第9話 虹彩に焼き付けられた災日
六歳のときだった。
母の帰りを待っていた僕はその時、得体のしれない不安に駆られていた。
僕が縮こまって座っているのは、百面鏡に囲まれた鏡張りの一室だった。無数の僕が、実体の僕を大人しく取り囲んでいるような状況に思えて仕方がない。
シングルマザーの家庭に産み落とされた僕には、父親という存在がいなかった。永らく唯一の愛情である母性を注がれて育ったわけだけど、父性というものは一切肌に沁みた試しがなかった。
その日は、僕の六歳になる誕生日だった。日曜日でゆったりとした時間が流れ、昼頃に母は突然「バースデーケーキを買ってくる」と言って家を出て行ったのだ。僕ははじめ、リビングで絵本のページを捲りながら時間を潰していたのだが、二時間が過ぎたあたりで急に不安と仲良くなってしまった。いたたまれなくなった僕はリビングを出て、階段を下り、一階にあるこの百面鏡に囲まれた部屋へとやって来て、ちょこんと座り込んだ。普段は使用されることのない特別な部屋だからか、妙に清潔感に溢れていて、汚れやしみがひとつも存在しない空間である。ところが、それは居心地がよろしくないことの裏付けでもあったから、当時の僕にはある種の恐怖心を植え付ける空間でもあった。
次第に僕の内側で、緊張が稲妻のように駆け巡りはじめた。脳髄から発せられ、咽頭を下り、左心房を通り過ぎて、五臓の六腑に染み渡っていく。まるで、僕の体内で小さなネズミが無我夢中で走り回っているような感覚だった。語彙力の乏しかった当時の僕には、それがまさか「緊張」だなんて思いもしなかっただろうけど。
僕は必死にペンギンを想像してみた。氷の上を集団でよちよちと歩くあの奇妙な動物を、だ。なぜそんな想像をしたのかと問われれば、先程まで読んでいた絵本にペンギンが登場していたからかもしれないし、ただ単に安心感を与えてくれるマスコット的な存在を無意識に求めていたのかもしれない。とにかく、その時の僕は懸命にペンギンの群れをイメージしてはその光景を脳裏に焼き付けるという習慣的行為を繰り返した。
百面鏡の部屋には時計がなかった。それだからか、額から夏でもないのに汗が噴き出した途端、さらに時が経過した事実を知った。母はケーキを買ってくるとだけ言っていた。それにしてはあまりにも遅すぎる。僕はだんだんと裏切られた心持になってきていた。
もう、ペンギンの頭数も減ってきた。彼らは彼らで、もう何度も僕の頭の中の世界に登場したもんだから、いい加減疲れ始めたのかもしれない。そろそろタイムカードをレコーダーに挿入して退勤してもらわねばなるまい。どうも、お疲れ様。小さなペンギンたち。
その時だった。僕の目の前に流星が現れた。部屋の中だというのに、また夜でもないのに、なぜ? と僕は混乱したけれど、その流星が温かい空気を僕の方へ送ってくれたおかげで不安が少しだけ減ったことは確かだった。
流星は僕に問うた。
『きみのお母さんは今どこにいると思う?』
「どこって、ケーキ屋さんじゃないの?」僕は抗議するように、それまでの怒りをその流星に向け、八つ当たりをしてしまった。
『そうだね、ケーキ屋さんには行ったみたいだけど、それは一時間前の話。今彼女はお姫様になっているんだよ』
「どういうこと?」
『自分の眼で確かめてみるといいよ』
流星はそう言うと、僕の全身に巻き付き始めた。徐々に僕の身体は流星に支配され、やがて実体が消えてしまった。
「あら、やだ……そこは」
部屋中に響き渡る母の喘ぎ声。あるマンションの一室で、母と知らない男のひとが抱き合っていた。流星となった僕はその光景を天井付近から眺め、ただ呆然とした。当時の僕には男女のそうした行為についての知識はなかったので、母が男のひとと戯れる様子を理解できなかった。それでいて唯一、母が自分の目の前では見せたことのない新しい表情をしていたことだけは記憶の奥の奥にしっかりと刻み込まれたのだ。
流星が僕の全身から剥がれ落ちて、僕は自宅のリビングへと戻ってきた。それから三十分くらいして、母がバースデーケーキを手にしてついに帰ってきた。張り付けたような笑顔で、頬の周囲が微かに紅潮している。
「ケーキ、買って来たよ。お誕生日、おめでとう」
その時の母の笑顔が気持ち悪かった僕は、テーブルに置かれたバースデーケーキを放り投げたんだ。その時の母の驚いた顔は多分、もう一生忘れないと思う。
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