第10話 分身した明後日に見る災夢

 僕は友人のあゆみと一緒に晴天の空の下、ゆっくりとカヌーを漕いでいた。

 秋の清々しい空気が妙に美味しい。鼻腔を潜り抜け、咽頭を一生懸命に通過し、やがて全身に波及する気体。呼吸するだけで体内が勝手に洗浄されるようで、どこか得をした気になってしまう。

 僕はゆっくりオールを漕ぎ、濁った川の水面に形成された波紋を見つめながらあゆみに話しかける。

「なあ、あゆみ。明後日はいよいよあの山に登るんだな」

 そう言って僕が目線をやった先には、遥か天空へその頂を自慢げに向ける大きな山があった。紅葉が綺麗なグラデーションを造りだしていて、遠目でもその美しさに目がやられてしまう。きっと、サングラスか何かを一枚、山と自分の間に挟んだ方がよさそうな気がする。

「そうね、晴れるといいよね」

 あゆみは仰向けに寝そべった格好でそう返事をした。その潤った瞳は真っすぐ青空に向けられている。

「あたしね、少し先の未来に何か楽しみな予定があると、その高ぶった気持ちが抑えられなくなるの。なんというかこう、どうしようもなく緊張が続いてしまう感覚がするのよ」

「……楽しみなのに緊張するのかい?」

「そうみたいね。楽しみだけど不安になるのよ、きっと」

「そりゃきっと、考えすぎなんじゃないかな。ほら、怪我したら嫌だなとか、蜂に刺されでもしたらどうしようとか、そういう細かい心配をしすぎるからかな?」

「そうじゃないのよ。確かに心配事は尽きないわ。けれど、それとは全く別の感情というか。楽しみが自分の体内で必要以上に増殖して、制御が効かなくなる、と説明した方が分かりやすいかしら」

「なるほど。楽しみに身体を乗っ取られるんだね、あゆみは」

 オールにぐっと力を入れる。ちょっとしたカーブが前方に見えてきたので、少しだけ僕に緊張が走る。視野を広く取って、川岸にぶつからぬよう気を配りながら右に曲がる。

「楽しみに身体を乗っ取られる、そうかも。その言い方がいちばんしっくりくるわ」

 あゆみは真上に迫った太陽の眩しすぎる光に思わず目を細めた。

「でも、不思議よね。自分の身体のコントロールが効かなくなるなんて」

「似てるか分からないけれど、面白い菌類がいるんだ。学名をオフィオコルディケプス・ユニラテラリスといって、俗にタイワンアリタケの名で知られる菌類なんだけど。やつらはさ、蟻を宿主しゅくしゅとして、たくさんの胞子をその体内に侵入させるんだ。そして、宿主の蟻が死ぬと、その死体から生えはじめるのさ。実に奇妙な繁殖の仕方だけど、僕は賢くてずるいとさえ思ってしまうんだ。きっとさ、あゆみの体内で勝手に増殖する楽しみも、タイワンアリタケみたいにずるくて賢いやつなんだよ」

「……あたしが楽しみの宿主になっているのね。嘘みたい」

 そのままカヌーはゆっくりと進路を確保していく。そのすぐ脇の岸には、蟻が行列を作ってせっせとどこかへと急いでいるのが目に入った。

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