第6話 喇叭に食べられた絶品の災情

 笑ったときよりも、泣いているときのあなたの表情が好き。でも、誤解しないで。泣いているときといっても、それは嬉し泣きしてるときのことだからね。

 彼女は僕にそう告白した。彼女によれば、「笑う」という習慣的行為は嘘であっても成り立ってしまうとのこと。けれども、「嬉し泣き」というのは突発的なイヴェントであって、その現象の最奥にどうやらその人の隠し持っている慕情を見つけることができるというのだ。

 そのことをはじめて彼女から聞かされたとき、僕の中に眠っている何かがひっくり返った。それは、彼女に抱いていた実に表面的な好意だったかもしれないし、あるいは、僕自身が世俗一般的な常識にあまりにも囚われていたことかもしれない。

 少なくとも、彼女の哲学は僕にとって究極に新鮮だった。だからこそ、その哲学を教えてくれたお礼にと、僕は彼女をとある砂浜へ連れ出した。

 その砂浜は巷で噂になっている、真っ白に近い砂が支配する領域だった。

「ここに、がやって来るのね?」

 彼女が僕にそう確認をした。

「そうだよ。午後の3時になると決まって、彼は翼の生えた木馬に跨って遥か上空の大気圏からこの砂浜へやって来るんだ」僕は意気揚々としていた。

「その彼は、一体どんなひと?」

「見た目は5歳くらいの男の子さ。けれど、だからといって彼のことを決して侮ったりしちゃあいけないよ。彼はさ、僕ら人間に救いの手を差し伸べるためにわざわざ面倒くさそうに舞い降りてくるんだ。それでいて、その日の役目を果たし終えたら思い出したようにまた大気圏へと帰って行く。言わば、強制的な循環型行事だよ」

「強制的な循環型行事、ね」

「そう。彼はいつも小脇にとてつもなく大きなホルンを抱えてる。そのホルンが吸い取ってくれるんだ、僕らの退屈とか憂鬱とかをさ」

「それで私たちは救われるの?」

「そうとも。現にたくさんのひとがその彼に救われた、と主張しているよ。救世主、と呼んでも差し支えないくらいだ」

「救世主なのに、面倒くさそうにやって来ては思い出したように帰って行くのね」

「だって、彼は5歳児だから仕方のないことだよ」

「彼は一体、何者なの? 私たち人間の退屈や憂鬱を吸い取って、それで彼にはどんな得があるの?」

「得なんておそらく彼は望んじゃいないよ。彼にとっては、その循環型行事を全うすることが日常で、それ以上の意味なんかありはしないんだ」

「ふうん、なんだかおかしなものね」

「そう、おかしなものさ。その昔、ニュートンが『光学』のなかで時間と空間のことを【神の感覚中枢】と形容したことがあったけど、その感覚にひょっとすると近いかもしれない。僕らの存在意識なんか遥かに超越した次元に彼は生きている」

 僕らのいる砂浜の上空は晴れ切っていて、まばらに雲が見える程度だった。ちょうど真上を通過していった大型の旅客機が真一文字に飛行機雲を引いたとき、時刻は午後の3時になった。

 はやって来た。翼を生やし、たてがみを風になびかせた木馬の背に5歳児くらいの少年が跨っている。浮かない顔をしていたけれど、その小脇にはちゃんと大きなホルンが抱えられている。

 その彼が、ホルンの大きな穴を僕らの方へ見せつける。それを合図に、僕は決心をする。

「どうすればいいの?」

 彼女は不安げに僕を見た。

「たいしたことじゃない。あのホルンの大穴をじっと見つめて、頭の中で退屈や憂鬱に感じることを想起すればいいんだ。ただ、それだけだよ」

「ほんとにそれだけ?」

「そうだよ、それだけ」

 僕らはありふれている退屈や憂鬱を思い浮かべながら、ホルンの大穴を見つめた。彼女は、あまりにも強く見つめすぎて、まるで睨んでいるかのようになってしまっていたけれど。

 すると、僕と彼女の頭のてっぺんから白い浮遊物が現れた。そいつらはふわふわと風に乗り、やがてホルンの大穴に吸い込まれていった。

 それを見届けたは満足そうな顔をして、思い出したように大気圏へと戻って行った。

 それと入れ替わりに、僕らのもとへ流星がやってきた。

『君たち人間は、あの少年に退屈と憂鬱をあげてしまったよね。この強制的で循環型の行事が続くと、どんな世紀末になると思う?』

 流星は、そう偉そうに僕らに問いかけた。

「分からないな」「分からないわ」僕らは同時に返事をした。

『それなら、実際に未来の世紀末へ行って、見てくるといいよ。あの少年が本当に救世主だったのかどうか、分かるからさ』

 そう言うと、流星は僕ら二人をいっしょくたに包み込み、やがて僕らと同化した。僕らはふたつの流星となり、宙に浮遊し、気づいたときには未来へ飛ばされていた。



 流星となって僕らがやってきたのは、先程訪れた砂浜と全く同じ場所だった。真っ白な砂の支配する、日常的な世界。

 けれど、その世界の砂浜の上空はごつごつとした真っ黒な雲で埋め尽くされていて、湿った生温かい空気が充満していた。

 加えて、永続的に雨が降り続いている。

「ひょっとして、未来のこの世界では四六時中こんな天気なのかしら?」

 彼女がぼそっと呟いた。僕は少し考えてから、そうかもしれないと答える。

「そうかもしれないな。きっと、あの喇叭が吸いすぎたんだよ。僕らの退屈とか憂鬱とかをさ」

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