08. 河童
「どう見ても亀じゃん。甲羅があって、四つ脚」
「髪の毛がモシャモシャじゃないですか!」
現れた“亀”は甲羅の周りに大量の黒髪が生えており、尻尾の位置には数メートルの毛の束を引きずっている。
海亀を思わせるサイズは、亀として常識外れとまでは言えないが、湖から出現すればミキが叫ぶのも当然だった。
「長生きすると、毛が生えるんだよ。絵でもよくある」
「そう言われれば、そうですね」
相槌を打ったのは瑠美。スマホを縦に横にと構え、亀を画像に収めようと忙しく動く。
一度はしょげ返っていた彼女も、こんな“亀”なら大歓迎だ。
「それにほら、甲羅と毛を組み合わせると似てるだろ?」
「……ああ、河童の頭ですね!」
今度は中津が、ほほう、と感心した声を出す。なるほど、河童伝説の源は、万年生きた亀だったかと彼は納得したようだ。
始終冷静な桐治に感化されたのか、皆は逃げもせずに接近する毛亀を眺めるものの、ミキだけは後退を続けて車の近くまで戻ってしまう。
逆に桐治は、亀と同じく玉に向かって歩き出した。
手には凧糸の端を握って、巻いてある軸は瑠美に手渡す。
「糸が途切れそうになったら、次の凧糸に結ぶんだ」
「え? あ、はい……」
一メートルほどの近さになっても、桐治と亀は歩みをやめない。
亀が彼の手の届く範囲に来ると、ようやく双方が玉を挟んで立ち止まった。
桐治はしゃがみ、亀は直立する。そう、この生き物は二本の後ろ脚で、人のように立ち上がったのだ。
曝け出される白い腹、その腹には渦巻く黒紋様。しばらく黙っていたミキが、後方から叫んだ。
「ぎゃあぁーっ、立ったあっ! やっぱり河童――」
亀がヨチヨチとその場で回転して甲羅を彼女たちに向けた途端、ミキは沈黙し、今度は中津が叫ぶ番となる。
「か、か、顔が! 甲羅に顔がっ!」
「汚れてるだけだ。黒点が三つあると、人の顔に見えるんだ。何現象って言ったかな……」
「眉毛がっ! 眉毛まであります!」
「大の男が、細かいことに拘るなよ」
シミュラクラ現象に眉が在るのは百歩譲るにしても、軽く口を開いて微笑むのはやり過ぎだ。
中津はここに来て、エラいことに巻き込まれた気がするが、もう後戻りは出来ない。
意外に瑠美が一番大人しく、ひたすら頼まれた仕事を口の中で繰り返していた。
「凧糸の端を次の凧糸へ。凧糸の端を結ぶ。凧糸の端が途切れそうなら。凧糸が結ぶ。端と端が凧糸」
後ろを向いた亀の尾毛を、桐治が平然と手繰り寄せ、髪をまとめて凧糸で括る。
亀はその作業の意味を、理解しているのだろうか。
固く毛が縛られるのを待って、また四つ脚に伏せると、湖に向かって戻り始めた。
そんな亀を、語気強く桐治が呼び止める。
「待てっ!」
蛇にも似た亀の首が伸び、後ろへグニャリと振り返った。
甲羅上の模様ではなく、本来の亀の顔と桐治が向き合う。
「ソーセージ」
「…………」
黒い巨亀と喫茶店のマスターが、お互いの視線を絡ませた。
「残すなよ。ちゃんと食え」
もう一度、四つん這いのまま亀が体を回す。
尖った口を大きく開き、亀は魚肉ソーセージに貪りついた。
円環の軌跡を辿って八本のソーセージを平らげた亀は、またモソモソと湖に向かうが、そんなことをすればマスターの叱責が飛ぶのは当たり前だ。
「キュウリッ!」
「…………」
「塩まで振ったんだ。栄養バランスを整えろ」
先程より少し大きな円軌道で、亀が十二本のキュウリを追う。
ソーセージに比べると、ややつっかえながらではあるが、見事全てのキュウリは食べ尽くされた。
「よし。食べ物を粗末にしたらイカン」
凧糸を付けたまま、今度こそ亀は湖に帰る。
水の中に姿が消えた後も、糸はスルスルと引っ張られて伸びて行き、瑠美は二巻き目の凧糸を継ぎ足した。
得体の知れない生物がいなくなれば、ミキも皆のいる場所に寄って来る。
桐治も尻子玉を拾うと、糸の伸び具合を見守った。
陽は完全に沈み、対岸の兼崎市の街の明かりは横一列のイルミネーションのようだ。
言葉少なく糸を繰り出す彼らへ、突然、男のダミ声が掛けられた。
「狭山っ、お前、引退したんじゃなかったのか?」
「……ああ、遅かったですね。今は喫茶店をやってます。頼まれたから、仕方なくですよ」
暗くてよく見えなかった声の主も、岸にまで歩いてくると、顔がハッキリする。
眼光鋭く、男は桐治たちを値踏みするように見回した。
県警捜査第一課の警部補、
桐治にとっては子供の頃からの腐れ縁で、本来なら顔を合わせたくない人物の筆頭だった。
だがそれは柳岡も同じ。結果的に捜査協力となる桐治からの連絡も、後の報告書作成で唸ることを思えば、顔は自然と険しくなる。
「水上警察が、もうすぐボートを回して来る。追いかける先は、その糸か?」
「そうです。後は頼みます」
「さっさと寄越せ……まったく」
瑠美に凧糸を刑事に渡すように言い、今日の亀騒動はこれで終わりだと桐治が宣言した。
遅れてやって来た巡査が、念のためと、桐治たち全員の連絡先を記録する。
柳岡に言われ、喫茶ブランの略地図も書けば、やっと刑事から解放された。
よく分からないが一件落着と、安心して背伸びする中津。その彼に、桐治が尻子玉を返そうとすると、高校生は悲壮な声で拒絶した。
「また玉を持って帰ったら、意味が無いじゃないですか! 夢はもう嫌なんです!」
「だから、玉自体は無害なんだって。記念に取っとけよ、修復の難しい貴重な玉なんだ」
「夢は? 悪夢は見ないんですか?」
「んー、夢は見るかなあ。でも、悪いことにはならないよ、多分」
「多分って……」
どうせ桐治が持ってても、また中津の枕元に現れる。そう脅されて、彼も渋々、玉を受け取った。
重くなったペダルを漕ぐ高校生を見送り、桐治たちが車に乗り込む頃には、柳岡以外の捜査員も岸に集まって来る。
パトカーや警察ボートを横目にして、彼らは帰路についた。
釈然としない女子大生二人が説明を求めるが、彼は明日まで待てと言う。
火曜日はミキの出勤日である。瑠美には水曜に教えると告げると、彼女は猛抗議した。
「待てるわけないでしょ! 私も店に行きます」
「じゃあ、ついでに中津君の様子も聞いといてくれ。電話番号、知ってるんだろ?」
「なら、朝ですかね。夢はどうなったか、尋ねておきます」
瑠美の道案内で彼女を家まで送り、ミキとは桐治の部屋の前で別れる。
面倒事も片付き、気持ちを切り替えた翌日、彼は溌溂とブランの営業に精を出す。
ただ残念なことに、雨となった平日の火曜日は、客の少ない暇な一日となってしまった。
◇
昼下がり、来ない客をボーッと待つミキにカプチーノを恵んでやる。
午前中から降り続く雨のせいもあって、一時を過ぎた辺りからパタリと来客が途絶えた。
なまじ二週目を準備万端で迎えたため、桐治自身も営業中にやるべき仕事が無い。
手持ち無沙汰にカップを拭き出した彼に、カウンターに座るミキが持ち出す話題は、やはり昨日の話だ。
「あの刑事さん、狭山さんが呼んだんですか?」
「そうだよ。こういう時に、世話になってる人だ。なりたくないけどな」
「紐の先を追う気みたいでしたけど……“亀”探しじゃないですよね」
彼はカウンターの下から十日ほど前の新聞を出し、彼女の前に投げ出した。
「瑠美が来てから話すつもりだったんだけどね。読んでみろよ」
「“犯人逮捕”?」
兼崎バラバラ殺人事件。遺体は六部位に切断された上、それぞれ別の場所に遺棄された。
一ヶ月前に胴と足が発見され、ストーカー行為を繰り返していた前夫が任意聴取を受ける。
男がノコギリを購入するところや、夜中に大きな荷物を台車で運ぶ姿が目撃されており、これが十日前の逮捕に繋がった。
ちょうど夏の花火大会や、姉妹都市との友好イベントが目白押しの時期だ。
兼崎への観光客の数が減ることが懸念されたが、そちらは
ミキが記事を読んでいる時、私用を済ませた瑠美が、ドアベルを激しく鳴らせて駆け込んで来た。
彼女に続き、乱暴に扉を開け柳岡も顔を出す。こちらは駆けっこには慣れたもの。息を荒らすことなく、開口一番、桐治に愚痴った。
「このお嬢ちゃん、駅で見かけたから、車に乗せてやろうって声を掛けたのによ。逃げることはないだろう」
「不審な人の車には乗りません」
「昨日、会ったじゃねえか」
「顔の造りが不審です」
駅前の交番近くに車を止め、柳岡も瑠美を追い掛けて店まで走ったらしい。
いくら小降りになったからと言って、雨の中を駆ける彼女たちは目立ったことだろう。
濡れた二人はミキを挟んで座り、桐治の用意したタオルで身体を拭きながら、新聞記事を覗き込む。
刑事の方は、すぐに何を読ませているのか理解し、昨夜からの顛末を報告した。
「コーヒー、ホットで。ちゃんと発見したぞ。対岸まで流れてたんじゃ、簡単には見つからんわな」
「俺の名前は出してないですよね?」
「当たり前だ。後輩に頼んで、匿名の通報が交番にあったことにした。まあ、今回は犯人がもう捕まってるから誤魔化しやすい」
何が見つかったのかは、女性二人にも想像できたが、改めて桐治の口から説明してくれるように頼む。
彼は事の発端、尻子玉から話を始めた。
「長生きしたってだけで、どの亀も尻子玉を作る訳じゃない。原材料が必要だ。そうじゃなかったら、池も湖も尻子玉だらけになっちまう」
解説を待ち侘びていた瑠美が、すかさず質問を返す。
「じゃあ、何で出来てるんです?」
「……人間だ。あの亀は、人を喰ったんだ」
いくら予想していようが、その凄惨な絵面に瑠美もミキも絶句した。
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