第22話 極限なる夜更かしの続く災旅

 日本から遥か離れた、遠い異国の地。僕らは寝台列車に乗って、目的地である湖を目指す。

 個室には僕と、旅の連れである女性がいる。彼女は、どうしても一緒に行きたいとあまりにうるさかったので、僕が仕方なく許可した類稀なる同伴者だった。僕らの目指す湖のある地域は極寒であるのに、まるで休日のOLのようないかにもラフな格好をして、彼女ははしゃいでいる。

「寝台列車って、私初めて。こんなに清潔だとは思わなかったなあ」

 彼女の偏見が宙に吐き出される。それは突発的に出来たシャボン玉みたいに、一定時間浮遊してから、僕の顔の真ん前で弾け、消えた。

「修学旅行じゃないんだから、もっと気を引き締めてくれよ」僕は注意する。

「だって、せっかく二人っきりの旅なんだし。少しくらい楽しもうとして何が悪いっていうの?」彼女の癖は、すぐ不機嫌になることだ。

「いいかい? 日本を発つ時にも説明したけど、僕らが向かってる場所はとても危険な湖なんだ。普段なら、立ち入り禁止区域に指定されてるっていう。生半可な覚悟で行くようなところじゃないんだよ」

「……ふうん。私、そういうの気にしないから」

 僕は思わず、深いため息をつく。彼女を連れてきたのは間違いだった、と多少の後悔をする。そんな僕のしょぼくれた様子なんかには目もくれず、彼女はまるで小学生のように、窓から見える真夜中の大自然と対峙している。



 キャリーケースの中から薄い毛布を二枚取り出し、僕らは仮眠をとることにした。毛布を広げると、細かい羽毛やら、見えない埃、あるいは衣服からこぼれ落ちた疲労感とかが、いっしょくたになって空気を汚した。僕は我慢できず、盛大にむせる。彼女の方はどうやら平気のようで、表情筋の一本さえ動かすことはなかった。

 その時だった。

 突然、車内アナウンスが流れ始めた。日本語でも英語でもないため、何を言っているのかさっぱり分からない。唯一把握できたのは、アナウンスをする声の主がひどく眠たそうで、うまく呂律の回らない口ぶりであるということだけだった。

「何だったんだろうね、今のアナウンス」

 彼女が毛布を膝に掛けながら、言う。僕は「さあ」とだけ短く答えて、さっさと仮眠に入ることにする。ちょうど目が覚めたあたりで到着だろうと高をくくり、スマホのアラームは設定しない。

 仰向けになり、毛布を肩まで掛けると、急な安心感に包まれる。公共の空間のはずなのに、まるでそこが大昔から個人的スペースだったかのような、そんな狡い錯覚が襲う。それは心地がよかった。僕の瞼は重くなり、次第に視界が狭くなっていく。

 ガシャン、と大きな音がして、個室の扉が開いた。

 僕と彼女は互いに何事だと一瞬身体を固くして身構えたが、何のことはない、ウエイターが夜食を運んできただけだった。綺麗に磨かれた真っ白な皿の上に、海鮮パスタと、チーズとトマトのたっぷりかかったピザが、それぞれ二人前用意されている。ウエイターは個室のテーブルの上にそれらの皿を丁寧に並べ、やがて口を開くこともなく、ただ会釈をして個室を出て行った。

「……随分とボリューミーな夜食だな」僕はそう言った。

「そうね。この国の人たちはみんな食いしん坊なのかしら?」

 せっかく用意してくれたのに全く手を付けないのも無礼だったので、特にお腹は空いていなかったが、僕らはそのイタリアン夜食を食べることにした。僕はピザを先に食べ、彼女は海鮮パスタを先に食べ終えたところで、二人ともお腹がいっぱいになった。ピザとパスタがそれぞれ一皿ずつ残り、どうしたもんかと僕らはどうしようもない悩みを抱える。

 すると再び個室の扉が開き、さっきとは別のウエイターが、今度は中華料理を運んできた。肉まんに麻婆豆腐、チャーハンと水餃子だった。僕らはため息をつく。

ウエイターは軽く会釈をして、個室を出る。

「聞いてないんだけど。これって新手の嫌がらせなの?」彼女はすぐ不機嫌になった。その両の瞳の鋭さは、今にも小動物を狩ってしまうかのように、軽い殺気を伴っている。

「……チケットの価格が少し高めだなとは僕も思ったんだけど、まさかこの料理たちのせいなんじゃ……」

 僕らはしっかりと時間をかけて、惰性で肉まんを頬張り、惰性で豆腐を崩し、惰性でチャーハンをかき混ぜ、惰性で水餃子の皮を破っていった。そうするうち、だんだんと眠気が襲ってきた。そうだ、今は食事をしている場合ではないんだ。明日の朝には目的の湖に辿り着く。それまでに十分な仮眠をとらなくちゃいけないのに。

 またウェイターがやってきた。今度は和食だった。内容は寿司にお好み焼き、卵焼き、それとなぜか羊羹だった。実に、テーマが無い。日本食だけれど、この組み合わせ方は、あまりにも根性がなかった。

 彼女はもうノックアウト寸前で、虚ろな目で羊羹を箸でつついている。僕の方もさすがに胃が限界に達していて、これ以上は食べられないと思い、せめて卵焼きだけでも口へと運んでいく。

 その次は、ハンバーガーとフライドポテト、チキンナゲットのセットだった。勘弁してくれ、と僕は思う。この順番には明らかな悪意があった。乗客を吐かせようとしているとしか思えない。これは最早悪戯の域を超えて、迷惑防止条例違反だろう。そんな制度も、この国にあるはずがないけれど。

 僕らは二人とも、お腹が気球のように膨らんでいた。妊娠しているようにも見える。

「私、もうダメ。意識が遠のいてく……」彼女は気絶しそうだ。

「無理しなくていいよ。トイレは隣の車両にあるから、行っといで。と言っても、僕もなんだか気分が悪くなってきたな、なんだこりゃ。最悪の旅だな、まったく」

 ナプキンで口周りを拭く。僕らはもう限界が近いづいていた。


 そしたら、だ。寝台列車はいつの間にか、目的の湖に到着していた。

「嘘だろ」

 気づけば、僕らは夜通し食べ続けていたらしい。そうなるように、仕組まれていたのかもしれない。

 キャリーケースを引っ張って列車から降りると、目の前に広がる湖に、次々と火花を散らした流星が衝突している、神秘的な光景が見えた。流星が水面に当たるとすぐに爆発的な蒸気が上がり、波紋が広がっていく。永遠に、破壊と生成を繰り返しているようにも、思える。

「わあ、すごく綺麗。お腹いっぱいで気持ち悪いけど」彼女の不機嫌は直っている。

「そうだね。地球上の景色とは思えないくらい、美しいよ。胃もたれで、今にも吐きそうだけど」


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