26. 篠田家

 瑠美の父は篠田州然しゅうぜん……というのは画号で、本名は優太。

 日本画家として、あまり侘び寂びの無い名前の響きを本人は嫌がり、普段の生活でも州然で通している。


 玄関から彼が飛び出して来た時、桐治は遅い帰宅を責められるのだと考えた。

 これも店長の仕事、ちゃんと謝ろう。そう覚悟を決めてエンジンを切り、自動車から降りた彼に州然が近付く。満面に笑みを貼り付けた狂気の画家。


「……遅くなって、すみません。後生です、許してください」

 笑顔は時として、人の恐怖を掻き立てる。暗闇で手を広げられると、尚更だ。玄関ポーチのフットライトで、下から照射するのはもっと止めて欲しい。


「よく来てくれた。瑠美がなかなか会わせてくれないんで、待ち兼ねたよ」


 なぜ歓迎されるのか分からない桐治は、助けを求めて瑠美の方を見る。画家の娘はバツが悪そうに視線を外し、父に家へ入るように小声で何度も促した。


「狭山さんも忙しいから……ほら、早く中へ」

「せっかくじゃないか、上がってもらいなさい。コーヒーくらい出そう」

「もう売るくらい飲んでるから。ミキもいるし、帰ってもらわないと」

「なんだなんだ、恥ずかしがることはないだろう。将来の婿さんには会っておか――」

「ぎいぃやあぁーっ!」


 わずかに耳に入った婿という言葉に桐治は動揺を隠せず、父の勧めるままに家に招き入れられる。

 ミキの冷ややかな視線が痛い。


 結論から言うと、瑠美は何も彼を婿候補として紹介していたわけではなかった。

「死に様を看取る」彼女はこれを親の前でも口走ったらしい。決意に満ちた眼差しで、そう言われては、州然が勘違いするのも当然だろう。


 茶の準備を頼むため、父が奥に引っ込む間隙を縫って、瑠美は早口で弁明に努めた。

 応接間に並んで座る桐治たち三人。しばらくして、州然の妻、つまり瑠美の母親が登場する。

 彫刻家、篠田秋子あきこ。現在は発表点数も減ったものの、若い頃からいくつか賞も受けてきた、それなりに知られた作家だ。

 紀多市役所前にも、大きな自然石を利用した作品が屋外展示されており、桐治にも見覚えがあった。


 茶托に乗せられた湯呑みを四つテーブルに置き、秋子は晴れやかに彼へ微笑む。

「娘がお世話になっております。家ではもう、狭山さんの話ばかりしてて……」

「ちょっと! 母さんまで何てこと言うのっ」


 母親を部屋から押し出すと、瑠美の釈明が一からやり直された。

 桐治がニヤニヤしているせいで、ますます彼女はヒートアップする。しかし、彼も瑠美に好意を持たれているとは思っていない。

 桐治の頬が緩んでいるのは、「なかなか男前じゃない」という去り際の秋子のセリフが原因だった。


 賑やかな彼らの前に、重そうな大判の本を抱えた父親が現れると、やっと瑠美も口を閉じる。


“州然画集 生と死の狭間”

 桐治の方に向けて、テーブルの上に画集が開かれた。


「狭山くん、これをまず見て欲しい」

「画集、ですか」


 篠田州然が彼に会いたかったのは、娘の婚約者の査定とは別の理由からだった。





 静謐な碧い林道に立つ、朧げな影。

 或いは、湖に浮かぶ鬼火のような光の連なり。


 州然の絵は、繊細なタッチで描かれた幻想的な現代日本画だ。ページを繰っていた桐治は、半分ほど見たところで絵の感想を告げた。


「懐かしい風景が多い。州然さんは、写実的な作風ですね」

「やはり、君は本物だ。見えるんだね、狭山くんにも」


 州然の作品は、一般人からすると、想像の羽根を伸ばした幻想絵画だろう。ところが桐治からすれば、多少ぼやけた記憶の写し絵だった。

 何ページか戻って、小さな黒いもやの浮く部屋の絵を指し、彼はミキにもよく見るように言う。


「うーん? あっ、毬藻さんだ、これ」

「えらく高尚に描いてるから、一瞬何か分からなかった。これは黒毬藻だろ」


 なんと、彼女も見える人なのかと、州然はミキの発言にびっくりする。

 桐治には、見える見えないと騒ぐ方が驚きで、興奮する日本画家を不思議そうに見返した。


「そうか……君は類い稀な力の持ち主だよ。素晴らしい能力だ」

「まあ人間、得意不得意はありますから。ハッキリ見えなくても日常生活に支障は無いので、気を落とさないでください」

「あ、いや、普通は見えないと思うんだが」


 コブシ玉や火焔宝珠の修復の様子は、瑠美が撮影した記録を州然も目にしていた。本物の呪術師の話を娘から聞いて、彼にはある思いを抱く。

 桐治なら、自分の作品を理解してくれるのではないか。否、そんな承認欲求はどうでもよい。

 彼なら自分の見たい光景を、提示してくれるのではないだろうか。


 やや制作に行き詰まっていた州然は、桐治との面談を娘に頼むものの、首を縦に振ってくれない。

 もう直接喫茶店に出向こうか、そう考えていた矢先に、今夜の招待が実現したのだった。


「忙しい身なのは、瑠美にも聞いて理解している。その上で、是非頼みを聞いてもらえないだろうか」

「何をして欲しいんです?」

「見たいんだよ。もっとこの世界を、自分の目で見てみたい」


 画集をトントンと指で押さえる州然の眼は、真剣そのものだ。


「火焔宝珠の火柱、夜の湖畔に現れる尻子玉の主。間近で見られれば、どれほど創作意欲を刺激されたことだろう」

「いやあ、ちょっと危ないですよ?」

「危険は承知だ。芸術は時として、代価を要求する。かの“地獄変”でも――」


 日本画家の芸術論は、その後、十分近く続いた。

 この父にして、この娘あり、か。瑠美の時として暴走する呪術愛の源泉を、桐治は垣間見た気がする。


 次に大きな修復をする時は州然にも声を掛けると約束することで、なんとか解放してもらい、桐治とミキは篠田家を後にした。

 玄関で見送る瑠美が、父の横で小さく手を振る。予定外の波乱に翻弄された彼女の顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。





 翌と翌々日はミキの出勤日が連続し、桐治が瑠美と次に顔を合わせたのは、三日後の土曜日のことだ。


 彼女の両親からの土産として、洋菓子と石彫の人形が彼に渡された。高さ二十センチほどの大理石の彫像は、母から店へのプレゼントである。

 貴重な芸術家の作品をカウンターに置いて、桐治も満足そうに美しく磨かれた石肌を眺めた。


 瑠美にも礼を伝えたが、この日の彼女の勤務態度はなんだか大人しく、機嫌か悪いようにも見える。

 夕方前の休憩から戻って来た彼女がチラチラと彼の横顔を窺うため、桐治は言いたいことでもあるのかと尋ねた。


「あっ、ん……ん?」

「“ん?”じゃ分からないよ。家で何か言われたのか?」

「父は興奮してます。本物の怨霊に会えるって、期待してるみたい」

「会えません。怨霊なんていないって教えてやれよ」

「桐治さんの言う虫や影でいいんです」


 画集を見た限り、州然の視力・・は瑠美より上だ。虫でいいなら、黒い蜘蛛やナナフシが出そうな時に連れて行こう。なんなら補助器具もある。

 それで納得してくれるのではという意見に彼女も賛同するが、まだどこかぎこちない。


「あのですね、私はですね……」

「うん」

「修復を見て、興奮してですね……」

「土俵入りみたいに塩撒いてたもんな」

「それを家で喋ってたんで、狭山さんの話ばかりしてたんじゃないです」

「分かってるって。散々説明してたじゃん」


 ちゃんと理解してると胸を張る桐治。変な勘違いなんてしないぜ、と手を挙げてアピールすると、今度は彼が厨房奥の休憩室へ向かう。

 別に彼に恋心なんて無いが、あっさりスルーされるのも釈然としない、と瑠美は思う。


「鈍感系か……好きになる人は苦労するわね」

 彼女の独り言を聞いたのは、カウンターの隅に立つ篠田秋子作の尻子人形だけだった。





 日曜日、次の日の予定表が、ファックスで小吹田から届く。兼崎湖の南部を中心に、地図にあった大方のスポットを訪れる強行軍を予定している。

 ミキと瑠美も、わざわざ大学の予定を丸一日空けて同行するそうだ。


 ただ見て回る調査といっても、虫除けくらいは持っていった方がいいだろう。桐治が作成したリストを手に、非番の瑠美が必要物資を買い出しに行ってくれた。

 いつもの塩と重曹に加えて、除草剤や殺虫剤といった薬品はホームセンターで。玩具店では、ゴム製の蛇のおもちゃを購入する。

 店に持って帰ってきた袋を覗いたミキは、リアルなゴム蛇に悲鳴を上げた。


「び、びっくりした! 何に使うんですか?」

「蛇はかなり優秀だよ。弱い獣や鳥が必死で逃げ出すんだ」

「へえー。野良猫にも効きますかね。最近、アパートの周りが糞だらけで」

「猫とカラスは駄目だ。そいつら用に、鏡も要るかなあ」


 鏡というのは普通の手鏡ではなく、店裏の用具庫にある鳥獣の撃退用具だ。

 桐治は小さな虫眼鏡のような器具も裏から持ち出し、これは瑠美用だと言った。彼の父の遺品、虫判別用の片眼鏡。


「瑠美は目が悪いって言ってただろ。影が見にくいとか」

「両眼とも1・1ですけどね」

「親父も晩年そうだったから、この眼鏡を使ってたんだ。明日はこれで観察するといい」

「いいですねえ! 父も使えるなら、小躍りしそう」


 あまり大荷物になるのも動きづらいので、準備した物は小分けにして、三つのリュックに振り分けた。

 この片眼鏡の説明辺りからだろうか、瑠美の鼻息がいつも以上に荒くなる。


 月曜日の朝、ブランに一番乗りした瑠美の手には、既に大きなカバンが握られていた。

 カバンの中には、スケッチブックに鉛筆の束と練り消しゴム、木炭にスプレー型の定着液フィクサチーフ


「一匹残らず描き切ってみせる」

 当日が来てみれば、この調査、誰よりも意気込んでいたのは彼女だった。

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