第29話 蛍光に照らされた静かなる災告

 ヒキガエルの鳴き声なんかが聞こえる。その音は続々と空気を震わせているし、僕らの耳の穴に刺激を与える。これまでの人生における成功も失敗も、すべて一息に呑み込んでしまうような、仰々しい圧迫感すら覚える。

 真夜中の林。闇が溶けすぎて、酸素濃度が薄い。肌に沁み込む冷たい風に彼女はため息をつき、僕の方をちらと見る。

「ごめんな、寒い中こんな場所に連れ出して。でも、もう少し待ってくれよ。そしたら、美しい神秘が見られるから」僕はなぜだか、必死だった。

「それって、信じてもいいの? 私はさあ、男の人の口から発せられる美しさとか、綺麗さとか、その類の言葉が信用できないんだよね。胡散臭い、というか」

 彼女は、少しだけ怒っているようだった。無理もない、たかだか百年以内の人生において大変貴重な睡眠時間の、その一端を僕が奪い取ったのだから。急に、僕の頭の中に希死念慮が湧いてくる。

「……それに、今日はそんな純粋なものに触れたい気分じゃないの」

 肉眼で見えない涙を溢すように、彼女はそっと告げた。その一言の中に、幾つもの時空を通り過ぎてきたであろう、微かな煩悩が宿っていた。僕はその事実に気づいていないふりをして、霧の立ち込める林を意味なく眺める。


 十分ほどが経った頃だろうか、蛍が僕らの元へ集まってきた。蛍たちは、各々が世界中の光とかを一点に集めたかのように、仄かに輝いている。その輝きは、自己主張の強さの表れでもあるし、あるいは逆に、精一杯の生命の抑制にも思えた。

「……嘘みたいに綺麗。なんかすっごく悔しい」

 彼女はそう言ってから、下唇をぎゅっと噛んだ。その頬が薄黄色に照らされて、僕は絵画みたいだと、世俗的な印象しか思い浮かばない。

「ほらね、美しいでしょ? 君もさ、いい加減部屋に閉じこもってばかりいないで、外の世界に浸ってしまえばいいんだよ」

「でも、私はもうあんなに汚い世界では暮らせそうにないから。だって、そうでしょう? 最初に拒絶したのは、私じゃない。周りの世界の方だよ。私がいくら努力して俗世間に馴染もうとしても、みんながそれを許さなかった。まるで、私のことを公害かなんかだと勘違いしてるの。それって、理不尽じゃない。私が一体何をしたっていうの? それとも、みんなは私のことをストレス発散機にしたいわけ? どうしてなの。ねえ、どうして……」

 長い演説文を早口で捲し立てるように、彼女はそう告げた。適当な返事が見当たらなかった僕は、とりあえず「それは違うよ」と彼女を否定する。

「それは、大間違いだ。君が思ってるほど、世間は君に関心を抱いていないし、同時に、君が世間に大量の毒を吐き続けてるとも思えない。要するに、世界は最初から複雑で、その複雑さが君の個性を破壊した」

 まるで教科書の例文を暗唱しているような口ぶりになってしまったと、僕は自覚していたけれど、それでも彼女の思考回路を変えるためには必要なことだった。

「理不尽、と君は言った。でもさ、人は誰しも理不尽を抱えて生きてるじゃないか。僕だって、男に生まれたこと自体、理不尽だと思ってるよ。僕は女性として生まれたかったんだ、本当は。でも、それももう叶わない。理不尽を味わったことのない人類なんて、この地球史上ひとりもいない筈だよ」

 僕がそう言うと、彼女は飛び交う蛍たちに背を向けて、やがて独白のように語り始める。

「……私はね、もう長いこと躁鬱病なのよ。自分でも制御できないくらい、悲劇的に。それでも、生きようとしてる。いいえ、生きるしか選択肢がないの。……打つ手が何一つ無くなって、とりあえず生きてる。そんな感じ」

 しばらくの沈黙が続く。その切断された時間を、蛍たちの光が埋めていく。それが彼らの義務であるみたいに。

 僕は何度か頭を酷使したあと、こう続けた。「君は知ってるかな」

「え……?」と彼女は疑問を呈する。

「イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルとか、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイもさ、君と同じような双極性障害に苦しんでいたんだよ。それでも、彼らは数々の偉業を成し遂げて、人類史にその名を刻んだんだ。つまり、君にはまだ予想もしない程の秘めた可能性が宿ってる。僕はそう思う。そうじゃないと、君の人生のバランスがとれないよ」

「本気でそう信じてるの?」彼女はなぜだか、眠たそうに言った。

「本気だよ。君が苦しいのも知ってるし、君が世間を嫌いなことも知ってる。だけど、それで終わりじゃない。むしろ、君の新しい人生はここから始まりを告げるんだよ。僕が命まで賭けて、それを保証する」

 彼女はそっと僕を抱きしめ、頬に優しくキスをした。僕の知ってる彼女がやっと、この世界に降臨した。そう思った。

 蛍の光のひと粒ひと粒が、夜空に次々と吸い込まれていく。それは、傍から見れば流星群のようにも見えた。汚い世界で輝く、美しい魂。その神々しいファンファーレが、今日やっと僕らの母・地球に鳴り響いた。

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