第20話 熟しすぎた果実に似た終末の災球

 地球がその崩壊を始めて、四十九日が経った。

 この世から昼間は姿を消し、太陽光の一切差さない薄暗い世界に変わった。ビル群は全て倒壊し、川は氾濫し、焼けただれた電線のあちらこちらから火花が常に散っている。墜落した旅客機の残骸、脱線した特急電車の破片、地面にめり込んだ高級車から漏れる排ガス。すっかり日常は汚染されてしまった。

 人々の死体も無数に転がっている。その屍から漂う匂いが周囲の空気に充満し、また新たな汚染が広がっていく。その光景は見るも無残で、きっとこの地球の歴史を始めた創造神が目にしたら、言葉を添えることもなく視線を逸らすことだろう。

「ん……? もう朝……?」彼女が目を覚ます。

「起きたんだね。でも、今が朝かどうかも分からないよ。こんなにも闇に包まれてるし」僕はできるだけ優しく、そう答えた。

 この地球上には、もうきっと僕と彼女の二人しか生き残っていない。いや、仮に見知らぬ土地に誰かが息を潜めていようとも、僕らしか存在していないと思いたかった。どういう訳か、僕たち二人はここまで生き残ってきた。その最たる理由としてまず思い浮かぶのは、僕と彼女だけが全人類の中で唯一「永遠不幸の実」を食したという、滑稽極まりない事実だけだった。


「私……もう生きたくない」彼女が呟く。

「そんなこと言っちゃだめだ。両親が悲しむよ」僕は彼女をできるだけ優しく、叱った。

「だって、その両親すらもういないじゃない」

「……僕らがまだ生きてる。だから、君のご両親だって完全には消えていないよ」

「そんなの綺麗ごとだよ。粋狂にも程があるよ、あなたは特に」

「そうかな。……そうかもしれないな」

 このところ、僕らは乾パンしか食べていない。それも、大嵐に飛ばされ、道端に放り出された、カビの生えかかったやつだ。

 僕らは倒壊したビルの瓦礫の下に身を寄せている。壁や窓があるわけではないので、風雨を凌げるとまではいかないが、少なくとも野ざらしになるよりかは幾分ましだった。廃車から引っ張り出してきた汚い毛布を被り、僕らは互いに身を寄せ合う。こうしていた方が、風の吹きつける寒さから体を守ることができる。なにより、身体的にも、精神的にも、こうしている方が暖かいのだ。

 なにせ、僕らは「永遠不幸の実」を食してしまったもんだから、絶命することすら許されない運命に到着してしてしまった。いつ何時も、大切な肉親を失くそうが、地球が壊れかけようが、問答無用で次々と無数の不幸を体現しなくてはならない。この四十九日の間、僕らは嵐から逃げ、大火災を退け、大地震を経験し、津波に巻き込まれた。けれど、死ぬことは出来ない。いや、許されない。あの果実を頬張ったが最後、災難の連鎖から逃れる術は最早皆無だった。


「ねえ、知ってる? もう私にはあなたしかいないの」

 彼女が僕の首の周りに両腕をきつく回し、そっと抱きしめる。何かの香水みたいな匂いが仄かに香る。

「当然知ってるさ。僕にだって、もう君しか残ってないんだから。他のものは悉く葬られちまったし」

 雨が復讐の始まりを告げるかのように、強く降り始めた。僕は、彼女の背を抱きよせる腕に力を込める。香水の匂いが纏わりつく。全世界で唯一の、人工的な匂いに思えた。

 彼女が生唾をごくりと呑み込み、喉を震わせる。その喉から透けて見える静脈のちょうど真上あたりに、一筋の汗が煌いていた。僕は理解している。彼女が常に緊張を纏ったまま、非凡な日々を過ごしていることを。それは、地球が崩壊し始めるよりずっと前からそうだった。

 幼かった。彼女の四肢を眺めて、僕はそんな感想を思いつく。世界はこんなにも熟しすぎているってのに、君は一向に若いままだ。その矛盾がどこか潔くもあった。絶望的な反乱に対し、彼女だけがひとり白旗を振るうことなく、幼稚な反発を繰り返しているような、そんなイメージが頭に浮かぶ。

 そんなことをしてる間に、とっくに世界の方が目を閉じちまったけれど。

 そっと、赤子にするように、僕は彼女の頬を擦る。その頬に汗とは質の異なる液体が、体温と共に流れていることに気づく。彼女は泣いていた。

「……私、いつまで生きればいいの? いつまで迷子になればいいのよ。もう、途方に暮れる方法さえ忘れてしまったわ。ねえ、あなたは教えてくれる? 一体、私は何をどうすればいいのよ」

「そんなことは、僕にだって分からないよ。唯一分かってるのは、僕らはどうもこういうカタチに仕立てられた、ということだけだ。『永遠不幸の実』を食べたあの瞬間から。お天道様が怒ったんだよ、きっと」

「私たちは幸せになることが許されないの?」

「そうかもしれない。けれど、勘違いしちゃ駄目だ。幸せが必ずしも人に必要な代物じゃないってことと、永遠に不幸であることをさ。ほら、君の大好きな坂口安吾も言ってたじゃないか。私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福などはねがわない。幸福などというものは、人の心を真実なぐさめてくれるものではないからである、ってね。僕らも安吾と一緒だよ。時代は違えど、その心の内に秘める哲学は少なくとも」

「……私、あなたのそういうところが大嫌い」彼女は涙を手の甲で、一生懸命に拭った。

「僕は、君のそういうところが大好きだけど」

「馬鹿」

「馬鹿でいいよ。今じゃ、世界で唯一の馬鹿だしな」

 彼女が静かにはにかんだ。その瞬間、彼女の全身が青白く輝きを放ち、周囲を焼くような眩しい光を撒き散らし始める。僕は思わず目を瞑る。すると、彼女はすっかり光に侵食されて、はるか上空へと飛び立った。それはまるで、大星団からこっそりと抜けだした流星のようで、孤独を纏ったまま夜空を流れて行った。

 彼女が弾けた瞬間、僕は香水の匂いを思い出した。


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