第3話 飴玉から引っ張り出した災難
私は探偵を雇うしかなかった。
妻の様子がおかしい、と気づいたのは昨晩のことである。白塗りの壁に四方を囲まれた広々としたリビングダイニング。私と妻はテーブルで向かい合わせになり、夕食を摂っていた。
「ねえ、最近ね、中華料理を勉強しようと思ったの」
妻がフォークにパスタを巻きつけながら、突然そんなことを口にした。何の前触れもなく急な語り口だったため、私は不思議がった。「どうして?」
「ほら、あたしって和食と洋食しか作らないじゃない? でもこの先ずっとそれが続くのはなんだか寂しい気もする。だからあたし考えたんだ。中華料理もマスターして、なんでも作れるようになりたいって」
「それはとてもいいことだと思うよ。それにしても、急にそんなことを言い出すもんだから、びっくりしたよ」実をいうと、それほどびっくりしていなかった。その時の私は、妻に対して何かいつもと雰囲気が違う、とそう感づき始めていた。
「あなたは、中華だったら何が食べたい?」
「……うーん、そうだなあ。辛い料理は割と好きだから、麻婆豆腐とかかなあ」
「それもいいね。じゃあ、エビチリとかは?」
「エビチリもいいね。ぷりぷりの海老をふんだんに使ったやつ」
「エビチリの辛さはどれくらいがいい?」
「ピリッと辛いくらいかな……。そのほかにはチンジャオ……」
「ねえねえ、今度視察も兼ねてエビチリ食べにいかない?」
「……」
その時の妻のエビチリに対する情熱といったら、半端じゃなかったんだ。喩えて言うなら、ヒーローインタビューで自身が放った特大ホームランの解説を嬉しそうに話す野球選手に近いくらいの熱量だった。異常。そう、異常なほど妻はエビチリ談義をしたくてたまらない、といった様子だった。
私は妻を疑った。なぜなら、エビチリの話をするときの彼女の顔が普段よりも若々しく、非常に女性らしさが増したものだったから。普段から妻はきらびやかではあったが、エビチリの話をするときに限ってとんでもないくらい水分と潤いを含んだ、少女のような純粋無垢の表情に変貌するのだ。私は、その妻の表情に男の影を感じた。予想するに、妻はきっと不倫をしている。その不倫相手の男性が何を隠そう大のエビチリ好きで、妻は彼のそうしたどうでもいいような個人的文化に強く惹かれ、引きずり込まれてしまったのではないか。
さらにその仮説を裏付けるかのように、その晩妻は私との夜の営みを拒んだのだ。いつもであれば菩薩のような柔らかい笑顔で喜んでくれるのに、だ。そして、そんな疑心暗鬼が数週間ばかり続いた。
ずっとこのままでも夫婦関係が破綻しかねないと考えた私は、探偵を雇うことにした。この界隈ではそれなりに有名な、ある私立探偵。丸坊主の頭に、文豪のような鼻下の髭、華奢で背の高い彼はやたらと目が据わっている。その彼が灰色の背広を着て、、今テーブルをはさんで私の向かいのソファに腰掛けている。
「それで、わたくしに尾行調査を依頼したいと?」
「はい。妻の様子は日に日に変化していて、どうも変なんだ。やたらとエビチリの話をしたがるし」
「いいでしょう、調査をいたします。ですが、それなりの対価を支払ってもらいますよ」
「どれくらいだ。金ならいくらでも払ってやる」
「そうですな……飴玉10万個くらいでいかがでしょう?」
「要するに、10万円だな。分かった、すぐに用意する」
探偵の彼がお金のことを「飴玉」と呼称したことには多少不気味さを感じたが、私は妻の不倫を暴きたい思いで頭がいっぱいでそれどころではなかった。
それから一週間が経った。また同じ部屋で探偵と私は顔を合わせた。
「それで、どうだったんだ? あいつの不倫相手はどんな感じの男だ」
まくし立てるように私がそう言うと、探偵は俯き、大きなため息をついた。
「ご主人に真実を申し上げるのは、どうもわたくしにはできませんね。事情が事情でして……」探偵は言葉を濁すようにした。
「何言ってるんだ! こっちは10万も払ったんだぞ! まさか、あんた私立探偵ってのも嘘か?」
「いえいえ、ご主人にはきちんと全てを知ってもらいますよ。依頼主の当然の権利ですから。ですが、わたくしの口からはとても言える内容ではないということです」
「つまり……どういうことだ」
「ご自身の目で確かめてみてはいかがでしょう?」
探偵はそう言うと、傍らに置いていた帽子の中から白く輝く物体を取り出した。その物体はスライムのように自在に伸縮し、痛いほどに眩しい光をまき散らしている。
「なんだ、これは?」
「この物体は流星です。ご主人には今からこの流星に憑依していただき、ご自身の目で真相をぜひしっていただきたい。それだけです」
「何を言って……」
探偵はその流星を私の身体の内部に挿入した。その瞬間、私の身体は流星そのものとなり、部屋の宙に浮きはじめた。
「どうなってんだ、一体……?」
「それでは、真実を知る旅行へどうぞご出発ください、悲しきシューティングスター」
そして、私は異次元に飛ばされ、意識を失った。
気が付くと、私はある中華レストランの天井に貼りつくように浮遊していた。店内は秋だというのに冷房が効きすぎていて、肌寒いくらいだ。この流星となった姿でも温度の変化は感じるもんだな、と私は感心すらしていた。
店内の客はひとり。その女性は、誰かを待っているかのようにそわそわと落ち着きのない様子で、おしぼりで何度も手を拭いていた。よく顔を見ると、妻だった。こんなところで誰を待っているんだという疑問と、その相手はきっと不倫相手の男性に違いないという確信が、私の心の奥で渦巻いた。
ほどなくして、それはやって来た。
私は一瞬、目を疑った。いや、流星だから目などはないのだが、その場に姿を現した異形の存在にたじろいだ。
そいつは、巨大な海老だった。
ちょうど人間と同じくらいの背丈で、尻尾を床に叩き付けるようにして歩行している。ふう、と一息ついてから、妻の向かいに腰掛けた。
「どうだい、だいぶ待ったかい?」海老は台本を読み上げるように、ゆっくりと訊ねた。
「いいえ、あたしもさっき到着したところ。あなたに会える時間をどれだけ待ちわびたことか」妻は私にも見せたことのない、満面の笑みを浮かべた。
「僕も君に会えるのをいつも心待ちにしているよ」
「ほんと?」
「ああ、本当に決まっているじゃないか」
私は何を見せられているのだろうか。目の前で続いていく現実を呑み込めず、気絶しそうになる。
海老はナプキンを丁寧に首(人間でいう首あたりだ)に巻き付けると、ゆっくりと余裕のある動作でメニューの冊子を開いた。
「それじゃあ、とりあえずエビチリでいいかい?」
「そうね、そうしましょう」
そうか、妻はこれまで海老と密会を重ねていたのか。これが真実か。
この世界で生きる限り、予期もしないことは往々にして起こるものだ。たとえばそれは、僕の場合、妻の不倫相手がぷくぷくとしてピリッと辛い海老だったように。
「こんなことなら、普通に不倫された方がましだった」
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