02. ブラン
五時三十五分にアラームの電子音で起きた桐治は、テキパキと身支度を整え、昨夜買っておいたサンドイッチを口に放り込む。
店に着いたのは六時半、これでも八時半の開店準備には、少し遅いくらいだ。
朝番の人手は彼しかおらず、バイトが来るのは十一時から。
店内の清掃を終え、軽食用の野菜を用意していると、パン屋から本日分のトーストやロールパンが到着した。
初めての早朝営業を前に、桐治を悩ませていたのは、モーニングセットの準備数ではない。
店の裏に置かれたゴミ箱に、あるべき物が見つからなかったのだ。
昨日、確かに投げ入れたはずの六個の球――その一つたりとも、燃えないゴミの袋の中には、入っていなかった。
誰かが持っていったのか。有り得ない話ではないものの、ゴミを漁った形跡は無い。
理解し難い現象に首を捻りつつ、彼は店内の照明を点けた。
エプロンに首を通し、コーヒーと軽食の調理に取り掛かる。
開店と同時に客が入り始め、午前中は昨日以上の盛況となった。
一人で回すのは辛いほどで、目の前の忙しさに急き立てられる。余計なことを考えずに働くのみ。
積み上がって行く食器類を、なんとか洗い切った時には、十一時を十分ほど過ぎていた。
客が切れたタイミングを見計らって厨房に引っ込んだ桐治は、
週末のみの契約だが、開店後三日間は来てくれる約束のはず。
『……篠田です』
「あっ、今日も来てくれるはずだよね? 遅れるのかな」
『申し訳ないですけど、バイトは辞退させてもらいます』
「ええ!? もう来ないの?」
『……昨日の分のお給料は、夕方取りに行きます。用意しておいてください』
「えっ、ちょっと! なんで!」
返事の代わりに、ブツリと通話が途切れる。これは酷い。
「これはヒドイ」
口にも出してみた。
今時の子は、こんなものなのだろうか。淡白と言うか、勝手と言うべきか。
「やる気ある子を選んだのになあ」
午後、この店に入った客たちは、今にも溜め息を付きそうな桐治に迎えられることとなる。
昼からの客には、事前に配ったDMハガキを持参する主婦が増える。
哀愁漂うマスターは、彼女らの格好の話のネタとなった。
“過去に色々ありそうじゃない?”
“そうよね、見たアレ?”
“ええ、なんかちょいワルって感じがいいかも”
桐治の来歴をネタに、暇な主婦が盛り上がる。せっかくの人生初のモテ期到来も、彼の知るところではなかった。
◇
夕方の混雑、と言っても三組だけの客を捌き、疲れた桐治はカウンター内の椅子に腰掛けた。
時間は午後六時を少し過ぎ、通りには帰りを急ぐ学生たちが小さなウインドウ越しに見える。
ドアベルの音に、彼は慌てて居住まいを正した。
「いらっしゃい。あっ、篠田さん」
扉に半分体を隠して店内を窺う彼女は、やはりそんなに素行の悪い子には見えない。
髪も染めておらず、シンプルな白いシャツに身を包む姿からは、どちらかと言えば大人しく生真面目な印象を受けた。
キョロキョロと辺りを見回す落ち着きの無さは、まあ、少し変わった娘さんだと彼も認める。
「あの……お給料……」
「はい、これ。考え直してもらえないかなあ。一人だと手が回らなくて」
茶封筒を差し出しつつ、桐治は彼女の翻意を促した。
大体、なぜ一日で辞めると言い出したのか、やはり理由は知りたい。
「せめて
「……気持ち悪くて」
喋り方かなのか。それとも、マスター用に練習した接客スマイルが悪いのか。
「まだ慣れてないんだよ、客商売。そこはほら、若さでカバーって言うか。君ともそんなに歳は変わらないんだよ?」
「違います、マスターが気持ち悪いだけなら辞めません。笑顔は練習すればいいですし……」
「なら何で?」
瑠美は店の奥壁に顔を向け、棚に飾られた奇妙なオブジェたちを目を遣った。
その表情は嫌悪感よりも、好奇心が勝っている。
「この喫茶店、雰囲気は好きなんです。好きと言うか……ああいうのに、興味があって」
「親父の遺品のことか? 裏の倉庫には山積みになってるけどな。見栄えのするやつだけ、内装に使ったんだ」
「あれって、呪具ですよね」
この子、そっちに興味があるのかと、桐治は嘆息しそうになった。
壁の中央には、真っ白なキャンバスの入ったF十号サイズ――五十センチ四方くらいの額が掛かっている。
その無地の絵画に合わせて、店は白、〝ブラン〟と名付けられた。
亡くなった父が遺した品々は、呪術師などと言う得体のしれない仕事で使ったものだ。
各地を連れ歩かれた彼も父を手伝い、余計な知識や技術を培わされた。恨んでまではいないが、親のあとを継ぐ気も無い。
父の死後、遺品のいくつかを売り払い、見様見真似の修復依頼などを熟して開店資金を稼ぐ。
結構な高額報酬を貰えることもあったが、その胡散臭い仕事を続ようとは、桐治には到底考えられなかった。
「親父が早死にしたのも、そんなヤグサな稼業で
「昨日、私もそう思いました。あの球、
「さだめ……なんだそれ?」
「魔を呼ぶ呪いの
「最近のネットはそんなことも載ってるのか。呪術師なんて、益々いらないじゃん」
瑠美によると、死を司るガラス球というのがあって、呪われた者の前に現れるらしい。
その珠を得てしまうと、魔に取り殺されてしまう、そう言って彼女は肩を小さく震わせた。
「悪霊とか、見ましたか?」
「んー、特には。何も無いよ。今日は店も順調だったし」
そんなの都市伝説だろ、と彼は心の中で嘲笑う。そういう人を脅す噂話は、今も昔もよくある。
オカルト好きなんかは信じてしまい、在りもしないものを見たと言い出すのだ。
「多分、開店に合わせた嫌がらせだよ。考え直してくれないかな、条件が合う子が少なくてさ」
「でも……」
カウンターから出た桐治は、棚の前まで進み、筆を取り上げると穂先を指で摘んだ。
パフパフと毛並みを押さえて遊びつつ、彼女の説得を続ける。
「まあ入れ込むのは良くないけど、インテリアとしては面白いと思う。仕事を続けてくれたら、気に入ったのをあげるよ?」
「え? あ、んー……」
この小瓶とか若い女の子なら気に入りそうだと、彼は翡翠の瓶を手に取り、彼女に向かって持ち上げる。
「綺麗だろ。ちょっと大きいけど、七味入れたり、芳香剤を入れたり――」
蓋を開けて中を見せようとした彼は、また直ぐそそくさと瓶を棚に戻した。
能面を真似て平静を装う桐治へ、瑠美の叱責にも似た声が飛ぶ。
「何が入ってたんですか?」
「何にも?」
「……珠ですね?」
「七味ではなかった」
そんな見え透いた言い訳が通用するはずがない。
何度も繰り返される詰問に耐え兼ね、彼も遂に小瓶の中身を瑠美に見せた。
「ひいぃっ、珠じゃないですか!」
「そう見えなくもない」
「他にどうとも見えません! 私、やっぱり辞めます!」
「これ、そんな大層なもんじゃないって」
どこに置いたか分からなくなる物はよくある。眼鏡とか、鍵とか。
あの積極的に隠れようとするバージョなんだと、弁解の強引さが加速していく。
帰ろうとする瑠美を引き止める彼の必死の説得は、この後、閉店近くまで続いたのだった。
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