07. 君の球は。

 黄緑色の球に透明感は無く、店の照明を映し込んで滑らかに輝く。ミキたちにも、明らかに宿命球とは別物に見えた。

 一瞬、壁に顔を向けた彼は、また視線を戻して球の名を告げてやる。


「こいつは尻子玉しりこだまだ」

「尻子……なんなんですか?」


 耳慣れない言葉に、中津は怖々と聞き返す。

 カウンター内でカップを用意し始めた瑠美には、心当たりがあるらしく、フムフムと独り頷いていた。


「川とか湖で、稀に見つかるんだよ。これ自体がどうこうなるって玉じゃない」

「でも、厄介って……」

「君に害は為さないよ。夢だけだろ、影響は?」

「その夢が恐ろしいんです」




 夜、湖のほとりに立つと、囁く声が耳の奥をくすぐる。


“どこ、どこ……”


 凪いだ湖面が急にざわついたかと思うと、波打際で水が撥ねた。

 何も居ない。

 しかし、確実に何かが、自分へと這い寄ってくる。足元から浸蝕する澱んだ冷気。


“どこ……”


 目を凝らしても、何も無い。

 月の光も、岸に生え揃うあしも、もう何も見えはしないのだ。


 闇の中で立ち竦み、ただ声が少しずつ大きくなるのを、逃げもせずに待ち受ける。

 コーコーと鳴るのは風の音か。

 それとも、誰かの呼気なのか。

 足先は冷たく、耳の裏からは温い吐息が。


“……そこか”


 剥き出しの足首を、生白い手が掴んだ。




「ひっ!」

「うわっ、落ち着け、コーヒーが零れる!」


 訥々とつとつと語られる夢の内容は、女子大生を震え上がらせるには充分だった。

 中津は肉付きのいい体を縮こめて、上目遣いで桐治を見る。


「……とまあ、こんな感じで、もう寝るのが怖くて」

「君、怪談芸で食えそうだね。ちょっと待って、テーブルがビシャビシャだ」


 ミキの手に払われて、ぶちまけられたコーヒーを拭くために、瑠美が雑巾を持って来てくれた。


「どうぞ」

「ああ、助かる……どうかしたか?」


 雑巾を返してもテーブルから離れない彼女を、桐治は不思議そうに見上げる。

 握り拳を作り、瑠美は熱っぽく彼を讃えた。


「一見で玉の正体を看破するその眼力。私の選択は間違ってなかった。あなたこそ最強の――」

「喫茶店のマスターな。割とよくいるタイプ」


 呪術師の片鱗が窺えたことで、彼女は興奮気味だ。

 ミキの方はと言うと、水を飲んで少しは冷静さを取り戻し、最初の桐治の発言について補足を求めた。

 こちらの女子大生も、尻子玉という名称は聞いたことがあったらしい。


「尻子玉って、あれですよね。河童に取られるやつ。うちのお婆ちゃんが、たまに言ってました」

「川なんかで水遊びすると危ないから、年寄りは河童を持ち出したんだ。尻子玉を抜かれるぞって」

「じゃあ、これも河童の……?」

「河童なんて、ホントにいるわけないだろ。大抵は亀の仕業だよ」

「亀?」


 伝説では、河童は人を水中に引き摺り込み、尻から玉を抜いて殺めるとされる。だが、桐治の説明は全く違う。

 極端に長生きした亀が、稀に体内で作る玉、それが尻子玉だ。それ自体は単なる綺麗な宝珠であり、不可解な現象を起こしたりはしない。

 そう教えられても、中津は納得はせず、悪夢との関連性を訴えた。


「夢は玉を拾った日からなんです。捨てても、朝には枕元に復活するんですよ!」

「まあ、気に入られたんだろうね。そこは俺の球と似てる」

「夢を止める方法は無いんですか?」

「それなあ……」


 桐治は背もたれに体を預け、天井を仰ぎ見るように上を向く。

 ブツブツ呟き始めた彼の口元に、ミキと瑠美は耳をそばだてた。


「在庫の補充もしたいし、ケーキ屋にも行きたい……休みでも忙しいから……」


 何となく事情を察した瑠美が、横から助け舟を出す。


「手伝いますよ」

「うん?」

「明日の仕事ですよね。私も手伝うから、早く終わらせましょう」

「そりゃ、ありがたいけど……」


 グズる彼へ、駄目押しの一手が放たれた。


「給料は要りません。無償で」

「お?」


 自分も後れは取らないとばかりに、ミキも手を挙げる。


「私もやります! 無償……カプチーノ一杯で」

「おー……? 別にバイトなんだから、コーヒーくらい奢るけどさ」


 二人応援が来れば、掃除と買い出しは時間を短縮できよう。

 まして給料を払わなくていいなら、本来は諸手を挙げて歓迎したい助っ人だ。

 不安そうに彼の発言を待つ中津に向き直ると、桐治は降参だと言う代わりに頭を振った。


「様子を見に行ってやるよ。明日の夕方な」

「あ、ありがとうございます!」


 待ち合わせ場所は、尻子玉を拾った兼崎湖の岸とする。

 安堵する高校生に地図を書かせると、放課後に玉を持って待っておくように指示した。

 ミキと瑠美には、昼に店へ来るように伝える。


「朝からじゃなくていいんですか?」


 瑠美はやる気満々だが、そこまでは必要無い。


「午前中、俺は外を回って来る。手伝いは午後から頼む」


 悪夢は今夜で最後と自己暗示のように繰り返しつつ、中津は自転車で家に帰って行った。

 店からはかなりの距離があるのに、大した体力だ。


 その後、ミキは街にショッピングへ。瑠美は真面目に店員を務める。

 なんだか呪術ガールの桐治を見る視線が柔らかくなったように感じたのは、彼の気のせいではなかった。





 ブランの扉に定休日の札が掛かる月曜日の昼、瑠美はリストを渡されて、買い出しを任された。

 記された物品のいくつかに首を捻りつつも、彼女は近所のショッピングセンターへと出掛けて行く。


 少し遅れてミキが来店、彼女の仕事は桐治と二人で店の清掃作業だ。

 ゴミを集め、隅々まで雑巾で綺麗に拭いて埃を取る。

 雑誌や新聞をミキが紐でまとめようとしたところ、彼に止められた。

 客用に残すと言うものの、ずいぶん古い日付のものまで捨てずにおくと言う。


 途中で瑠美も戻り、食材を冷蔵庫に入れ、ジャガイモを保管箱へと運ぶ。玉ねぎはネットに入れたまま宙に吊した。

 各自の分担が終わると、桐治は約束のカプチーノを二人分用意してカウンターに置く。


「ちょっと電話してくるから、それ飲んで待っててくれ」

「はーい」

「分かった。球女を聴取しとく」


 瑠美はノートを広げ、リストに従ってミキへ質問を始める。

 わざわざ店の裏口から出て、電話を掛けていた桐治の用件が済んだ頃には、二人のカップはすっかり空になっていた。


「じゃあ、そろそろ行くか。車は隣の駐車スペースに停めてある」


 時刻は四時半、兼崎までは二十分もあれば着くだろう。

 率先してトートバッグを抱えた瑠美が、彼の愛車についてコメントした。

 中古ではあるものの、丸っこいボディが愛嬌のある外車だ。


「あの白い自動車は、狭山さんのでしたか。あまり呪術っぽくありませんね」

「逆に聞きたいんだけど、呪術っぽい車を見たことはあるの?」

「祖母の出棺の時とか……」

「そりゃ霊柩車だろ。君の中じゃ、坊主はシャーマンか」


 発言の珍妙さはともかく、いよいよ今日の主目的に出発できると、彼女は張り切って荷物を後部席へ運ぶ。

 そのまま瑠美は後ろに、ミキは助手席に乗り込み、短いドライブへと出発した。

 湖に向かう道すがら、不安になってきたミキから、あれやこれやと質問が飛ぶ。


「あの……何か怖いことは起きませんか? 足首を掴まれたりとか」

「何もないよ、ただの亀探しだぞ。心配なら、無理についてこなくていいのに」

「気にはなるんです……」


 河童は出るのか、宿命球と関係はあるのか、どの問いに対しても、彼の答えはノーだ。

 本当に亀が相手らしいと、ミキの表情は明るく、瑠美の機嫌は悪くなっていった。


 兼崎湖はそれなりに大きな湖で、観光資源として岸に生えるあしが保護されている。

 到着後、中津を待って作業する内に、湖面は夕陽に染められて輝き出した。

 葦草茂る日没の岸辺は、実に絵になる光景で、瑠美はスマホで撮影を始める。


「さすが芸大生だな。絵の資料にでもするの?」

「レポート作成用です。河童捕獲の」

「河童じゃないし、捕獲もしねえよ」

「じゃあ、買って来た道具は何に使うんですか?」


 トートバッグの中身が、岸の砂利の上に広げられた。

 キュウリ、魚肉ソーセージ、塩、凧糸の巻き束が数個。


「塩を頼んだ覚えはないんだけど。まあ、味付けに使うか」


 桐治はソーセージの包みを開け、一本ずつ円形に並べ、その外周をキュウリで囲む。

 ピンクと緑の小さな二重円の出来上がりだ。

 外円のキュウリに塩を振り掛けていると、またもや自転車を漕いでやって来た中津が見えたため、桐治が手を振って呼び付ける。


「おーい」

「狭山さん!」

「この辺りだろ、拾ったのは?」

「はい、そうです!」


 ボート部の活動場所はもう少し北だが、彼らもクラブが終わってから、この岸を散策したらしい。

 尻子玉を出させると、桐治の指示で、中津はソーセージ円の中心に玉を据えた。


 後は待つだけだ。

 玉を残し、離れて見守る四人。瑠美はまだスマホを持ち、撮影チャンスを窺っている。


「これで河童が来るんですね……やっぱりキュウリが好物なんだ」

「キュウリは一応用意したけど、本命はソーセージだ。で、亀な。河童じゃない」


 山影に隠れようとする太陽、その上辺の光が消えるかどうかという一瞬、昼と闇が混じる。

 湖面から立ち上る夕靄ゆうもやが、黄昏時を演出した。


 ズルリ、ズルリ。

 幽世かくりょの使者が、冷気を伴って靄の中から現れる。

 太く短い足は、爬虫類とも両生類とも判別がつかない。人で無いのは確かだが。

 水面に染み出る影は、長く、黒い。近くに寄るにつれ、影の正体が明らかになる。その身体から伸びているのは、漆黒の髪の毛だ。

 瑠美が撮影する必死のシャッター音がかまびすしい。


「よっしゃ、亀が来たぞ!」


 桐治の歓声を聞き、ミキが我に返る。


「亀じゃなーいっ!」


 夕闇を切り裂く彼女の抗議が、兼崎湖に虚しく木魂こだました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る