06. 二人の女子大生

 小さく鳴るドアベルに、桐治がコーヒーミルから顔を上げる。


「いらっしゃ――ミキか」

「昨日はありがとう……ございました?」

「礼はいらないけど、疑問形はおかしい」


 彼以外、客すらいないのに安心して、彼女は店の中に身体を滑り込ませてカウンター席に座った。

 ビクついた様子は相変わらずだが、昨日よりは幾分マシに見える。

 ハムスターから仔犬にレベルアップした感じだ。


「私、決めたんです」

「カプチーノに? それともエスプレッソ?」

「あっ、カプチーノで」


 ミキは抽出を大人しく無言で待つ。

 カップが目の前に置かれると、スプーンで泡を一すくいした彼女は、おもむろに口を開いた。


「怖がってるだけじゃ、解決しないと思ったんです」

「金は儲かるみたいだぞ」

「まあ、それは魅力的なんですけども。黒いの、やっぱり気味が悪くて」


 少し飲み進め、ミキは改めて決意を表明する。


「この店で働こうと思います」

「ちょっと思考の流れが分からない」

「狭山さんの部屋、隣が空き室ですよね?」

「よく知ってるね」

「見て来ましたから」


 嫌な予感しかしない。

 彼が住むアパートは年代物ではあるが、部屋は広く、家賃も安い。その割に入居者が少なく、空き部屋が多かった。

 所謂、事故物件という奴のせいで、オカルト染みた話を頭から信じていない桐治には、うってつけの場所と言えよう。

 そんなアパートを敢えて見に行く人間は、改築業者か肝試し好き。もしくは――。


「引っ越し手続き、もう済ませました。よろしくお願いします」

「うわあ」

「この店でバイトすれば、完璧ですよね。二十四時間警備」


 実際、瑠美のいない日のために、もう一人雇う計画はあった。

 だからと言って、タダで警護させようと言うのは、釈然としない。


「雇うなら週の半分、篠田さんのいない日だけだ。夜中に虫退治させたら、給料から引く」

「私がいたら、彼女はもう要りませ――ぐぼぁっ!」


 奥から半身を出した瑠美によって、塩の弾幕がミキを直撃した。


「こらっ、店内で撒くな!」

「なんて球女なの。球感が半端無いわ」

「君の塩感も大概だ。雇うかもしれないんだから、ちょっとは仲良くしろよ」

「私は辞めませんからね」


 二日目はブッチギッた癖によく言うと思う。反省もせず店の重鎮を気取る瑠美に、彼も飽きれ顔だ。

 一方、ヒーヒーと顔から塩を払っていたミキは、口直しのコーヒーを飲んで盛大に噴き出した。


「汚ねえっ!」

「しょっぱい! この店のコーヒー、塩が入ってる」

「全部飲んで、体内から浄化すればいいのよ」


 他に客がいなくて助かったと、桐治はつくづく思う。瑠美に掃除をさせて、桐治たちはバイトについて相談をし直した。


 ミキは瑠美の一歳下で、近くの大学の英文科に通っている。

 瑠美も芸術系の大学生で、父親のせいで高校もロクに行けなかった桐治にすれば、二人とも優秀な才媛だ。


 何にせよ、瑠美は時間に融通が利き易く、ミキはまだ一ヶ月近く講義が無いと言う。

 人手が欲しいことは間違いなく、彼は二人の都合をすり合わせて当面のシフトを組むことにした。

 出勤可能な日を書いてもらおうと、桐治が紙を用意すると、ミキは先に家に帰ると断った。


「引っ越し、今からするんです」

「早いなあ、おい」

「また閉店時間に来ます。その時、塩の人と直接相談した方が確実でしょ」

「いや、塩は五時上がりなんだ」


 掃除を終えた瑠美が、大きく首を横に振る。


「今日は最後まで居る。話したいことがあるから」

「あ、そうなんだ……まあ、残業扱いにしとくよ」


 話の内容を尋ねても、夜にと言って教えてくれない。

 引っ越し作業のためにミキが消えた後は、店は通常の営業に戻った。

 土曜の夕方は客が多かったものの、六時を過ぎた辺りからやや暇になる。


 ややくたびれた顔の女子大生が再び現れたのは、閉店直前、最後の客が帰った七時二十分のことだった。





 桐治が閉店準備を進める傍ら、女性二人は店内のテーブルに座り、シフト表を埋めて行った。

 スマホにスケジュールを表示させ、なかなか手際よく相談を進める。

 仕事となれば喧嘩もせず、真面目に取り組む二人に、桐治はホッと安堵の溜め息をついた。


 七時半、シャッターとレジを閉めた彼が二人の元へ赴くと、もうシフト表は完成していた。

 表を見た桐治から、喜びの声が上がる。


「素晴らしい。月曜以外が全部、塩と球で埋まってる」


 塩、球、二つの漢字が意味する者は言わずもがな。

 月曜は定休日なので、桐治独りで営業する日は無いということだ。

 ミキは昼から閉店までの勤務を希望しており、それは彼も構わなかった。


「帰り道、二人の方が安心ですから。呪い的に」

「夜道だからだ。防犯以上の意味を含ませるな」


 さあ、これで今日の営業は終了、明日は塩の出勤日かと背伸びする桐治。しかし、その彼も席につくように、瑠美が細い指で椅子を差した。


「ここからが本題です」

「ああ、何か話があるんだっけ」


 彼女はゴソゴソと鞄を弄り、愛想の無い大学ノートを取り出す。

 テーブルの上に開かれたノートには、びっしりと彼女の文字が手書きされていた。

 名前、住所、細かい字で記された詳細……。


「これは?」

「宿命球の発見記録です。ネットで情報を集めたんだけど、この地方で特に急増しています」

「めちゃくちゃ多いな」


 木代きしろ某、真波市在住、庭の鯉が死亡したため調べたところ、腹から球が見つかった。

 M・S、住所不明、仏壇に供えていた饅頭がある日、球と入れ替わっていた。

 氏名不詳、紀多市、急性虫垂炎で入院した学生の腹から、球が摘出された。


 延々と続くリストに最初は目を通していた桐治も、二ページ目に突入したところで、ギブアップする。


「こんなの、大半が嘘っぱちだよ。球どころか、人物名すら多分実在しないぜ?」

「私もそう思います。でも、“大半”は、なんでしょ?」

「いや、それは……」


 桐治やミキが所持する球は、幻ではない。全てがデマかと問われると、そうだと言い切るのは彼にも躊躇われた。


「調べましょう。他の球人たまんどを」

「それ、造語だよね? 君のオリジナル」


 こういった怪しげな世界から足を洗いたくて、桐治は喫茶店を始めたのだ。

 ただでさえ店の営業で忙しいのに、また首を突っ込むのは勘弁して欲しい。


「俺に不都合は無い。首の紋様はファッションだ」

「呪いを放置する気ですか?」

「呪いなんて物は無い」

「狭山さんは良くても、みんな怯えてるんです」

「困ってる奴はいないだろ」


 言い争う二人の横から、ミキが大声で参戦した。


「私は困ってます! この紋様、困るんです」


 彼女は左手首の辺りを握り、振り絞るように言葉を続ける。


「これ、消えてくれないとイヤです」

「大して目立たないじゃん。そんなに嫌なの?」

「おっ、お……」

「お?」

「お嫁さんになれません!」


 客のいない店内に、ミキの発言が反響した。

 桐治は驚いた面持ちで、暫く彼女の真っ赤な顔を眺める。ゆるふわガールは、意外に古風だった。


「では、そういうことで、調査手順ですが――」

「あ、今のが決定打なんだ」


 年頃の女性の思考は、正直なところ桐治の管轄外だ。

 手首の刺青いれずみもどきが嫁入りに関わると言われれば、そういうものかと聞き入れるしかない。

 返答に窮する彼を放って、瑠美がノートをめくり、説明を始めた。


「ここを見て下さい。この四行目」


 中津傭平なかつようへい兼崎かねざき湖畔で球を拾う。以降、毎夜、悪夢にうなされる。


「兼崎湖か。御近所だな」

「そうです、しかもフルネーム。探すのは簡単でした」

「え、探したの?」


 探したどころか、彼女はSNS経由で連絡を取り、本人にメールで事情を聞いていた。

 中津はボート部に所属する高校生だ。

 半月前、部の練習帰りにゴルフボール大の不思議な玉を拾い、家に持って帰った。

 その後、毎晩の夢に化け物が登場するようになったらしい。


「彼も球を捨てようとしたんですが、気付くと部屋に戻って来るとか。似てますよね?」

「うーん、戻るとこはね。悪夢はどうだろう」

「専門家に見てもらうように、アドバイスしました」

「それがいい。プロに鑑定してもらえ」


 ノートを閉じ、瑠美が彼の目を正面から見据えた。


「明日の午後、店に来ますから、話を聞いてみてください」

「俺は専門家じゃねえっ!」


 既に決定事項だと桐治の抗議は無視され、取り付く島もない。話の内容が気になると、ミキまで同席すると言い出す。

 ここで今日は本当に解散。瑠美と別れ、桐治とミキは連れ立ってアパートへ帰った。





 この夜は何事もなく過ごせた彼も、翌日の営業はやや気が重い。

 前職を思い出させる仕事は、やはり彼の表情を曇らせた。


 日曜日、ポツポツと来る客に混じって、二時頃にはミキが来店し、さらに半刻後、問題の中津がやって来る。

 高校生が自己紹介をすると、瑠美は桐治の背中を押して、店の最奥の席に座らせた。

 ミキは桐治の隣へ、瑠美は残念ながら接客中のため、注文を取りながら聞き耳だけ立てている。


 椅子に腰掛けた中津は、早速、白いタオルに包まれた球を取り出して、机の真ん中に置いた。

 布が除かれ、光沢の美しい球が姿を現す。


「これは宿命球じゃない。厄介な物を拾ったな」


 いかにもスポーツマンといった日に焼けた高校生に、桐治は一目見ただけで断言した。

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