第28話 正六角形に宿った類稀なる災蜜

 漂流した無人島で、僕と友人はスケッチをして過ごしている。

 にわか雨が先程降った影響で、スケッチブックのところどころが濡れ、無数のシミが作られた。僕らのいるジャングルは湿度が高く、空気を吸っただけなのにむせそうになってしまうほどだ。これまで人類が一人たりとも足を踏み入れたことのないような、未開の地であることは明らかだった。

「何を描いたんだい? 俺に見せてよ」

 友人は強引に、僕のスケッチブックを奪った。彼は少しイライラを溜め込み過ぎているのかもしれない。

「……ただのベンゼン環だよ。何の変哲もない、ね」

 僕はできるだけ静かに答える。名前も知らぬジャングルには、僕らの血肉を求めて、どんな猛獣が身を潜めているかも分からない。

「君は化学が苦手だったよな? どうしてベンゼン環なんか描いたんだ?」友人は鼻の奥の方を風船みたいに膨らませ、僕の描いたベンゼン環を指差す。

 僕は小声で訂正する。「正確に言うと、ベンゼン環に見えるもの。ほら、あそこを見てごらん」

 僕は、僕らのいる地点の少し上方の、乾いた大木のある部分を示す。そこには、ちょうどパンケーキ一個分くらいのミツバチの巣がある。

「あの蜂の巣の正六角形をさ、なんとなくスケッチしてみようと思ったんだ。理由なんかは特に無いけれど。規則的な図形を眺め続けるのは、悪い気はしないしね」

「君は……蜂が恐くないのか?」

「どういう意味だよ」

「だってほら、そんなに悪びれる様子もなく堂々と蜂の巣をスケッチしてるとさ、そのうち蜂の方がそれに気づいて、この野郎とかって襲ってくるかもしれないだろ? そういう未知なる報復とか、君は気にしたりしない?」

「蜂は確かに賢い。だから、僕に敵意とか、嫌悪感とかを向けてくる可能性は否定できないね。けれど、同時に僕は彼らを尊敬してもいるからさ。その善意が少しでも伝わっていれば、急に襲ってきたりなんかしないよ」

「尊敬してるのか? あの卑猥な昆虫を?」

「そうだよ、僕は蜂のことをとっても尊敬してる。例えば、蜜蝋。彼らは蜂蜜を保存しておくために貯蔵庫を作る。それが、蜜蝋さ。そして、極めつけはその形。できるだけ多くの蜂蜜を貯めるためには、隙間のない図形を敷き詰めるのが最適だよね? 正三角形や正方形、正六角形とかね。そのうち、面積が最大になる正六角形を彼らは本能で選んだんだ。これって、凄くないか? 人間が考え付くよりもずっとずっと前に、彼らは幾何学を習得していたんだ」

 友人はふうん、と気のない返事をしてみせた。関心とも、無関心とも判断のつかない、非常に曖昧な返事に思えた。僕は続ける。

「ベンゼン環なんかはさ、あの蜂の巣の形に似ているから、好感が持てるんだ。人間の文化と、蜂の文化の、奇跡的コラボレーションだね、僕に言わせれば。心地がいいし、気持ちがいい。多様性享受の模範、と言っても過言ではないよ」

 友人はふぁあ、と大きな欠伸をした。僕の話に飽きたのかもしれない。

「そっちは何をスケッチしたの?」僕は友人のスケッチブックを覗き込む。

「俺? 俺はただ……君の肝臓の想像図をスケッチしてたんだ」

 僕のことを狙っていた猛獣は、案外近くにいた。


「君は知ってるか? 肝臓には肝動脈と門脈が通ってる。肝動脈は心臓から血液が流れ込んでくるし、門脈は消化管で吸収された栄養を肝臓まで運ぶんだ。その肝動脈と門脈はさ、やがて肝小葉に入るだろ? 肝小葉はどんなつくりになってるか分かるか? 六角形だよ。肝小葉ってのは、肝細胞が詰まった六角形が何十万個と積み重ねってるのさ。蜂にも教えてあげたいよ、こんな下らない話」

 友人はスケッチを続ける。その手の動きが止む気配は、ない。本当に彼は僕の肝臓を欲しているのか、と考える。ひょっとすると、食糧の尽きた今、この無人島で生き延びるための最終的な選択肢として、友人は僕の肝臓を選んだのかもしれない。狡猾というか、自由というか。鉄分が足りていない方はレバーをどうぞ、とでも主張するような、ありふれた軽さが友人の言葉には含まれていた。これが人間か、と僕は思う。これだけ窮地に追い詰められると、たちまち悪意を発症してしまう。それが人間、それが戦争か、と。

 僕は出来るものなら、ミツバチになりたかった。数学的事象さえも突破して、せっせと働き続ける、あの勇敢な昆虫に。人間なんて、もう僕には向いていないんだ。それを教えてくれたのが、他でもなき友人だった。

「僕の肝臓は、少し辛味が効いてるかもな」

 僕がそう言うと、友人はそっとため息をつく。「冗談に決まってるだろ。第一、俺は肉よりも魚の方が好きなんだ」と付け加えた。

 その後は、ジャングルを抜け、二人で釣りをして過ごした。あまり大物の魚はかからなかったけど、食用にできる小魚が大量に手に入った。

 その時の友人の楽し気な横顔の中に、まだ少しだけ悪意が残っていることを僕はひそかに確認した。

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