33. 球はあなたの元に
ドロドロに溶けた球を見て、桐治は茜に包帯を外すように言う。
「消えた、無くなったぞ!」
「ホント? もう大丈夫なの!?」
少女の問い掛けに、ミキや瑠美も大きく頷き、父親は万歳三唱で祝福する。茜は嬉しさのあまり、顔を手で覆って泣き出してしまった。
どちらの球が親となって吸収するかが問題だった。
力が同等なら、先に溶けて受容力を高めた方が受け入れる側。この彼の推測は、無事に成功を導いた。
桐治もまた、何か変化が無いか瑠美たちに身体を点検してもらう。
全裸になる気は無いので、袖を捲る程度ではあったが、ミキが右肘の裏に紋様が浮かんでいるのを発見した。丸い紋は、さっきまで茜にあった印だ。
弥那山によると、狗人のマークは神代文字であり、彼も表わす意味は知らない。
郷岐神社の本尊には、そんな印が一揃い浮かんでいるらしく、いずれ自分の目で確かめるのもいい。休みが取れれば、だが。
伝承がどこまで信用できるかはともかく、球に選ばれた証であることは間違いないようだ。
茜が済めば、次はミキ。桐治が彼女の球を寄越すように言うと、ミキは首を傾げて考え込んだ。
「ほら、さっさと混ぜようぜ」
「……これじゃ、桐治さんは狗のままですよ?」
どうやら、桐治の思惑を理解して、彼を球への
「鬱陶しいけど、俺ならまだマシだろ。部屋の毬藻が増えるだけだし」
「でも、紋様は? 印がどこに出るか、分からないじゃないですか」
「別にどこだっていいよ。まあ、顔は多少困るけどさ」
「か、顔はダメです! おっ――」
「お?」
ミキの顔が赤く見えるのは、火焔宝珠のせいではないだろう。真正面から桐治の目を見たかと思うと、彼女はまた顔を背けて言い放つ。
「お……お婿さんになれませんよっ!」
最後の最後で、ミキは文末を変えてしまった。
皆の前で言うのは恥ずかし過ぎたからだが、これでは女縁に薄い桐治には伝わらない。
「なれないかなあ……」などと頭を掻く彼を見ている内に、ミキの頭も冷めてくる。慣れない話題に困惑し、締りが無くなった顔は鎮静効果が高い。
「はあ……まあ、そういうことです。私ももう少し待っときます」
「ミキこそ、お嫁さんになれないって――」
「私はしばらく結婚なんてしませんっ」
この宣言をもって、球の合成作業は終わり。
例の如く消火器が粉を噴くと、宝珠は鎮火して、溶けていた宿命球も徐々に熱を失う。常温に戻る頃には、スープ化していた宿命球も、また最初より一回り大きな真球に結晶化した。
フィルムを逆回転させるような光景は、瑠美の嗜好を多いに満足させる。
実のところ、先ほどのミキの発言にも興味津々で、いつ彼女を問い質そうかと手ぐすね引いていた。
ともかくも、茜を救った呪術師を、彼女は心から称えた。
「感服したわ。あなたこそ球に見込まれし男、
「どこから思い付くんだ、そういうキャッチフレーズ」
宝珠を本殿に戻し、半木から清掃料と掃除機の買い替え代金を貰う。娘を治してくれた御礼を後日、改めてしたいと、神主は桐治に何度も感謝した。
この何ヶ月か見名瀬神社を困らせた異変も、これで鎮静化するはず。
桐治自身の宿命球に関しては何も解決はしていないものの、茜の笑顔を見られたことで、紀多へ帰る彼は
◇
十月も末に近づくと、ブランもハロウィンに合わせて飾りが増える。
小さなカボチャの置物に、白いオバケの人形。尻子像にも、オレンジと紫のリボンが結ばれた。
客足の途絶えた夕方、瑠美はメールチェック、暇潰しに来たミキはアフォガートを味わっている。
「えらく熱心にスマホを見てるな。何か面倒事か?」
「火焔宝珠の一件で、また問い合わせが増えたんです」
「……ちょっと待て。見せてみろ、それ」
瑠美のスマホを無理やり覗いた桐治は、彼女が見ていたのが店のアカウントへのメールだと気付く。
「おい、なに勝手に球の依頼を受けてんだ! ブランを乗っ取る気かよ」
「諦めてください。これも
「そうそう、毬藻にもすっかり懐かれてるし。私の紋様が消えるまでは、付き合ってもらいますよー」
黒毬藻は毎朝、桐治の着る服に染み込むことを覚え、今も背中に居座っている。こいつにも困ったもんだ。
俺は喫茶店のマスターであって、呪術師じゃない。そう彼が定番の文句を言おうとした時、ドアベルがカランカランと鳴り響く。
――いらっしゃいませ!
とある地方都市にある一風変わった喫茶店、ブラン。洒落たホームページには、品書きや店への地図が掲載されている。
コーヒーを飲みたいわけじゃない?
そんな人は、トップページの最下部へどうぞ。つい数日前、そこにはメールへのリンクと、意味有りげな一文が書き加えられた。
“球の悩み、よろず承ります”
あなたの側にも、ほら、球があるかも。
あなたの隣に球とコーヒー (旧版) 高羽慧 @takabakei
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