第27話 奈落の底から打ち上げられた災華

 月面着陸。月の表面は無理矢理やすりをかけたような、粗い感触がした。宇宙服に身を包んだ僕は、今、「嵐の大洋」にいる。とても巨大なクレーターだけれど、最早クレーターには思えない。頭上には真っ暗闇が広がっているし、厚手の宇宙服を着ているのに、かなり肌寒い。一歩、また一歩と踏み出す度に、腰のあたりに浮力がかかって、なんだか気持ちが悪い。

 きっと奈落の底に突き落とされたとしたら、こんな世界が待っているんだろうな、とふとそんな想像が頭を過ぎる。暗くて、湿ってて、うすら寒い。それでいて、おみくじで「凶」ばかりを引き当ててしまうような、どうしようもない絶望感が向かえに来てくれるのだ。

 僕は、宇宙服の内部に取り付けられた、小型トランシーバーに声を放つ。

「こちら、No,9。無事、嵐の大洋に到着いたしました。応答願います」

 しばしの沈黙。妙に不安になった僕のこめかみあたりに、つうんと緊張の汗が流れる。口から吐き出した息の量が少なかった。

 ジリジリ、と砂をかき混ぜたような汚れた音が聞こえた。応答だ。

『……こちら、No,2。豊穣の海、到着いたしました』

『こちら、No,7。静かの海に辿り着きました。なんとか、無事です』

『あー、聞こえますかあ? こちら、No,5。湿りの海に到着。恐ろしいくらい、乾いてるけど。大地も俺も』

『こちら、No,8。晴れの海に到着いたしました。異常ありません』

『こちら、えーと……何番だっけ? あ、そうそうNo,4。雨の海に着いたわ。ただ、何の感動もないわね』

『ええ、こちらNo,1。神酒の海に只今、到着! 何とも言えない、絶景だあ!』

『こちら、No,3。氷の海に着きました。……ちょっとだけ、寒いです』

『あ、あ、聞こえますか? こちら、No,6。雲の海に到着いたしました。異常ありません』

『こちら、No,11。蒸気の海に着きましたよ。へー、月ってこんな顔してんだあ。可愛いもんだ』

『応答です。こちら、No,10。無事に、危機の海に到着。生存してます』

 次々と、僕の耳元へ仲間たちの無事が届けられる。ふう、と安堵のため息をつく。みんな、それぞれのやり方で月面着陸に成功したみたいだ。なにせ、地球の各地から伸びたエレベーターでやって来たのだから、大した怪我とかは無くて当然だ。こうして、地球にいた時と全く同じ調子の仲間の声を聴くと、緊張が一気に溶けていく。ここは、決して奈落なんかじゃない。本当はもっと、僕らが考えているよりも壮大で、美しくて、けれど寂しくもあって、その混沌こそが最大の魅力でもある、そんな大地なんだ。わずか六大陸の世界で満足してしまっていた今までの自分が恥ずかしい。

 喉が渇いてきた。救急箱みたいな真っ白な荷物ボックスから、チューブ状のグリーン・ティーを取り出す。口に含む。異星人になったような、不愉快な感覚がした。

 鳥の鳴き声が聞こえた気がした。あるはずもないけれど、さえずりというよりは、必死に悲鳴を上げているような、切迫したか細い鳴き声。幻聴だろうか、と自分自身を疑う。残念ながら、大した答えには辿り着けなかった。ひょっとしたら、この無限な宇宙空間のどこかで、人類がまだ知らない生命体が産声をあげたのかもしれない。神秘的なのか、恐怖なのか分からない、その瞬間に僕は居合わせたのかもしれない。だとしたら、なんと運がいいことだろう。またひとつ、歴史時計が動いたんだ。

 

「皆さん、そろそろ花火の打ち上げの準備に取り掛かってください。発射は同時に、ですよ? ここ大事です。期末試験に出しますから」

 一応隊のリーダーを務める僕は、またもトランシーバーに声を吹き込んだ。そう、これこそが僕らが今日、月にまでやって来た真の目的。月面に散らばる、無数の海から同時に勘尺玉を放つ。全部で11個の花火が宙に描かれるという、刹那的な美の造形のために、わざわざひと肌脱いだという訳だ。

 みんなからの応答が、時差を生じて僕のもとへ届く。十種類の声の反響が、再び僕を安心させる。誰かが言っていた。「ひとは独りでは生きられない」、と。僕は久しぶりに、そのあまりにも退屈で、陳腐で、世俗的な言い回しを咀嚼するはめになった。

「みんな、行くよー。いっせーのせー、で……!」

 月の遥か上空に、11個の花火があがった。大輪の華たちは、僕ら各地に散らばる僕らを堂々と見下ろして、余裕しゃくしゃくと宙に浮かぶ。生意気な、と僕は思う。花火のくせに、花火の分際で、でも悔しいくらい美しかった。地球で目にしたものなんか、比じゃない。これが本来の花火の姿であるといったような、圧巻の眺めだ。月の上空は、地球でいうところの夜よりも、幾ばくか闇を多く吸い込んでいるからかもしれない。耳元に、仲間たちの歓声が矢継ぎ早に届く。地球なんか、もう飽きちゃった。そう洩らした人もいた。ほう、と僕は思う。それはまた、大それたことを言ったもんだな、と。

 結論、クレーターは決して奈落の底なんかじゃなかった。

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