05. カラス

 桐治の脇から中を覗いた部屋の住人は、悲鳴の代わりに大きく息を吸い込んだ。

 石像のように固まったミキへ、面倒臭さそうに彼が指示を出す。


「ドアを押さえててくれ。ほうきを借りるぞ」

「…………えっ?」

「“えっ”じゃねえよ。掃き出すから、戸を開けといてくれって」

「あっ、はい……?」


 ほとんど思考を停止中のミキは、案外素直に言うことを聞き、ドアの端を持ってまた硬直した。

 Gでさえなければ、桐治が動じる理由はない。玄関脇に置かれた外掃きの箒を掴むと、彼は黒毬藻に向かい合う。


「逃げるなよ……」


 掃く方向は、奥から手前へ。

 叩きつけるように、毬藻の上に箒を振り下ろす。


 ギギッ!

 股の間を潜らせて、外に掃き出そうという桐治の曲芸染みた作戦は、あっさりと失敗した。

 箒に触れた二匹の黒毬藻は、毛の触手を絡ませて穂先にしがみつく。

 ただ、これはこれで都合がいい。

 掃くのは諦め、箒にくっついた毬藻をそのまま外に連れ出す方針に切り替えた。


「ゴミはどこに捨てるの?」

「……え?」

「ゴ・ミ・捨・て・場。ビニール袋に入れた方がいいかな」


 ミキの指が、無言でコーポの前の電柱を差した。


「ああ、あそこに出すのか。ゴミ袋、用意して」

「……部屋の中に入ったら――」

「大丈夫だよ。二匹とも箒の先だ。先に行っとくぞ」


 桐治が廊下に出る際に、毬藻を改めて見てしまったミキが思わず扉から手を離して後退あとずさった。


「イテッ……逃げなくても平気だ。ただの害虫じゃん」

「む、む、虫なんですか、それ!?」

「正式な名前は知らないけど、古い家とかによくいるヤツだな」


 話しながらも、彼は適当に箒を振り回し、毬藻が柄を這い登って来るのを防ぐ。

 背後で扉の閉まる音が響いた。ミキは意を決して、袋を取りに中に入ったようだ。

 彼女に教えられたゴミの集積場に着くと、桐治は電柱に向かって、思い切り箒を振った。


「ギュギーッ!」


 遠心力で弾き飛ばされ、二匹の毬藻が電柱に掲げられたゴミ回収の案内板に激突する。

 黒い異形は地に落ち、電柱の根本に並んだ空瓶がガランガランと転がった。

 さて、どうしたものかと、桐治は思案する。“生きるゴミの日”など無い。


「狭山さん、袋、持ってきました!」

「カァー……」

「カー?」


 後からの声はミキのもの、人が発したような声色は、彼の頭上から聞こえた。

 夜空を見上げた彼は、電線に毬藻並に黒い影が留まっているのに気付く。

 三日月に照らされたその黒塊は大きく翼を広げ、足を伸ばして下へと舞い降りて来た。


「……カラスか。危ないから下がっとけ!」

「は、はいっ」


 一匹だけと思ったカラスは、あちこちの電線にいたらしく、二羽三羽と数を増やして電柱の付け根へ集合する。

 黒毬藻は毛を逆立てて逃亡するものの、一匹がカラスたちに捕まり、大きなくちばしで突かれ始めた。


「そ、そ……その鳥……!?」

「カラスを初めて見たわけじゃないだろ?」

「足の数がおかしいっ!」

「んー?」


 結局、四匹集まったカラスの脚を、彼は目を細めて数えてみる。

 最初に来たヤツが、三本。後から毬藻を引きちぎっている連中の脚が、二本、三本、一本。

 暗くて見にくいが、大凡おおよそはこれくらい。


「二本プラスマイナス一くらいだろ。合ってるじゃん」

「普通、足したり引いたりはしません!」


 脚の数はともかく、漆黒の羽根をきらめかせる艶の方が彼の目を引いた。

 通常のカラスには、こんな闇夜で発光する体毛は生えていない。


「マズイな……」

「ば、化け物ですか!? カラスにしては大きすぎます!」

「カラス避けのネットが要る。毬藻を食い散らかされたら、叱られそうだ」

「ネット! ネットですか、気になるのは。ネットなんだ!」


 元々、生きるゴミの日ではない上に、ネット無しは近隣住民の迷惑になる。

 しかし、彼に抜かりはない。こういう特殊な連中のために持参した鳥獣避けが、役に立つ場面だった。


「あんな風に光ってるのは、ちょっと凶暴なんだよ」

「やっぱり!」

「篠田さんに貰ったやつ、持って来てよかった」


 桐治は小さな透明の袋を取り出すと、口を開けて中身をつまみ、カラスに向かって撒き散らす。

 白い粉が当たると、ガアガアと叫びながら、カラスたちは上空へと退散した。


「それは……?」

「塩だよ。ミキも昼に食らっただろ」


 その答えに、彼女は我が意を得たとばかりにポンと手を合わせる。


「清めの塩ですね。お祓いしてある塩」

「ただの食塩だ」

「え、スーパーで売ってるやつ?」

「そうそう、天然塩が効果が高い」


 メーカーや産地で微妙に性能が違うと、ミキの耳を素通りする説明が続く。アルザス産の岩塩が、最も優秀だったらしい。

 ミキはこの事態をどう解釈したものか悩む。

 膝を付いて毬藻の残骸を調べていた彼は、そんな難しい顔の彼女へ、毛玉処理を実演することにした。


「もう死んでるみたいだな。球なんだけど、こういうのには便利だぞ」

「宿命球が、ですか」


 自分の球を上着のポケットから出し、右手に握り込むと、桐治は少しずつその手を黒毬藻の死骸に近付けていく。

 毬藻に拳が触れるか触れないかというところで、手の内に光が灯り、毛玉は夜のとばりに溶けて消えた。


「……! この球って、じゃあ――」

「そう、超強力な殺虫効果が有るんだ」

「殺……虫……?」


 仕事を完遂した彼は、口をパクパク開け閉めするミキの元へ戻り、その肩に手を置く。


「虫退治料、五万円――」

たかっ!」

「――なんだが、落札代金と相殺でいい。じゃあ、次は自分で始末しろよ」

「いや、狭山さん! 無理だって!」


 泡を食ったミキを放置して、桐治はスタスタと自分の車へと向かう。

 運転席のドアを開けたところで、まだ立ち尽くす彼女へ振り返り、練習中の接客スマイルを披露した。

 喫茶店の新米マスターは親指を立て、彼女に別れを告げる。


「球を大切にな」

「そんなあ……あっ!」


 盛大に手を振る彼女は、何やら必死で訴えているようだが、車に乗り込んだ彼の耳には届かない。

 自動車を指してジェスチャーまで始めたミキを無視して、彼は帰路へつく。


 滑らかに走り出す軽自動車は、アパートを目指して順調に進んだ。

 だが途中、広い国道に出る寸前、ブレーキが乱暴に踏み込まれる。

 ガクンと揺れる車体。そこへ、ギューと呻く怪奇音が重なった。


「てめえ、いつの間に乗り込みやがった!」

「ギュ、ギュー……」


 助手席の上に跳ね戻った黒毬藻が、目をパチパチさせて桐治の機嫌を伺う。

 急いで宿命球を取り出し、毬藻の上に掲げると、身の危険を感じた黒毛玉が猛烈な勢いで声を立て出した。


「ギッ、ギッ、ギッ、ギュル!」

「いや、毬藻語はさすがに……」


 短い奇声を繰り返す黒毬藻は、まるで助命を懇願するかのようであり、その割に座席から逃げようともしない。

 調子の狂った彼は、困り顔で闖入者を見つめた。


「お前はひょっとして、さっきカラスに襲われてた片割れか?」

「ギュルギュル。ギュエッ!」

「恩返しがしたい?」

「ギュルッ、ギギ」

「ちょっと不毛過ぎるな、この会話」


 取り敢えず球をポケットに戻して車を再発進させ、助手席に視線を送りつつアパートへと急ぐ。

 自宅の近くの駐車場に辿り着き、彼が外に出ると、毬藻も器用に足元へ付いて来た。


 歩く桐治の後ろを、転がって追い掛ける黒い塊。

 珍妙な連れ客は、彼が自宅の扉を開けた隙に、すかさず中へと進入する。


「おい、あんまりウロウロすんな」


 毬藻はギーギーと部屋の中を跳ね回ると、最後は食卓に登って大ジャンプを見せた。

 黒い身体が、天井に貼り付く。揺れる触手は平に溶け込み、本体も均されれば、残されたのは黒い染みだけだった。


「ああ、またシミが増えたじゃん。引き払う時は消えてくれよ……」


 黒ずんだ天井を見上げる桐治は、ウンザリだと首を振る。

 テーブルに視線を下げれば、洗われるのを待つ食器が散らかっていた。

 一つだけ場違いな存在感を放つのは、ミキが寄越した球の箱だ。

 箱の蓋に手を伸ばした桐治は、期待を込めて箱を開ける。予想が的中し、中味は空になっていた。


 五万円、上手く誤魔化せたし良しとするか――小さな成果にそう納得し、彼は片付けに取り掛かった。





 次の日、開店後初の土曜日を迎えた喫茶ブランは、昼前から多くの来客で賑わった。

 瑠美もちゃんと出勤し、勾玉をエプロンの上でジャラジャラ揺らせながら接客に励む。


「……なんか増えてない? その勾玉」


 彼女の首から下がる五つの玉を見て、桐治は小声で尋ねた。


「また、あの球女たまおんなが来るかもしれませんから。自衛策です」

「来るかなあ。昨日、虫は追い出しといたよ」

「ああいう手合いは、しつこいんですよ」


 この会話で思い出したらしく、瑠美は店の扉の前に、盛り塩を作りに行く。

 この行為自体は、どこの店でもよく見受けられるものだ。

 塩の山が拳サイズでなければ。


 彼女が家から持ち出した茶碗を使って、特大の盛り塩が二つ制作される。

 出来映えにフフンと鼻を鳴らし、瑠美は昼の休憩へと店の奥へ引っ込んだ。


 通りの向かいの看板に隠れて、その作業を覗いていた人物が一人いる。

 天敵がいなくなったのを確かめた大矢ミキは、ブランへ再び足を進めた。

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