流星に似たトラッド
文部 蘭
第1話 ブリキでできた些細な災害
この現実世界は、実に三角形的なものだと僕は思う。第一点と第二点がある関係性を築き上げたとすると、そこから第三点が弾かれる。その繰り返し、である。そうした現象はどこか事務的作業にも思えるし、時には面倒くさそうに引き起こされる数学的事象のようにも思える。とにかく、僕はこの実に三角形的な舞台の端っこで奇妙に踊り狂う人形のように無個性的に、あるいは、無造形的に要求される振る舞いを全うしてしまう癖を持ち合わせている。それは傍目から見れば滑稽に映ることだろう。だが、それほど泥臭くて本質的なことはほかにないと僕は本気で信じている。
飲みの席で友人と口論になった。理由なんか大したものじゃあない。ほんの些細なこと。ところが、千円札を二枚そのテーブルの上に必要以上に強く叩き付け、その場を退席してしまった僕には、どうしようもできない問題がひとつだけ残ったんだ。それは、口論をした相手が僕のたったひとりの友人であったことだ。そりゃあ第三者からしてみれば、どうでもいいことだ。けれど、僕の内側に広がる宇宙では、それはそれは大規模な災害にほかならなかった。喩えるなら、街を歩いているときに突如として一切の音が遮断されてしまったような感覚に近いかもしれない。誰かに両耳を塞がれている訳でも、聴覚を失ったわけでもない。ただただ、世界中から「音」という概念がまるごと削ぎ落とされてしまって、訳もなく不安になる。そのイメージに近い。
僕は三十という年齢にもなって、つながりをひとつ失った。それも、ものすごく太くて、頑丈なつながりを。もっと言えば、そのさらに奥に身を潜めている人脈的広がりの可能性の一切を失った。飲み屋からの帰り道。暗く、じめじめとした路地を歩きながら、僕はただそれだけを頭の中で反芻していた。それを考えることで何かが解決するわけでも、誰かが助言を与えてくれるわけでもないと知っていたけれど。それ以外に、大災害に見舞われた心を落ち着かせる術を知らなかった。あるいは、同じことを繰り返し考えることで早く夜が明けてしまわないかという淡い期待もあった。
『こういうのはどうだい?』
真っ暗闇が広がる空から、ふと僕に向けて問いかける存在があった。僕はよおく目を凝らし、その存在が何であるかを認識しようとする。それは、止まって見える流星だった。遥か上空で華々しく天の夜空を駆ける流星が、僕に気づいて急にその動きを止めた、というように思える。その流星には顔などはないが、明らかにその一点から声が聞こえるので、そうに違いないと確信を持つことが出来た。
『こういうのはどうだい?』
流星はもう一度そう言うと、今度は僕のいる地上まで一気に急降下してきた。近くにある電柱と大きさがほぼ同じだったその流星は、僕の目の前で動きを止め、夜分に失礼します、と丁寧にあいさつをした。どうも、と僕はあいさつを返し、流星をじっくりと眺めてみる。近くで見ると、巨大な涙の一滴みたいな形をしていて、膨らんでいる部分なんかはまるでプリン体が溜まり込んだ中年のおじさんのお腹みたいだと思った。それでいて声の質が少年のようだから、なんだか妙な感じだ。
『君はお友達が欲しいのかい?』
流星は僕にそう訊ねた。正確に言うと、それは違う。新しい友人が欲しいわけじゃなくって、僕はケンカをした彼ともう一度関係を修復させたいんだ、と僕は素直に返答した。たかだか流星を目の前にして、僕は何をむきになっているのだろうと思ったけれど、諦めて話を続けることにする。
『でもそれは、君のエゴだよね?』
「エゴなんかじゃない。僕は本気で彼との友情を取り戻したいと思っているし」
『それをエゴというんだよ。いいかい? 君にとって彼という存在はかけがえのない親友も同然だったかもしれない。けれども、どうだい? 彼にとって君は数多く存在する友人の、そのうちの一人でしかないという認識だったら? 彼はきっと君以上に人望があるし、なんたってお調子者さ。それはそれは友人だってたくさんいることだろう。君がそのカテゴリーから外れたところで、彼にしてみれば靴下が片方なくなったくらいの痛みにしかならない。そうは考えられないかい?』
僕は愕然とした。同時に、太っちょの流星に諭された気分になった。確かに、そうかもしれない。これは僕にとっての一大事だけど、彼にとっての一大事ではない可能性だってある。その点を見過ごしていたことにようやく気が付いた僕は、途端に身動きが取れなくなった。これは僕の内部で完結できる問題であって、それ以上のものじゃない。だったら、この綿菓子みたいに膨れてしまった憂鬱はどこに片付けたらいい? 見当もつかず、僕はブリキの人形のように半不自由の状態でその場に立ち尽くしていた。
すると、流星はそんな僕を見て不憫に思ったのか、そっと僕に寄り添ってぬくぬくとした体温で僕を温めてくれた。それはなんとも言い難い、不思議な感覚だった。エネルギーの満ちる空気だけに巻かれているような、決して触れることのできない肌触り。およそ人間界の代物とは思えない包容力だった。
『それじゃあ、君も流星になってみるといいよ。そしたら、彼の、君の親友の事情を知ることができるしさ』
「事情だって?」僕は突如飛び出したその単語に違和感を覚えた。
『そうだよ、彼には彼なりの事情があったんだ。それをちょっと覗いてみるだけさ』
「その事情を知るために、僕に流星になれっていうのか?」
『そうとも』
「けど、一体どうやって?」
『任せておきなって』
そう言うと、僕の体に寄り添っていた流星はそのまま僕の全身に巻き付き、やがて僕と一体化した。いつの間にか、僕は宙を浮遊する流星になっていたのだ。きっとこの姿はさっきの流星が僕に一時的に貸してくれたんだろう、と察知する。僕はそっと感謝の意を唱えてから、夜空に向けて一気に上昇した。
大気圏まで飛んで、そこから急降下。夜空を浮遊するとはこんなにも気持ちのいいものなのか、と流星になった僕は半ば感心した。おっと、いけない。感心するのはいいが、この姿はあくまで一時的なものであるはずだから、用事は早めに済ませないと。
何度も訪れている彼の自宅までやって来た。赤い屋根が特徴的な、ごくありふれた一軒家。僕は意を決して天井をすり抜け、リビングに到着する。向こうは気付いていないみたいだから、ひょっとすると僕の姿は見えていないのかもしれない。それにしても、流星の姿をしているとはいえ、友人の家の様子を勝手に覗き見するのはなんとも背徳的な気分がした。
ちょうど友人の彼が飲み屋から帰ってきたところだったようだ。彼はソファに深々と腰を下ろし、ため息をついた。リビングにはもう一人、彼の妻がいた。椅子に腰かけ、心配そうに夫を見つめるその瞳は小動物のようだった。「なんかあったの? そんな辛気臭いため息なんかついて」ともらした。
「いやいや、全然。ただ、飲み仲間とな、ちょっと揉めてな」
「ケンちゃんが喧嘩だなんて珍しいね」
彼が家庭ではケンちゃんと呼ばれていることに、僕は多少驚いた。少なくとも、飲みの席での彼は「ケンちゃん」という愛称が対極に思えるほど傲慢で、そんな生易しい名前が似合うはずもなかったのだ。
「それがさ、健斗のやつ、俺のことをお調子者だと思ってやがるんだよ。大勢の友人がいて、異性にも好かれまくってるんだろどうせ、って。そんなことないのにさ」
普段僕のことを「お前」呼ばわりする彼が、家では僕のことを健斗と名前で呼んでいる事実が意外だった。けれど、それ以上に彼の発した内容がうまく呑み込めない。彼は人望が厚くて、たくさんの友人がいて……。
「健斗とは社会人になってから出会ったからさ、俺のこと何にも知らねえんだよ。確かに、俺は会社じゃ先輩に可愛がられてるし、後輩にも一応慕われてはいる。でもそれは、あくまでも表面上の薄っぺらいモノ。ホントに腹割って本音で話せる友人は健斗、ただ一人なのにな」
心の内を吐露し終えた彼は、妻に缶ビールを頼んだ。彼の奥さんは冷蔵庫から水滴の鎧を身に纏った缶ビールを取り出し、彼に手渡した。彼はゆっくりとプルタブを起こし、一口喉に押し込んだ。
「ああ、うめえ。健斗とももうちょい飲みたかったなあ」
「また誘えばいいんじゃない?」奥さんも缶ビールを飲みながら、そう言った。
「ああ、また近いうちにな」
その後は二人の談笑が始まった。そこは二人だけの劇場のように、外部の要素が入り込める余地は一切無かった。僕はそっとリビングを後にし、天井をすり抜け、遥か彼方の夜空へと戻ることにした。
真っ暗な上空を旋回しながら、僕はずっと涙が止まらなかった。それはいかに自分が小さくて彼の器が大きいかを思い知った悔しさの象徴でもあったし、はたまた彼との友情が壊れていなかったことに対する安心感の象徴でもあった。いずれにしろ、僕は大間抜けに違いなかった。けれど、不思議なもんで、その事実に安堵している僕もいるのだった。
僕が夜空の一面に垂れ流した涙の粒たちは、やがて少しずつ輝き始めた。この世界に存在する涙が全部こうやって夜空を彩る星になってしまえばいいのに、と僕は考えていた。それでも、実際の涙たちは行儀よく重力に従って地面や床に吸い込まれていく。これは果たしてどういうことだろう?
そんなことを考えていたら、ものすごい勢いで僕は地上めがけて墜落してしまった。地面に両足がつく頃には失速し、アスファルトの上に華麗に着地をした。気が付けば、僕は普段通りの人間の身体に戻っていた。おうい、と流星を呼んでみたが、返事はなかった。ひょっとすると、流星なんか最初から存在していなかったのかもしれない。
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