第12話 掟破りの殻を被った災縛

 この間、私はとても奇妙なひとに遭遇した。

 その人はたった一言では言い表せないくらいに特異的で、何がどう特異的かと問われると、それは私にも実はよく分からない。ただ、その人は間違いなくこの地球上で最も奇妙だった。


 それは私がOLとして勤める会社の主催する立食パーティーでの出来事だった。

参加者は疎らに各々のテーブルのもとへ集い、嘘か本当かも分からない獣のような笑顔を浮かべて談笑している。私はそうした実社会的な振る舞いが苦手だし、第一その空間の中でせっせと血走ったまなこを向ける人種と同じ空気を吸いたくなかった。

 会場の隅の方に用意されていたパイプ椅子に、私は避難していた。白ワインの入ったグラスを片手に持ってはいるけれど、共に乾杯するような相手もおらず、ただ呆然と平和的な表情を繕って会場の景色を眺めていた。

 そんな私に、ある男性が話しかけてきた。

 「大丈夫ですか?」だったか、「お話よろしいですか?」だったか、彼の第一声はよく憶えていないが、その表情ははっきりと記憶している。表面上は至って平凡なサラリーマンといった印象だが、その表情の奥にある筋肉の動きが人を不安にさせるようなタイプだ。

 話を聞くと、彼はうちの会社の人間ではなく、取引先のひとらしかった。私たちは一通りまとまった営業トークを繰り広げた後、少々の雑談に突入した。


「お休みの日は何をされているんですか?」男が尋ねてきた。

「料理が好きなので料理をしたり、あとは釣りも好きでよく川や海へ出かけています」私は平然と答える。

「そうですか、女性で釣りがお好きとは。珍しいですね」

 そのリアクションは私をひどく不快にさせた。女だからって釣りをするのが珍しいとか、そんな月並みの返答しかできない男になど興味はないのだ。その瞬間、私は目の前の男と話し始めたことを後悔した。

「僕の話もしていいですか。僕は自分にルールを課すのが好きなんです。その方が仕事にも身が入るし、プライベートもうまくいく。そうは思いませんか?」

「何の話ですか?」

 唐突に切り出された話題ほど、鬱陶しいものはない。

 男はなんだか徐々に雄弁になっていく。「時々考えるんですよ。世の中みんなが僕みたいにルールを次から次へと増やしていけば、もっと平和な世界になるんだろうなあ、って。僕はその先駆者になりたいんですよ」

 

 結局そのあとに彼と話が盛り上がることもなく、私たちは散った。

 私の心の中に溜まったもやもやとした感覚。これは一体なんだろうか、と考える。答えは出そうにない。また今度にしようと決め、頭のスイッチを切り替える。


 それから数日後のある日曜日、釣りから帰宅する途中で商店街に寄った際、例の男と再会した。どうやら活動エリアが似ているらしい。どことなく気持ち悪さを覚えたが、素通りするのも癪だったので、「お久しぶりです」と声をかけた。

「ああ、こないだのパーティーの」

 彼は、私のことを憶えていた。彼は日曜日だというのにスーツ姿で、額には少しばかりの汗が滲んでいる。ヘアワックスでがっしりと整えられた髪はひどく乾燥しているように見える。

「今日もお仕事ですか?」私は釣竿を入れた巨大なバッグを肩にかけ直す。

「いいえ。僕はカジュアルな服装が嫌いで。休日も平日と同じようにスーツで過ごすことが多いんですよ。僕だけのルールというやつですね」

 またルールの話か、と私は思った。

 それと同時に、目の前の彼が以前目にした時よりも太っていることに気が付く。数日間でここまで見た目が変わるものなのだろうか、と疑問が浮かぶ。

 男は平然と話す。「その荷物、釣竿ですか? 女性で釣りってやっぱりかっこいいですよね」

 また月並みリアクションだ。私は途端に嫌気が差した。ふと持っている釣竿でこの男のことを殴ろうかとも思った。

「では僕はこのあとカレーを食べに行かないといけないんで、失礼します」

「それもルール、ですか」呆れたように、私は言った。

「そうですね」

 男は忙しなく商店街を歩いて行った。ルールというよりもただのルーティンじゃんかと私は彼に詰め寄りたい気もしたが、しばらくするとその熱意もすっかり冷めてしまった。


 その日の夜はひどく寝つきが悪かった。眠気の波がまったく襲ってくる気配を見せない。諦めてベッド脇の間接照明の明かりを点ける。カチッと無機質な音が部屋に響き、温もりを塗りつけたような光が周囲に充満していく。どうして眠れないんだろう、と考える。あの男のことを思い出す。人を不安にさせる笑顔、乾ききった髪、急激に太った身体……。そういえば、どうしてあの男は太ってしまったんだろう? ストレス太りにしては期間が短すぎるし、ひょっとすると何かの病気かも。

『真実を知りたいかい?』

 その時、ベッドのすぐ傍にが出現した。

「流れ星……なの? 流れてないけれど」

『そんなことより、あの男がどうして太ってしまったのか。それが気になって眠れないんだろう? それなら、あなたにすべてを教えてあげよう』

「それって、どういう意味……」

 流星は確実に私の内部に入り込んできた。たちまち私の身体自体が流星のようになり、私は宙に浮くことができた。

「なんなの、この身体? 重力をまったく感じない」

 そして、ゆっくりと私は天井をすり抜け、夜空へと飛び立った。

「ちょっと! どこに連れて行く気……?」

 数分くらい浮遊し続けたのち、古いアパートの真上で私は停止した。そのまま下降し、天井をすり抜け、ある部屋に音もなく侵入する。

 そこは、あの男の部屋だった。

 洗面台の正面に仁王立ちしている彼は、上裸だった。筋肉やら骨やらの輪郭がほとんど見えないくらいに、彼は太っていた。昼間に商店街で会った時よりもさらに太っていた。不満げな顔をしている彼は、鏡に映る自身の哀れな姿を目にし、大きなため息をついた。

「……結局店が混んでてカレーも食えなかったし、友人にはドタキャンされるし、スーパーの見切り品も全部売り切れだったな……」

 そうら見たことか、と私は思った。彼の頭上で浮遊しながら、彼の反省会を見物する。私は今、一体何をしているのだろうか?

「……となると、今日はとりあえずか。まあ、仕方ないよな。これもルールだし」

 男の全身に纏わりつくようにして、が生み出される。半透明のその膜はやがて顔まで彼の全身を何かの生き物のように呑み込み、覆いつくした。任務を全うした膜は徐々に色を帯び、彼の皮膚、彼の髪、彼の器官になった。私は絶句した。突如現れた膜は、彼の皮のようなものだったのだ。

 その光景があと二回繰り返された。三枚の皮を被り終えた彼は、また太ったように見える。それを見て、私は逆マトリョーシカみたいだ、と思った。

「ふう。……そろそろ寝るか」

 彼は洗面台を後にした。


 今でも時々、私は彼のことを思い出したりする。掟に覆いつくされた男の、その悲劇的な末路を。彼は天下一のマゾヒストだと思うし、それでもやっぱり私は彼のことを忘れることができないとも思う。

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