第2話 大さじ一杯の災禍

 屋上から見下ろすと、下にはグラウンドが広がっている。今日は風が強いためか、砂埃が巻き上がっているのが視界に入る。私は制服のスカートが風になびくのを片手で押さえながら、グラウンドでサッカーをする集団に視線を向けた。

 彼らは制服姿でプレーをしていた。ワイシャツの袖を半分ほど捲り、学ランのズボンも膝丈にしている。おおよそ自由奔放に、まるでこの世界に自分たちしか存在していないかのような自由さがそこにはあった。私は、彼らのたくましく大きな背中を、あるいは、首筋を伝って流れる男くさい汗のきらめきを見つめながら、嫉妬をした。できるものなら、私だってああいう風になりたい。華の女子高生のはずなのに、毎日ありったけの青春を捨てながら、私は時間を犠牲にしている。けれど、それにはそれなりの事情があった。大樹を支えたいという野望が、その事情だ。

 大樹は、私の一期上の先輩で三年生の、わがままを擬人化したような人だ。常に自分が優先で、気にならないことがあったら初対面の人であっても構わず文句と悪口を飛ばし、勝負事があると決まって参加して自分が勝つまで続けようとする。ホントにこの人はどういう神経をしているんだろう、と私は時折頭をかしげたくなる。自己中心的だし、排他的だし、しつこくて粘っこい。年上とは思えない程、あきれてしまうエピソードには事欠かない人である。

 それでも大樹にひとつだけ私が嫉妬していることがあったりする。それは、彼がアコーディオンを弾くことに関して、天才的な才能を持っていることだった。幼少期から数々の大会で優勝しているし、中学生の頃からは他人の曲では飽き足らず、自分で作曲をするまでになった。事あるごとに、大樹は「いい曲が思いついた」と告げて、所かまわず楽譜の落書きをしたりする。それで一度テスト中にそれをやってしまって注意されたこともあるとか言ってたっけ。とにかく、大樹が作った曲は本当に滑らかな美しさをその音色の連続に宿している。それも、ピアノではなくあくまでアコーディオンでしか出せない美しさがあるから不思議なのだ。まさに、彼はアコーディオンを弾くためにこの世に生まれたと言ってもいいくらい。

 フェンスに寄りかかりながら大樹のことを考えていたら、その彼が屋上の扉を開け、私の隣にやって来た。ベリーショートの黒髪を風になびかせながら、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「いっつも昼休みになると、綺夏ってここにいるよな」

 そう言うと、彼はその場で胡坐をかいて座り込み、フェンス越しにグラウンドを見つめた。一緒にフェンスに寄りかかるものだと思っていた私は、予想が外れて少しがっかりする。

「大樹だって大抵そうでしょ」私は恨みをぶつけるように言った。

「俺はただ、今日みたいなよく晴れた日にここへ来るといい曲が思いつくんだ。そのためにやって来るだけだから。別に、綺夏に会いに来たわけじゃない」

「一言余計なんだよ、大樹は」でも、彼のそういうところも好きだったりもする。

 私は機嫌が悪くなったふりをして、再びグラウンドのサッカー集団に目をやる。頭上でトンビが一羽、大きく旋回しながら通り過ぎていった。

「なあ綺夏、あの約束まだ覚えてるか」大樹は唐突にそう訊ねてきた。

「覚えてるよ。大樹がプロのアコーディオン奏者になるまで私が援助するってことでしょ。忘れるわけないじゃん」私は胸を張って答えた。

「そうそう。今、ちょうどその一歩手前まで来たんだよ。これ見てくれるか?」大樹はそう言うと、制服のズボンのポケットからくしゃくしゃに折り畳まれた一枚の紙きれを取り出した。

「見てくれよ、次の大会の優勝賞品がプロデビューなんだ。つまり、この課題をクリアすりゃ、俺もついにプロの奏者だ」

「ホントに? 良かったじゃん。やっと大樹の夢が叶うんだね」

 私がそう言うと、大樹は照れを隠すように頭の後ろの方をわしゃわしゃと掻いた。けれど、耳が真っ赤になっていることに本人は気付いていない。

「綺夏には感謝してる。勉強で大変だろうに、俺なんかの練習に毎日付き合ってもらって。でも、まだ終わったわけじゃないもんな。ちゃんと結果残すまで、よろしく頼むぞ」

「もちろん」

大樹の念願の夢が今まさに叶えられようとしている。それを考えるだけで、なんだか私まで気分が高まってきた。それから、こういう感覚は実に久しぶりだとも思った。私はこの瞬間に合わせて腕時計の針を無理やり止め、家に帰るまでそのままにしようと決めた。


 翌日の放課後、大樹がいつも演奏の練習をする公園まで行こうと学校の玄関を出ると、外はあいにくの土砂降りだった。校門まで続く地面の上には、コーヒーとミルクを慌てて混ぜ合わせたような、汚い茶色の水たまりが点在している。私は傘を差し、小走りで校門の外へ向かった。

 その時、スマホが鳴った。画面には「大樹 母」の表示。私は急いで「通話」をタップし、緊張で震えた声で「もしもし?」と訊ねる。

『あ、綺夏ちゃん? あのね、今日は大樹の練習なくなったから、それを伝えようと思って連絡したの。突然、ごめんなさいね』

「大樹、どうかしたんですか?」

「それがね、落ち着いて聞いて。まだ私も半信半疑なんだけど、大樹が突然耳が痛いっていうもんだから、心配になって一緒に病院へ来たの。検査を受けたら、あの子が病気に罹ってるって分かって、しばらく入院することになったの」


 私は急いで病院へ向かった。大樹のいる病室へ辿り着くと、彼は仰向けになってベッドに寝ており、ずっと天井を見つめていた。すぐそばには彼の母が椅子に腰かけている。

「大樹、大丈夫?」私はぜえぜえと息を切らしながら、大樹に訊ねた。寂しそうな表情を浮かべる彼の顔を確認したとき、私は目を疑った。両耳がない。大樹の両耳が、何か得体のしれない魔物に引きちぎられてしまったかのように、綺麗さっぱり無くなっていたのだ。

「……耳、どうしたの?」私はおそるおそる大樹に聞いてみた。

 大樹はふう、と一度小さなため息をつくと、私の顔をじっと見つめて「ごめんな」ともらした。

「ごめんな、綺夏。俺、こんな身体じゃプロになれないや」

「えっ……どうして?」

 大樹は、全身が灰のようにぼろぼろと崩れてしまう、いわゆる「灰病」という難病に罹ってしまったということだった。10億人に1人という割合で発症するもので、前兆として突然耳が赤くなってそれがおさまらないことが挙げられるそうだ。

「うそ、でしょ。そんな、なんで大樹に」

 言葉にならない苦しさが喉の奥から私を締め付けた。その苦しさはやがて口から出ようと必死にもがいて見せるが、私は生唾と共にその塊をなんとか呑み込み、五臓の六腑に埋め込んだ。それでも、今度は悔しさが湧いてきた。大樹はプロになるためにここまでアコーディオンを弾き続けてきて、その夢がもうすぐで叶うタイミングだったのに、こんな仕打ちってある? 超越的な存在が裏で糸を引いていて、その糸をわざと大樹に絡ませたとしか私には思えなかった。それでいて、その超越者はけらけらと何事もなかったかのように笑っているんだから、質が悪い。私は悔しさを押し殺して、なんとか平静を保つように努めた。

 そんな強がっている私を見かねたのか、大樹はそっと私の手を握った。

「大丈夫だ、綺夏。俺は何が何でもプロになってやる。だから綺夏にはもうちょい……」

 そこまで言いかけた時、大樹がとても苦しそうに喚き出した。廊下を通りかかった看護師たちが数人病室へなだれ込み、そこからは空間が歪んで見えた。私の目には、すべてがスローモーションに見えるのだ。心配そうに大樹に声をかける彼の母、事務的な表情をそのマスクの内に隠しながら忙しなく動く看護師たち、車輪のついた担架で運ばれる大樹、まるで夢の中にいるかのように不鮮明に空気が揺れていて、心地が悪い。なぜだか、脳内ではアコーディオンの音が流れ続けている。

 2時間が経った。よほどの大手術だったに違いない。手術室から出てきた若い男性の医者が大樹の母にそっと告げる。我々の手術が終わるよりも彼の全身が灰に飲み込まれてしまうほうが先だった、残念ですがという残酷な通達がその医者の口から飛び出した。大樹の母がその場に蹲るのとほぼ同時に、私は病院を出て、近くの河原まで走って行った。

 雷が鳴り響き、土砂降りが続いている。河の水はその量を増し、ごうごうと唸りを上げている。私はずぶ濡れになったまま、あんまりじゃないかと考えていた。大樹が最後に見た空はこんなに真っ暗じゃ駄目でしょ。駄目に決まってる。いいや、私が駄目と決めたんだ。

『大丈夫、彼の夢はまだ終わってなんかいないよ』

 突然、雨が降りしきる灰色の空からそんな声が聞こえた。驚いて、頭上を見上げると、そこには夜でもないのに流星があった。たしかに、その流星から声が聞こえた。『まだ彼を信じて。きっと君にはまだやるべきことが残ってる』

「何を根拠にそんなこと言うのよ! 慰めとかいらないから」私はむきになって、流星に八つ当たりをした。

『慰めなんかじゃない。君にはぜひ知ってておいてほしいことがあるんだ』

 流星はそれだけ言うと、急降下してきて私の身体にぐるぐると巻き付き始めた。気が付けば、私は流星の姿に変わっていた。

「どういうこと? これって、一体……」

 私は流星の言葉を思い出した。何かを知っておいてほしい。そう言っていたことを。私は強く大樹のことを念じた。すると、流星となった私の身体がすうっと勝手に動き始め、遥か上空へと飛ばされた。と思えば、今度は違う方角へと勢いよく急降下し始めた。眼下に見覚えのある住宅が見える。そこは大樹の家だった。

 天井をすり抜け、二階の床をもすり抜け、やがて私の動きは一階にある大樹の部屋でぴたっと止まった。机の上にはノートが広げられていた。おそらく大樹が病院へ行く直前まで書き殴っていたものだろうと思われる。おそるおそるそのページを私は覗き込んだ。

 そこには楽譜が記されていた。勢いで書いたことが分かるほどの手荒さで、直線もふにゃふにゃだった。けれど、その楽譜には確かに大樹の熱意が籠っていた。命が絶たれるその直前まで曲を作っていたのだ。私は改めて大樹の頭には常にアコーディオンのことしかないんだなと感じる。

 その広げられたページを捲りたいと念じる。するとページはぱらぱらと捲れ、やがて最後のページが現れた。

 私は息が詰まる思いがした。

 最後のページには、少年と少女が二人でアコーディオンを演奏する画が描かれていたのだ。少年の頭上にはだいき、少女の頭上にはあやかと記されている。ぼろぼろになっているこの作曲ノートは大樹が幼少期から使用していたものであることは知っていた。そのノートの最後のページに、幼き頃の大樹は私と一緒にアコーディオンを弾くイラストを描いていた。ひょっとすると、大樹はずっと私と一緒にこれがやりたかったんだ。それなのに、どうして私は応援するだけでそのことに気が付かなかったんだろう。大樹はきっと、このむずむずとした憂鬱をずっと抱え続け、アコーディオンを弾いていたのだ。どうして私に言ってくれなかったの? ねえ、どうして? 私は何度もいなくなってしまった大樹に訴え続ける。

 大樹の家を後にし、河原に戻ったころには私はもとの姿に戻っていた。対岸を見つめ、私は新たな決意を口にした。それはアコーディオンを練習し、いつかプロになってやるという野望。大樹の夢はまだ終わってなんかいない。そう、あの流星の言ったとおりだったのだ。

 

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