第8話 ややしょっぱかった災食

 じゃがいもを切り刻んだんだ。すべて一口大に均等にしてさ。それから人参を角切りにして、玉ねぎをスライスし、豚肉、ブロッコリーとともにいったんボウルへ一時避難させるんだ。

 そう言って、その鹿は鍋の中にサラダ油をささっと垂らした。鹿? そう、紛れもなく正真正銘の鹿が僕の目の前にいた。当時まだ小学生だった僕には、その鹿が少しばかり滑稽な存在に思えたもんだから不思議だった。

 僕と鹿がいる場所は、とある結界の中だった。四方を真っ白な壁に囲まれた、巷に浮かんでいる一切の嘘をすべて捨象したような空間。あるいは、汚点のつけられた過去を立ち入り禁止エリアに変えてしまったような、そんな空間にも思える。

 その空間に僕よりも先に来ていた鹿は、最初に僕を認めたときにオーバーに驚いてみせた。やや沈黙があった後、気まずさを察したのか、は突然シチューを作ってあげると言い張った。それを聞いた僕はさりげなくありがとうと言って、そのシチューが出来るまでしばらく待つことにしたというわけだ。

「それにしても、随分とこの国では選挙が多いですよねえ」

 鹿は愚痴をこぼすように呟きながら、鍋に具材とたっぷりの水を入れ、弱火で煮込み始めた。

「……民主主義の国だからじゃないですか」

 僕は話すのが面倒くさそうな風を装って答える。

「君は小学生なのに、よくそんな言葉を知っているね。ところで、選挙権が人間だけに与えられているのはどうしてなんでしょう?」

「どうしてって言われても」

「困りますよね。これは失敬。では言い方を変えましょう。どうして鹿には選挙権が存在しないのでしょう?」

「……」

 僕は返答に困ってしまった。何を言い出すんだ、この鹿は。人間の決め事に鹿なんかが参加できるわけないじゃないか。

 鹿はグツグツと煮える鍋を見つめながら、語り始める。

「人間は大昔から様々な種類の権利をもとめて革命を起こし、絶えず歴史を動かしてきました。その過程で、生存権や財産権、選挙権、平等権などを逐一造り上げてきましたよね。社会権、なんて大層なものもありましたか。ところが、人間以外に視点を移してみるとどうでしょうか? 例えばこのシチューに使用される豚には、家畜にされることに対する拒否権はありましたでしょうか? 当然ないですよ、そんなもの。いつだってそうです。人間は人間のことしか考えちゃいない。まるで地球上における上位高等種であるかのように。でも、それは真実ではありませんよ。考えてみてください。人間よりも我々の祖先の方が先にこの惑星に棲みついたんですからね」

 鹿はやたら饒舌に喋った。独演に近いその語りは、当時の僕にはおおよそ衝撃的だった。誰に何を言われているんだろう、というある種の混乱が頭の中で渦を巻いて、次第に息が詰まる思いに襲われるのだった。それは今思えば、罪悪感を覚えた時のあの締め付けるような酷い頭痛に似ているのかもしれない。

 鹿は鍋の火を止め、ルウを入れてぐるぐるとかき混ぜた。そして再び火をつけ、牛乳を少しばかり加え、菜箸でゆっくりと掻き回しはじめる。

「そうだった。君はどんな権利が欲しいのです?」

 鹿は鍋を見つめたまま、僕にそう訊ねてきた。少し考えてから、僕はその答えを捻り出した。

「そうだなあ、できるものなら大スターになって、世界に名を轟かせたいなあ」

 僕がそう言うと、鹿はくすくすと笑い始めた。

「よほど承認欲求の強い人種なんですねえ、君は」

「しょうにん……何ですかそれ」

「大人になったら分かりますよ」

 鹿は鍋の火を止め、どんぶり茶碗にたっぷり過ぎる量のシチューを注ぎ込んだ。それを僕の目の前の床に置いて、僕とはじめて目を合わせてきた。

「でも、大丈夫。君はきっと大スターになれますよ。ほら、手のひらを見せてごらん」

 僕が左手を差し出すと、鹿はその手のひらに青白く発光する物体を発現させ、それは次第に僕の全身を呑み込んだ。生温かくて、妙な感覚にさせる物体だった。それは傍から見れば流星のミニチュアのような代物だった。

「さあさあ、このシチューをすべて食べきることです。そうしたら、君は未来に行けるようになりますからね」

 僕は鹿の言うことを素直に聞いて、シチューを力いっぱい胃袋に流し込んだ。多少のげっぷが出てしまったけれど、鹿は気にしていなかった。

「それではご案内します。君が未来でどう過ごしているのか、その答え合わせといきましょう」


 そこはどこかのライブハウスのような場所だった。狭く、暗く、そして湿気が物凄い。中にはちょうど百人くらいの観客がいて、向かいのステージの上では未来の僕らしき青年を含む四人組のロックバンドが盛大に音を奏でていた。ツインボーカルのようで、未来の僕ともう一人知らない金髪のひとが口を大きく開けて歌っているのだ。その金髪のひとは力みすぎて、マイクが少しハウリングを起こしていたけれど、観客たちはその熱量のあまり気にしていない様子だった。

 未来の僕はその舞台でそれはそれは気持ちのよさそうな顔をして歌っていた。今日が人生最後の日でもいい、そう言いたげな瞳をしていた。流星となった僕はその光景を見て感動を覚えた。まだまだ未来には可能性が残されているんだ。

 自分らしく生きることのできる権利とともに。

 

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