16. テンちゃん

 速乾性の謳い文句にいつわり無く、メンディングテープを外しても、玉はもう接着されていた。

 接合面のヒビ割れへ、桐治は胡粉を塗り込む。

 最初は筆で隙間へ押し込むように。

 ある程度埋まると、次は小さなヘラ先で穴を潰す。


 単なる亀裂の補充作業かと見ていたミキは、次第にポカンと口を開き始めた。

 興奮した瑠美が、質問する暇を惜しんでシャッターボタンを押す。


 黙々と補修を続ける桐治を、そしてその手元に、女性二人の目は釘付けだ。

 我に返ったミキが、その不思議な光景に感嘆する。


「玉が……光ってます」

「ん? ああ、胡粉を吸収してるんだよ。犬の骨、しかも自分自身の素材だからな。簡単に吸い込んでくれる」

「割れ目が消えて行く。埋まって行ってます!」

「そりゃ埋めてるんだから、そうなる。弱いながらも、受容性のある玉だからできる修復方法だ」


 胡粉で埋める、そんな単純な表現では済まされない光景だった。

 色も質感も異なるはずの補修部分は、軽く発光してコブシ玉に同化する。


 胡粉が吸い込まれて窪んだ割れ目に、また上から彼が塗り重ねると、徐々に隙間は見えなくなった。

 わずかな凹みが、光線の当たり具合でようやく判別できる。

 何度も執拗なほどに筆とヘラの補修を重ね、乳鉢の内容物はどんどんと減っていった。


 最終工程では、幅広の刷毛に持ち替え、残る胡粉を玉の全面に塗布する。

 接合線だけでなく、表面についていた疵も、この段階で滑らかに埋められた。


 塗った箇所が乾くと、玉の向きを変えて、もうひと塗り。

 胡粉を使い切り、桐治がまたコブシ玉を布の上に置く。

 ここでようやく、瑠美が鼻息荒くコメントした。


「呪術感を堪能できたわ。“狭山桐治、球に愛されし男”」

「やめろよ、そのダサいフレーズ」


 玉は静村が持って来た時と同じ光沢を取り戻した。

 顔を近付けて、コブシ玉の疵があった場所を確かめていたミキは、すごいすごいと自分のことのように喜ぶ。


「でも、狭山さんは、修復業を嫌がってませんでした?」

「割れた玉を持ってくわけにはいかないだろ」

「あっ、そうか。多江さんに返すんだ」


 桐治は用具を片付け、静村に電話して、玉を取りに来いと伝えた。

 一時間ほどで彼は現れ、完璧な玉を見て歓喜する。


「まさに神業! ボクは反省しましたよ。呪術万歳です。もう百パーセント信じます!」

「だから、俺は信じてないって」


 ホクホク顔で桐箱に玉を入れる静村へ、桐治は“はたたるシルバーセンター”について尋ねた。


「昨日、渡した住所、調べてみたか?」

「問い合わせてみたら、確かに柿長多江さんは入居してるそうです」

「そりゃよかった。玉を持って行くんだろ?」

「はい。その前に少し手続きが必要ですが……あれこれと、ありがとうございました」


 ヒラヒラと手を振って、桐治は礼に応える。

 彼はこの日の内にでもケリが付くのかと思っていたが、静村の言う手続きには意外に時間を要した。





 水曜日に退院した八重美の夫に、玉の所有権の放棄書類にサインさせ、正式にコブシ玉は協会預かりとなる。


“もうこんな玉は見たくもない。近付けないでくれ”


 玉と書類を持って行った静村を、夫はそう言って追い払った。

 八重美の方はまだ入院中で、意識はハッキリしているものの、見舞った青年を見て悲鳴を上げたらしい。


 玉の修復料に関しては、当初、協会側が難色を示す。本当に桐治が直したのか、と。

 しかし、瑠美が撮った作業中の写真が動かぬ証拠となり、桐治は無事、十万円と感謝状まで受け取った。

 これが金曜日のことだ。


 シルバーセンターへの訪問は、ブランの定休日である月曜日と決まり、桐治も同行を求められた。

 当然という顔で瑠美とミキも加わって、静村の車で四人が施設へ向かう。

 車中、青年から協会の意向が説明された。


「可能なら、今日、多江さんの同意をもらって、玉を持って帰りたいんです。それを受けて、展示用の台座を発注します」

「婆さんがイエスって言うかは分からんぞ」

「そこはほら、ボクはお年寄りとは相性がいいんですよ。お婆ちゃん子ですから。巧みな話術でこう……」

ばばキラーなんだ」


 もっとも、多江が自分から連絡してこなかったことに、桐治は疑問を覚えた。

 息子夫婦が伝えなかったにしろ、報道を見れば何か思うところはあったろうに。

 全て息子に任せ、自分は関わりたくないと言うことだろうか。


 静村の自分語りにウンザリしながら車で四十分、秦樽市の県境近くの山間に、その介護センターは在った。

 はたたるシルバーセンターは、同県の介護系施設の中でも最大の敷地面積を誇っているが、入居料は安価な方だ。

 人里離れたこの場所で人生の最期を迎える者も多く、多江もこのまま行けばそうなるだろう。


 到着した桐治たちが受付けに顔を出すと、連絡を受けて待っていた職員が案内を率先してくれた。

 目的の老人は、裏の庭にいると言う。

 また外に出て、建物を迂回する遊歩道を通り、一行は裏へと進んだ。


 木々に挟まれた道は立派でも、人の姿が無いのは寂しい。

 周囲を見回していたミキが、それをそのまま感想にして口に出す。


「気持ちのいい並木道なのに、みんな散歩とかしないんですかねえ」

「まだ暑いですから。それに、真昼に散歩するほど元気な人は、少ないんですよ」


 朝夕には、職員と一緒に散歩する時間があるとも、中年の女性職員が説明した。

 ミキの後ろを歩いていた桐治が、彼女たちの会話に参加する。


「でも多江さんは、庭にいるんだろ? それだけ元気ってことか」

「いえ……柿長さんは、日中、部屋に入ってくれないんです」


 どういうことかと、職員の話を聞いている内に、彼らは裏庭に着いた。

 庭と言うより、グラウンド場と呼ぶのが正確だろう。

 球技やゲートボールだってできそうなグラウンドを、最近使った形跡は無い。


 遊歩道にはいくつもベンチが置かれ、最奥の一つに柿長多江は座っていた。

 少し離れて、クリップボードを片手に書き物をしている職員がいる。

 その職員に用件を伝えると、多江の様子を説明してくれた。


 説得すると意気込んでいたはずの静村は、戸惑う表情を隠せない。

 職員の話を聞き、彼は桐箱の入ったバッグを持ったまま立ち尽くす。


 柿長多江は、先月初に入居した時には既に痴呆症の傾向が出ていたらしい。

 足腰が弱い以外は、彼女の身体の調子は良い。

 しかし、この一ヶ月半で痴呆の症状は急激に悪化し、会話を成立させるのも難しいレベルになってしまった。


 自分の名前を言うのも困難で、部屋から出る際は、こうして必ず一人職員が付いている。

 本来なら、施設としては散歩時間だけの外出に留めたいところであった。

 だが、多江は昼の間中、外に行くと言ってきかない。

 目を離すと部屋から出て行くため、雨の日には鍵を掛けざるを得なかった。


 木陰のベンチで小さく背を丸める多江を眺めながら、桐治は職員たちに質問した。


「なんで外に出たいのか、教えてくれたか?」

「質問できる状態ではないんです……一方的に柿長さんが喋るだけで」

「その内容は?」

「“待ってるから”、“分からないと困るから”だったかな。ああ、あと“ケンちゃん”とも」

「……テンちゃん、だよ」


 彼は静村にコブシ玉を出すように言い、玉を受け取ると多江に歩み寄った。

 縞のタオルを握る彼女は、桐治が近付いても反応はしない。

 このタオルも職員には頭痛の種であり、洗濯するために渡してくれと頼んでも、頑なに放してくれないそうだ。


 彼はベンチの前に膝を付くと、彼女のタオルの上に、コブシ玉を置いてやった。

 玉に手を触れた多江は、慌ててタオルで巻き、右手でその表面を撫で始める。


「ほぉ……おぉー……おぉ!」


 絞り出すような声は、悲嘆にくれたのではなく、喜びからのものだろう。

 しゃがんだ桐治からは、顔をくしゃくしゃにして笑う彼女の顔がよく見えた。


 飽きることなく、多江はひたすらに玉をさする。

 そのうちペタリと掌を玉にくっつけると、背中が一層縮まり、彼女の肩が震えた。


「テンちゃん……おぉ……テンちゃん……」


 繰り返していた嬉しそうな声は消え、嗚咽の呻きに取って代わる。

 落ちる雫は、玉が受け止めた。


 これでいいだろうと、立ち上がった桐治が後ろへ振り返る。

 職員は事情が呑み込みきれず、心配そうに多江の様子を窺っていた。


「あの、柿長さんは、一体……」

「大丈夫だ。もう外に出たいとは、言わないだろうよ」


 彼は静村の方を向いて、どうするつもりかと聞く。


「玉を借りなくていいのか?」

「取り上げられませんよ。こんなの……」

「なら、帰ろうか」


 車に歩いて戻る途中、鼻を啜る青年はまたもや自分語りをするが、今度はミキや瑠美も大人しく耳を傾けた。

 二年前に亡くなったお婆ちゃんには随分と可愛がられたが、孝行できないうちに、いなくなってしまった――そんな話を、彼はボソボソと喋る。

 コブシ玉は諦めるべき、協会にはそう報告するというのが、静村の出した結論だ。


 瑠美はそのまま家まで車で送ってもらい、桐治とミキはブランの前で降りた。

 店の前の街灯は、寿命が近い。

 暗くなってきた空に反応して点灯したものの、パッパッと明滅する光が二人を弱く照らすのみ。

 去る車に手を振っていたミキが、気になっていたことを桐治に確認した。


「あのコブシ玉って、やっぱりテンちゃんの生まれ変わりなんですか?」

「生まれ変わりなんて、あるもんか」

「えー」


 本格的な夜を前に、街を行く人の姿は少ない。

 こういう静かな日もあるだろう。


 ようやく安定した街灯を合図にして、二人は並んで歩き出す。

 黙って足を動かしていた彼は、しばらくして一言だけ付け加えた。


「犬の体温は、人間よりちょっとだけ高いんだってな」

「……そうなんだ」


 アパートへの帰り道、彼女はなぜか少しだけ嬉しそうだった。

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