第19話 真っ青な常識が覆る災室
手のひらに近赤外線を照射する。僕の静脈のかたちがくっきりと浮かび上がり、静脈認証が完了する。シュウんと、小さな生物がそっと息を引き取るかのような、微かな音が鳴った。目的の部屋の扉が開かれる。
地下115階の研究室。僕はそこへ、ある研究者と顔を合わせるためにやって来ている。その研究者は誰よりも傲慢で、誰よりも神秘的で、誰よりも「平凡」を嫌っていた。
「やあ、また君かい」
研究室へ入るなり、彼は面倒くさそうな視線を僕に寄越した。
「その仰り方だと、まだ例の調査に時間を奪われているみたいですね」僕は嫌味を言ってやった。「あなたらしい」と付け加えておく。
「いいや」彼は短く否定する。
「違うのですか?」
「例の調査に関しては、いまだ進歩は見て取れんよ。なにせ、これだけ人口が爆発した惑星全体を標本として、特異体質保持者を見つけるという、途方もないものだからさ。広大な海の中から米粒ひと粒を探し出すようなもんさ。早々、うまくいくものではないよ。それよりも、私が懸念しているのはそっちじゃないんだ」
「と言いますと?」
「私が最も危惧していること。それはね、静脈至上主義がこのまま進行していいものなのかってことだよ」
「はあ」
「君の知っての通り、ここ最近で静脈が我々人類の文明に及ぼした影響は計り知れない。今や部屋のロックは静脈認証が当たり前。会計だって静脈決済、健康診断や遺伝子検査までも静脈だけで結果が分かる時代さ。いいかい? この流れは極めて危険なんだよ」
「危険……ですか?」彼が一体何を言いたいのか推し量ることができず、僕はもぞもぞとする。ついでに、鼻を啜る。
「考えてみたまえよ。人類が核開発をした際、確かに科学は大いに発展したし、原子力発電なんて最高の電力供給技術を手にした。しかし、実際はその後どうなった?」
「人間は、戦争に核を利用しました」
「そうだろう? つまりさ、全人類にとって普遍的に優れた実存在が発現するたび、世界は崩壊へのカウントダウンをこっそりと始めるんだよ。そうなるように、仕組まれているんだ。だからこそ、危険と私は言っているんだよ」
「でも、僕は静脈至上主義についてよく知りませんし、それが世界を大きく揺るがすほどの存在なのかどうか、判断しかねます。そもそも、さっき僕が潜ったあの静脈認証の仕組みさえ、僕はいまだによく理解していませんし」
「あれほど単純なシステムはないよ。平凡な君でも分かるように説明すると、皮下組織の静脈の中には還元ヘモグロビンが流れているんだが、これを利用している。それらは近赤外線を吸収すると黒く映され、そこから本人の静脈と照合するのさ。生体認証の中では、最も防犯に貢献している」
「動脈でもよさそうなものですが」
「よく考えてみな。静脈の方が、動脈よりも皮膚に近い場所にあるだろう? それに加えて、静脈を流れる赤血球はね、特定の近赤外線を吸収しやすいんだよ」
「そうだったんですか」僕は研究室のコーヒーを淹れる。
「ホットで頼むよ」
「はい」
僕が湯気を立たせたコーヒーを持ってくると、彼はくるりと回転椅子を回し、僕にこう問うた。「君は歴史の始まりになりたくないかい?」
「歴史の始まり……ですか?」また彼の講釈が始まったと心の内で悪態をつき、彼の次の言葉を待った。
「私はね、人類史上初めて歴史の始点になった人物をそれはそれは尊敬しているんだ」
「はい」
「クリスタ・マコーリフだよ」
「誰ですか?」
「西暦1986年1月28日、NASAが打ち上げたスペースシャトル・チャレンジャー号。その乗組員の一人だったクリスタ・マコーリフは教師出身の宇宙飛行士でね。彼は、宇宙空間での液体実験やニュートンの運動の法則に関する実験を宇宙から中継すると言ったんだ。だからこそ、全世界の人々が期待を膨らませ、その瞬間をただ座して待ち構えていたんだよ。しかし、チャレンジャー号は発射直後に爆発し、粉砕。マコーリフを含む乗組員全員が犠牲となったのさ」
「……そんなことがあったんですか」僕はそのあと、しばらく黙り込んだ。
彼は、僕の様子なんか全く気に留めることなく、淡々と話し続ける。
「私は、マコーリフこそが人類史上最も歴史の始点に近づいた人物だと考えているんだ。彼の野心は確実にその後の多くの者に受け継がれたし、その甲斐あって世界はここまで成長した。私は、彼のような存在になりたいんだ。歴史の始まりそのものにね」
「なれるといいですね」部屋が少し、冷えかかっている気がした。
「だからこそ、一日でも早く特異体質保持者を見つけ出し、世界にお披露目しなくては。世界がそれを待っているし、それこそが私の使命だ」
「おっしゃる通りです。ところで、その特異体質保持者というのは、先天的なものでしょうか。それとも何か原因がおありで?」
「噂では流星が墜落した地域に、彼らは出現するという話だよ」
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