそうだけど、金も絡むし、向こうも折れざるを得ないだろ」
紅茶を中程まで飲み、彼女はまたノートに向かう。その勤勉さが気になった桐治は、何を書いているのかと尋ねた。
「議事録です」
「えっ、何の?」
「第三回球会議の議事録。家でまとめるんです」
一瞬、言葉に詰まった彼は、人差し指を目の前でクルクル回したかと思うと、その指をビシッと彼女の顔に突き付けた。
「気合い入り過ぎだろっ! 将来何になるつもりだ。球ソムリエか? 球仙人か!?」
「私は真剣です! 未だ解明されざる呪術の世界を、私が世に知らしめるんです。球を
「俺が嗤ってるのは、球じゃない。球じゃないんだ……球じゃ……」
もっと言えば、彼は嗤ってるのでもなく、心配しているが正しい。
見た目も知性も、絵の才能にも恵まれているらしい篠田瑠美。なのに、なぜ球なんだ。
芸術家の一家らしいが、親御さんは娘の球キチぶりをご存じなのだろうか。一度電話を入れるべきか。いや、面倒だ、放っておこう。
そんな思考を反芻しつつ、彼は食器の片付けを始めたのだった。
◇
瑠美と別れ店からの帰り道、桐治とミキは呪術狂の同僚について、話の花を咲かせる。“あれじゃ彼氏なんて出来ないですよねー”が、ミキの出した結論だった。
アパートの一階、六部屋並んだ内、真ん中の二つが彼らの住む部屋だ。彼が自宅の中に入ろうとした時、一つ奥の部屋を借りたミキが小さな悲鳴を上げた。
「きゃっ……」
「どうした?」
玄関から顔を出して、そのまま様子を窺う桐治。
一度閉まった彼女の部屋の扉が、しばらくしてまた大きく開いた。ミキは果敢にも、箒で毬藻を掃き出そうと一人で奮闘する。
ギギギギと穂先にへばり付いて抵抗する黒毬藻は、彼女が箒を振り回すと景気よく吹き飛び、夜の車道へ消えて行った。
「おう、成長したなあ」
「何度も手本を見せてもらいましたから。それに、この毬藻、威嚇すると怯むんですよ」
爪を立てる仕草をして、彼女はガオーッと吠えてみせる。こんなお遊戯のような恫喝でも、黒毬藻は毛をワサワサと逆立てて硬直したらしい。
「この毬藻って、上から落ちて来ません? 二階はもっと多いのかな」
「そうかもね」
「たまにドタドタ響いて来るし……上に住んでるのは若い人ですか?」
「……そうかもね」
「…………?」
言葉少ない桐治の態度に、ミキは訝しく問い質した。
「隠し事、してますよね?」
「隠してはいない」
「してますよねっ?」
「誤解を放置しただけだ。どうも面倒なことを言い出しそうだからさ」
毬藻の扱いを見る限り、もう彼女も無闇に怖がったりしない。世間じゃ嫌われるらしいオカルト風味も多少は平気だろうと、彼はミキの成長に期待する。
一呼吸置いて、桐治はゆっくりと彼女に告げた。
「このアパート、二階に住んでるヤツはいない。今は俺たちだけだ」
「…………!?」
ああ、生きながらにして、人の顔はこんなに白くなるのか。
酸欠の金魚の顔真似を始めたミキの肩を、彼は両手でガッシリと掴んだ。
「毬藻は怖いか?」
口を開けたまま、彼女は小さく首を横に振る。
「そう、虫は虫。二階にも虫がいる、それだけだ」
「……でも、音が大き――」
「建て付けが悪い。言っただろ、このアパートは古いんだよ。虫が暴れると、音が響くんだ」
桐治の確固たる口調に、ミキの血色も次第に赤みを取り戻した。何度か口を開こうと繰り返した後、彼女は最後に力を込めて、彼に提案する。
「退治しましょう。虫は根絶すべき」
「いやあの、二階の部屋は全部閉まってるし……」
「大家さんに鍵を借りて来ます!」
「今日はもう遅いから。寝よ?」
階上から音がするくらいで怯えていたら、マンション住民は全員ノイローゼになってしまう。
そんな例えで説得すると、ミキも夜中に大家宅に押しかけることはせず、この日は大人しく自室に入って行った。
瑠美と二人の日曜営業を無難に過ごし、桐治がアパートに帰って来たのは、夜の八時頃。部屋の前では、ミキが完全武装で彼を待ち構えていた。
「やっぱりやるのか……大家は?」
「オバさん、来ないって。鍵だけ渡されました」
「横着だなあ」
三角巾を口周りと頭に巻き、両手には箒と塵取り。大掃除ならそれで正解だが、二階に行くならもう一つ欲しい。
「球は持ってるか?」
「はい、ここに」
彼女はエプロンの前ポケットをポンと叩く。
宿命球は、黒毬藻には特効薬のように効いた。二階の
今までは無視していた二階の異音も、ここ数日は
荷物を部屋の中に放り込むと、桐治もやっと害虫駆除にやる気を見せた。
玄関先に置いてある駆除セットの紙袋を左手に、右手で自分の宿命球を出す。最近では、球はいつも上着の内ポケットに入れていた。
「敵の本拠地は二○三号室だ。さっさと片付けよう」
「それって……桐治さんの部屋の真上?」
「そうだ。鍵は俺が持つよ」
二人は階段を上がり、問題の部屋に直行した。
開かずの間となった部屋の扉の鍵穴に、桐治が鍵を差し込むのは、これで二度目。一度目は前職時代、依頼された仕事は完遂できていない。
“部屋のクリーニング”、要は染みを抜くだけの作業のはずだった。
しかし、何度フローリングを貼り直そうが、桐治が洗浄を施そうが、一週間程で染みが復活してしまうのだ。
修復師の仕事が好きでなくても、やり残したままでは不愉快であり、それがわざわざ真下の部屋を借りた理由である。家賃の安さも、もちろん魅力的なのだが。
「行くぞ」
「はいっ」
彼が鍵を回し、扉を開いた。部屋の中から溢れ出た冷気が、残暑の熱を吹き飛ばす。
「久しぶりだな」
黒い影法師が、埃の積もったフローリングの上にユラリと立ち上がった。
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