第5話 湿度ゼロパーセントの災憶

 僕が彼女と出会ったのは、とある近所のトレーニングジムでのことだった。

 その日のジムは不思議なくらい空いていて、まるで人がいなかった。その広々とした空間には、僕と彼女の二人だけで、事実上貸し切りみたいな状態になっていた。

 はじめのうちは、僕たちはそれぞれのトレーニングに黙って没頭していた。僕はバーベルを持ち上げるタイプの筋力トレーニングに集中していたし、彼女はというと、ランニングマシーンに乗って汗をかいていた。

 ひとしきり時間が経つと、マシーンから降りた彼女が僕に声をかけてきた。

「今日はひとが少ないみたいですね」

 その時、僕はその一言がどちらかがいずれ口にすべきものだったことに気づいた。そして、その役割を彼女が請け負ってくれたことに感謝しつつ、返事をした。

「そうですね。不思議ですよ」僕はバーベルを床にそっと置いた。

 それから僕たちは多少の世間話を交えることになった。ああでもない、こうでもない、と主張と相槌を何度か繰り返したところで、彼女がこんな話をしはじめた。

「私がこのジムに通っているのにはね、ちゃんとした理由があるのよ。そうしなければならなくなった理由がね」

 あくまで彼女はそれが義務であるというふうな言い方をした。

「話すと少し長くなるけれど、聞いてくれる?」

「もちろん、聞かせてください」僕は床に胡坐をかいて座ることにした。


「私はね、泣くことができない人間なの。精神論的な意味じゃなくってね、。それがすっごくコンプレックスでさあ。時々たまらなくなって、悔しくなるのよ」

「それは奇妙ですね。ヒトは泣きながら生まれてくる生き物なのに」

「私だって、最初から泣けない体質だったわけじゃないわ」

「でしたら、強靭なハートを無理やり育て上げたとか?」

「それなら、ただ気が強いだけじゃない。大はずれよ。そうじゃなくて、私は幼い頃に涙腺を切り落としたの」

 それを聞いたとき、僕はうまく事実を呑み込めなかった。涙腺を切り落とすだって? そんなこと聞いたこともなかったし、何よりそうすべき事情というものが考えても分からなかった。

「だから、それ以来私は全く泣けなくなった。人間って不思議なもんでね、涙が流せないのがなんだか悔しくて。それで毎日ここに通って、涙の代わりに大量の汗を流すことにしてるの」

 彼女がジムに通うようになった理屈は分かった。けれど、その話にはどうしても肝心な部分がごっそり抜け落ちていた。

「……でも、どうして?」僕は疑問が浮かび上がると、すぐにでも解消してしまいたい性質を持っている。

「それを私の口から語るのは遠慮しておくわ。思い出すと息が詰まるのよ、尋常じゃないくらいに。そのかわりといったらなんだけど、自分の眼で確かめてみて」

 そう言うと、彼女はどこからか使い古されたダンベルを持ってきて、僕に寄越した。僕がおそるおそるそれを両手で受け取ると、そのダンベルは青白い光を周囲にまき散らし始め、幾度か伸縮を繰り返したあとで僕と一体化した。

 妙に身体が生温かった。ジムの壁に取り付けられた鏡に目をやると、僕は等身大程の流星の姿に変わっていた。

「それじゃあ、出発ね」

 そう彼女に促されたまま、僕は彼女の過去へと移動することになった。


 薄暗くて、乾燥した部屋だった。僕は流星の姿のまま天井にくっついている。部屋には二つの影があった。ひとりは幼い少女で、目を真っ赤に腫らしながら泣き喚いている。もうひとりは彼女の父親と思われる男性で、少女をそっと抱きかかえながらその背中をさすっているように見える。

「どうして、ママはいなくなったの?」

 少女はその瞳に精一杯の涙を溜め込んだまま、父親に問いかけた。

「母さんはな、最後まで生きようと頑張ったんだ。そう、頑張ったんだよ」父親は「いなくなった」という娘の言葉を認めようとしなかった。

「だったらなんで、しんじゃったの? さいごまでがんばったんでしょ?」

「そうだな。でもな、どんなに心の強い人でも勝てない病気ってものが……この世にはあるんだ。あいつでも勝てなかったんだ……」

 父親も我慢できなかったのか、その場で号泣しはじめた。そのあまりの勢いにつられて少女も父親の胸の中でさらに涙の量が増していた。

「いいか、母さんは俺たちと暮らしていくことを諦めたりはしなかったんだ。だから、これだけは約束してくれるか?」

「やくそく?」

「……その涙を一生忘れちゃ駄目だよ」

 そこから先の回想は、プロジェクターに写されるが如く、薄暗い部屋の壁に投影され、再生された。

 『その涙を一生忘れてはならない』。その一言はあまりにも強烈に少女の記憶のど真ん中に植え付けらたのだった。その約束を守り通すかのように、それから毎晩少女は大量の涙を流すようになった。その行為そのものが亡くなった母へのせめてもの愛情表現だというように、精一杯涙を流し続けた。ある時から、父親に隠れてその涙をペットボトルに貯蔵し、蓄えた涙を大事な大事な宝物のように扱うようになった。その貯蔵した涙が200リットルになった時、少女は目の病気に罹ってしまった。結局、破壊されつくした涙腺をそのままにしておいては命に関わるとの診断が下され、少女は涙腺を切り落としたのだった。

 

 そこで彼女の過去への旅は終了し、僕はジムへと戻り、流星の姿からは解放された。

「どうだった、私の過去は?」

「なんというか、あまりにも切ないよ」

「そうかしら? 私は決してそうは思わないわ。だって、涙を捨てた大人なんて私以外にもたくさんいるじゃない?」



 

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