第30話 湿気にまみれた記録的災走

 朝余計に空気を吸ったら、聖火を手渡されてしまった。天に向かってそびえ立つ、めらめらとした強気の炎。その熱気が僕の全身にまで及び、走らないわけにはいかなくなった――――。


 初めて君と出会った時、僕は君を「獣みたい」だと思った。心の内を瞬時に探るようでいて、どこか慎重な言動。そんな君の習わしを、僕は残念ながら美しいと錯覚してしまった。あるいは、懐かしくもあった。どうしてだろう? あの時は初対面のはずだったのに、僕は確かに懐かしさを覚えていた。

 その理由について、もう深く考えることはなくなった。昔親しかった幼馴染に君がよく似ていたとか、昔大好きだったコミックのキャラクターと同じような面影が君にあるだとか、そんな自分にとって都合のいい理屈を服用し続けてきたけれど。それも、今となってはもう必要ないらしい。だって、君がこの宇宙空間で唯一無二の存在だと知ったから。


 君が僕との結婚を許してくれたとき、僕はとても恥ずかしかった。それまでの自分が刻んできた無数の幼稚が、一瞬にして消え失せてしまったのだから。それから、君は僕にこうも言った。「私のこと裏切ったら、先に死んどいてね」そのあまりに大胆な発言に僕は驚いたけど、その直後に「冗談だよ」と君が笑ってくれた記憶がまだ消えない。きっとこの一言を耳にするためだけに、僕はこれまでの半分の人生を重ねてきたかのような、とんでもない誤解をしてしまうほどに。その感覚は、何億年ものコールドスリープから目覚めたばかりの赤子のように、完全に無垢なものだったんだ。


 沿道に駆け付けた人たちが、僕のことを応援してくれている。ありがたかった。心の中で礼を述べまくる。聖火はまだ空気の真ん中で揺れていて、僕をはるか遠方へと誘っていく――――。


 君はいつだってそうだ。口喧嘩をすると、決まってわんさか鋭い言葉を綺麗に並べる。加えて、時計の針を無理矢理戻すみたいに、過去の事象を引っ張り出しては、吠える。そのたび、僕は痛みを感じる。心臓のその中央に風穴をあけられて、そこからどんどん空気が抜けていく。僕自身は、しぼんでいく。その繰り返しだった。喧嘩をした数分後には、そうした確定的悲劇が待っている。それを知りながらも、いつまでも「さよなら」を言えなかったのは、不幸中の幸いかな。


 コースの途中で、君の歴史と交わる。二つの道路が一本にまとめられ、車線がひとつ減る。速度制限が厳しくなる。でも、視界はその分開けたみたいだ。これなら、注意力散漫な僕でも、事故無く目的地に到着できそうだ。利き手に掲げた聖火は、揺れながらもしっかりと時を刻んでいる――――。


 僕たちの人生がその幕を閉じるとき、世界はどこまで変わっているんだろうと想像する。きっと、大した変化はないのかもしれない。地球の歴史を動かすような大変革が例え起こったとしても、僕たちの思想はなんら変わりようがないと思う。それこそが、究極的な怠惰なのだろうけど。君はいつまでもカボチャが嫌いだし、僕はいつまでたってもけん玉がうまく出来ない。そういう宿命に近い。


 僕はいつもそうだった。半信半疑で、様々なカテゴリーの安心談義を君に話して聞かせてきた。それを、ただひたすら繰り返してきただけだ。それなのに、僕は一向に気が休まらない。どうしてか分かる? その答えはきっと、君がいちばんよく知っていると思う。


 額から流れ落ちる汗の、その量が勢いを増してくる。もう、頬やこめかみは濡れている。半径30センチ圏内に纏わりつく湿気が、なんだか邪魔くさい。けれど、君が隣で走ってるから、悪い気はしなかった。湿っぽくて、寂しくて、終わりが近づいているけれど、妙に温かい。初めて自分の涙を舐めた時の、言いようのない歯がゆさを思い出す――――。


 今まではさ、遠ざけていたんだと思う。面倒くさそうなこととか、エネルギーを消耗する事件とか、そんなものを。でもさ、大人になって理解したんだ。この世の中はそうした複雑なことばかりで溢れている、と。君といくら力を合わせようが、この極点社会では一切通用しない。ただ時間を削られるだけだし、何よりたんぱく質が足りなくなるし。こういうのを、チキンレースと言うのかもしれないな。

 だとしたら、僕にできることはたったひとつだ。最後まで君と添い遂げること。それに、尽きる。それ以外は、いらない。極論、我が命を投げ捨てても構わない。それくらい、人生の全部を君に注ぐ。僕にできるのは、たったそれしきのことだよ。


 次の走者の姿が視界に入る。彼は一体誰だろう? 肉厚な背中に、世界の裏っ側を見据えるような目つき。僕は彼めがけて、この聖火を渡さなくては。早くしないと、遂に間に合わなくなる。僕の耳元で、君が「ごめん」と言う。僕は、静かに涙を流す。その涙のひと粒ひと粒が、必死に汗と混じりあう。訳の分からない液体が誕生する。でも、これだけははっきり言える。

「聖火リレーが終わることは、絶対にない」

 それを君に告げてから、僕は聖火を彼に手渡した。すると、地球上に発生した引力によって、僕は天に召されていく。その光景は、流星の誕生。いや、流星の死亡だった。どこまでも続く銀河の中で、僕はやっとひとつの意味を見つけることができたんだ。それだけでも、十分幸せだったと記憶したい。

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流星に似たトラッド 文部 蘭 @Dr-human

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