第三球 球な人たち

17. 見名瀬稲荷

 金曜夜、閉店後のブラン店内。

 今夜はミキと瑠美の二人で夕飯を作ってくれる。

 それは結構なことなのだが。


 独り店の椅子に深々と腰を降ろし、桐治は慌ただしかったこの一ヶ月を振り返っていた。

 店の粗利は、ほぼ事前の予想通り。派手な利益は望めなくても、彼が生活する分には困らない。


 バイト二人の評判は良く、瑠美の作ってくれたホームページもオープンした。

 今風の高級感のあるデザインは、個人経営の店には勿体ないくらいで、これも非常に結構だ。


 各テーブルには、開店時には無かった備品が増えている。アクリル球に切り込みが入ったメニュー立てに、同じくアクリルの小さなテーブルライト。

 伝票ホルダーはアルミ製に置き換えられ、扉近くに置かれたスチールの傘立てやフライヤー用のラックも、実に洒落ている。


 では、なぜこの喫茶店のマスターは、表情が冴えないのか。

 その元凶が、涼しい顔でパスタを運んで来た。


「ボンゴレ・ビアンコ、アサリのスパゲッティです」

「うん、実に美味そうだよ。それはいいんだけどさ。篠田さん、最近毎夜、店に来てるよね」

「半分は出勤日です」

「その出勤日も、閉店後ずっと残ってるじゃん?」


 何か問題でも、と言わんばかりに、彼女は眉を上げて見せる。

 連日開かれる球会議。次々と持ち込まれる球鑑定。


 店の備品の購入資金は、彼女が受けて来た依頼の報酬で賄われた。センスのいい小物を選んでくれることに関しては、感謝している。

 ポテトスープを鍋ごと持って来たミキが、彼の愚痴を先回りして封じた。


「まあまあ、狭山さんが呪術の仕事を嫌がるのは知ってますけども。それだけ、球で困ってる人が多いんですよ」

「そう、ミキの言う通り。世は空前の球時代」

「見たぞ、そのキャッチフレーズ。店の案内ページに書くのはやめろよ」


 細いラインフォントを使おうが、喫茶店の謳うセリフではない。

 食事が始まって、またぶつくさ言い出した彼を無視して、瑠美とミキは球談義を楽しんだ。


「球もいろいろあるんですねえ。ウサギ玉が可愛いかったですよ」

「桜玉の方が神秘的だわ」


 コブシ玉以降、いくつか喫茶店に玉が持ち込まれたが、どれも無害な球体だった。珍しい、それだけだ。

 宿命球をあれだけ恐がった二人も、今では宝石やガラス球感覚で玉を寸評している。脅したくはないものの、少し危ういと、桐治は感じた。


 食事の後、ミキはコーヒータイムに合わせて、丁寧に包まれた菓子箱を開封する。白い求肥ぎゅうひに焼き印が押された、小さく丸い饅頭の並び。

 その箱の蓋を取り上げ、瑠美が出所を尋ねた。


「誰かのお土産?」

「昼にブランに来たオジサンが持って来たんです。球関係のお客さん」


 球と聞いて、瑠美の目が嫌な光り方をした。詳細を聞こうと口を開きかけた彼女を、桐治が片手で制して止める。


「この話は引き受けない。危険過ぎる」

「危険? 鑑定するだけでは?」

「修復依頼だよ。秦樽での一件を聞いて、飛んで来たらしい」


 兼崎北部、湖の端にある見名瀬みなせ稲荷神社の宮司が、饅頭の持参者だった。約半月前、神社に伝わる宝珠に大きなヒビが入ったのだと言う。


「見名瀬は神社とは呼ばれてるが、神社会にも所属していない土着信仰のやしろだ。本尊の珠、あれは気軽に触れるものじゃない」

「見たことあるんですか?」

「十年以上前にね。本尊が割れたなら、寿命なんだよ。役割を果たしたんだ」


 宮司にはいくつかアドバイスをして、様子を見るように伝えてある。一点、桐治に気掛かりなことがあるとすれば、場所が兼崎湖畔だということだった。


 この彼の説明だけでは、今ひとつ要諦が分からない。瑠美は更に詳しく聞こうと、ノートを出して構えたが、先にミキが空気を読まずにクスクスと笑い出した。


「このお菓子、親玉饅頭って名前なんだって。可笑しいですねえ」

「ちょっと、ミキ、今は饅頭より球の話が先!」

「いや、饅頭も少しは関係あるぞ」

「饅頭が?」


 セロハンに包まれた饅頭を一つ取った彼は、その焼き印を二人に見せた。縞の入った丸、その上に枝分かれして伸びる幾筋もの線。


「何に見える?」

「うーん、温泉マークかな」

「……もしかして、宝珠?」


 瑠美の答えが正解だ。

 親玉饅頭、この名を冠した店や名産は、関西を中心として全国に多い。親玉の玉は宝珠。珠を模した饅頭には、必ず宝珠の焼き印が押されている。

 稲荷社とも縁が深く、見名瀬稲荷の近所でも古い親玉饅頭の店が存在した。

 しげしげと焼き印を見ていた瑠美は、その湯気のような模様を指で差す。


「丸いのが珠だとして、この上に出てるのは何?」

「火だよ。この玉は火焔宝珠だ。見名瀬の御神体も同じ、但し――」


 古い記憶を思い返す桐治を、二人の女子大生が見つめた。


「普通は宝珠なんて、ただの綺麗な丸石だ。でもな、昔見たあそこの火焔宝珠は、まだ生きてた」


 それが何を意味するのか、この後の彼の話を、瑠美は熱心にノートに書き写す。

 三人で食べ切れなかった饅頭は、ミキが全て持って帰った。





 意志を持って動く珠、人に語りかける珠。“玉が生きている”そう桐治が言うのは、何もそんな文字通りの意味ではない。

 元より、彼は物の怪や霊魂など信じてはいないのだ。

 それでも、自分がここまで携わった呪物の持つ力は、経験則として身に染みている。人の心を砕く珠や呪具は、確かに存在した。


 見名瀬の御神体である宝珠は、よこしまな人間には悪意を跳ね返す。力の強さは先のコブシ玉の比ではなく、いい加減に扱えば、桐治と言えど珠に飲み込まれしまうだろう。


 今時、生きた珠など、どこの寺社に行こうが見ることは少ない。彼の父は後学のためにと、若い彼を連れて見名瀬稲荷に連れて行ったのだった。


 厨房で皿を洗いながら、考え事をする桐治へ、瑠美が注意を促す。

「ぼーっとしてると、落として割りますよ」

「ん……昔を思い出してたんだ」


 土曜の暇な夕方、彼女は話し相手を求めていた。客がいなければ、瑠美も手持ち無沙汰だ。

 洗ったばかりのカップを二つシンクの上の棚から出し、彼は余らせてしまったブレンドコーヒーを注ぐ。


「今日は客が少なかったな」

「イベントが多いんですよ。運動会とかもやってるし」

「ああ、そういう理由か」


 カップを受け取った彼女は、ブラックのまま口を付け、昔話の内容を尋ねた。

「思い出してたのは、宝珠のことですか?」

「キミと違って、球のことなんて普段は考えないよ――と、言いたいんだけど」

「図星ですね」


 曇り一つ無い琥珀色の宝珠。彼の記憶にある珠は、手鞠より大きく、紫の座布団の上に鎮座していた。

 当時、本殿の中を案内してくれたのは、親父の知り合いだった老齢の宮司だ。昨日来たのはその息子で、高校教師を退職して、亡くなった父の後を継いだらしい。


「そんなに危ない珠なんですか?」

「うん……それに、修復するのは難しいんだよ。素材が手に入らないから」

「宝珠の原材料って?」


 興味津々で質問する彼女に、桐治は真剣な顔で忠告した。

「普通に生きている人間には、怪奇現象なんてものは存在しない。けどな、キミみたいなのが、一番危ないんだ」

「私みたい――霊感が強い人?」

「違う、怪異を信じてる人間だよ。八重美を見ただろ。信じ込んだ末路はああなる」

「それじゃあ、信じることが悪いみたいに聞こえるわ」

「自分を傷付けるのは自分。どうしても球に関わりたいと言うなら、それだけは肝に銘じておいてくれ」


 いつになく厳しい口調で話す桐治に、瑠美も言い返すことはせず、彼の言葉の意味を考える。


 画家と彫刻家の二人から産まれたせいだろうか、篠田瑠美は幼少から美術、それも幻想的な作品に強い憧憬の念を抱いていた。

 高校に進学した頃から、彼女の嗜好は幻想から怪奇へ、より暗く日本的な物に移って行く。狭山桐治の名前を知り、彼に会おうと思った理由も、純然たる好奇心からのものだった。

 しかしながら、宿命球に遭遇した瞬間、それは趣味の範疇を超える。怪奇が自分に降り懸かる事態に、瑠美は怯えた。

 恐ろしくなったはずだった。


 半分を飲んだコーヒーに、彼女は改めてミルクを注ぎ足し、スプーンで掻き回す。

「狭山さんといると、なんだか怖くなくなるんですよ。呪われても、解決してくれるんじゃないかって」

「ひたすら呪いを信じるよりはマシか。解決するのは、自分自身なんだけどな」


 今度は彼女が珍しく、子供っぽい笑顔を見せた。

「そう言ってても、助けてくれるんでしょ?」

「……塩でも撒いとけ。俺よりよっぽど効く」


 この日はそれ以上、二人の間で呪術の話が出ることは無く、喫茶店の内装や大学生活について他愛のない話が交わされた。


 翌の日曜はミキが出勤し、その夜には瑠美が顔を出す。

 目的は、またもや球会議という名の夕食会。ミキにすると、三人分の食事を作る方が経済的で助かるらしい。


 遂に炊飯器が導入された厨房で、焼き魚に味噌汁という純和食が準備される。

 出来た料理を店のテーブルに並べ、いただきますと箸を持ち上げた瞬間、鍵の掛かったブランの扉が叩かれた。


 タイミングの悪さに顔をしかめ、桐治が訪問者を中に入れてやる。血相を変えて飛び込んで来たのは、見名瀬稲荷の現宮司、半木なからぎ恭造きょうぞうだった。

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