第4話 縦横無尽に香る災厄

 夜明けの匂いがして、街行く人々の歩く速度が増し始めていた。

 早朝の新宿。僕は駅の外にある特設スペースで立ち尽くし、忙しなく出勤するサラリーマンや顔に疲労の溜まったOLたちを眺めながら、マシュマロを噛んでいた。

「そんなにマシュマロが恋しいの?」彼女は、愚痴をこぼすときにするように、目線を下げたまま僕に語りかけてきた。

「それほどでもないよ」僕は反論する。「けれど、こうしなきゃいけない気がする、ただそれだけの理由だよ」

 ふうん、と彼女は納得のいったような、あるいはいっていないような、中途半端な相槌を打った。

 僕たちが立ち話をしている場所は、いわばマシュマロを噛む人種専用に簡易的に設けられたスペースで、歩行用通路からはちょっぴり隔離されている。それでも、それなりの大人で賑わっているし、僕はその人たちのことを同胞だと認識している。ところが、やっぱり何事にもアンチは存在するようで、純粋無垢な子供がこの光景を見ようものなら、大抵の母親はその子の目を覆うのだった。

「どうしてこの国の人たちは、マシュマロを噛むようになったんだっけ?」腕組をして遠くを見つめながら、彼女がそう言った。

「……二十年も前の話だからもう誰も覚えてないんだろうなあ。僕もはじめは受け入れられなかったよ。この世からたばこが消えてなくなってしまったなんて」

 今からおよそ二十年前に、この国から一切のたばこが姿を消した。当時、愛煙家たちは大規模なデモを起こして、政府へ向けて徹底的に抗議をした。もちろん、僕もそのうちの一人で、僕らは政府によってこの国のたばこが消されてしまったと信じて疑わなかった。

 けれども、政府はそれを認めようとしなかった。結局、水掛け論が続いて、たばこを廃止した真の犯人が誰かなんて分からないまま、時が過ぎていった。

「元はと言えば、愛煙家の中には無理やり禁煙させられたことで、禁断症状を発症してしまう人が多くてね。そりゃあもう、大変だったよ。困り果てた政府は、たばこに代わってマシュマロを噛むことを推奨した」

 僕は歴史的大事件でも語るかのように、彼女に話して聞かせた。彼女は相変わらず、ふうんと曖昧な相槌を打つだけだった。

「僕らは仕方がないから、その提案を渋々受け入れた。本当のところ、代替物はなんでもよかったのさ。とにかく、生活の一部と化していたたばこがその日常から姿を消したわけで、その穴埋めに追われていたんだ。そうしてそれまで愛煙家だった人たちはみんな一斉にマシュマロ愛好家に転職したんだ」

 実際、最近販売されているマシュマロは実に良い香りがするものが多い。その香りは妙に心地の良いもので、癖になるほどだった。それだから、今度はマシュマロ依存症に陥ってしまい、生活が破綻した人もちらほら出てきた。加えて、街を歩きながらマシュマロを噛む、いわゆる「歩きマシュマロ」は品がなく街の風紀を著しく乱す行為だとして、ついにはマシュマロも嫌悪される対象となってしまった。さらには、マシュマロから発せられる特有の香りを嫌がる人たちはマシュマロ愛好家に対して受動喫煙になぞらえて「受動マシュマロだ」と激しく非難し、そうしたマジョリティーに支配された世論が後押ししたこともあって、つい最近国会では飲食店にてマシュマロを噛む行為を禁止する法案が通過したばかりだ。

「ほんとうに……嫌になっちゃうよ。例外的に認められたのが、この電子マシュマロだけだなんてさ」

 僕が今口に咥えているのが電子マシュマロで、周囲には香りが飛散せず、あくまでも吸引者の口内にだけその香りが広がるような構造になっている。ところが、最早マシュマロの形をしていないし、第一「噛む」快楽がごっそりと削がれてしまった。なんだか電子マシュマロを口に咥えていると、それだけで出鱈目な助演俳優みたいで恥ずかしいものだ。

「私はさ、こんなに世間がマシュマロに翻弄されるのは絶対におかしいと思ってる。たかが洋菓子だよ? そんな矮小な存在にどうして私たちは議論の余地を見出せるの?」

 彼女はピリピリとしはじめた。僕は彼女とはつい最近友人になったばかりだから、そこまで彼女の人となりを把握しちゃいない。それでもこの空気は妙に重たすぎるから、僕はただ苦笑いを浮かべてやり過ごすしかなかった。

「あなたにその真相を確かめてほしい。私は部外者だから、この件にはあまり関わりたくないわ。でも、あなたは違う。そうでしょ? これはあなたがやらなきゃいけないのよ、きっと」

 彼女はそれだけ言うと、カバンから銀色の水筒を取り出した。その蓋をゆっくりと開け、中から煌々とした物体を引っ張り出した。

「これは流星のレプリカよ。あなたには今、これだけが必要なの」

「僕に、どうしろと言うんだい?」

 すると、その流星はするするとへと侵入してきた。一瞬、偏頭痛のようなくらっとした痛みに襲われたけれどすぐに慣れた。流星となって宙に浮遊した僕は、早朝の新宿を後にし、どこか別の異空間へと飛ばされてしまった。



 そこは会議室のような場所だった。四人くらいの中年の男性たちが、二人ずつ向かい合って回転椅子に腰かけている。

 そのうちの一人、白髪染めに失敗したような頭髪をした男性が口を開く。

「ここまで日本人がマシュマロに傾いてくれるとは想像もしませんでしたよ」

 向かいに座る男性がうなずく。「そうですな」

 白髪染め・失敗はけらけらと汚く笑い、頭の後ろに両手を回した。

「しかしまあ、よくもこんな計画をアメリカは思いついたもんだ。この計画のおかげで、我々日本のマシュマロメーカーは永久に安泰となった」

「純利益はいかほどに?」別の男が尋ねた。

「まあまあ、具体的な数字はいいじゃないか。おおまかに言うと、小さな国をまるごと買い取ってしまえる金額さ」

「ほう、それは素晴らしい」

「そうだろう? しかし、このカネの束を向こう側に流すのが計画実行の条件だったんだ……それには目を瞑らないとな」

「それはそうですね。我々マシュマロメーカーに騙された日本人が縋り付いている間は、ですけどね」

「心配ならいらないさ。この事態はあと数十年は続くからな……」

 僕は頭が真っ白になった。彼らの会話から察するに、現代のマシュマロ文明は彼らが意図的に造り上げた虚構の産物にすぎないのだった。そして、そこから吸い取られた多額のお金がアメリカに渡り、一体何に使われたのかは僕には皆目見当もつかないのだった。

 

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