第23話 天井からぶら下がる極光の災照

「綺麗だね。この星のものとは思えないくらい」

「たしかに。こんな贅沢な夜は初めてだよ」

 僕は知り合いの女の子と二人で、高緯度地域へ来ている。大変気温が低く、鼻の穴まで凍ってしまいそうな、運命的な寒さだ。僕は厚手のコートの下に五枚も重ね着をし、彼女はというと、まるで狩猟民族のような毛皮にその細い身を包んでいる。

 僕らはログハウスの外を出て、巨大な氷の上に立ち、今夜だけのオーロラを見上げる。その眩い光はどこまでも鮮明で、原初の地球はすべてこんな色をしていたのではないかと思ってしまうくらい、存分に美しい。

 スマホで画像を撮影し、それをネット上に投稿する。友人のフォロワーが、「神秘的だ」と即時にコメントをした。

 僕は違うと思った。「神秘的」なのは、このオーロラなんかじゃない。あの光の連続的演出はなにも、「神秘的」ではない、と。いっそ「神秘的」と言うならば、この大規模な独演会に立ち会うことのできた、僕らの行動こそが神秘に近かった。



「あのオーロラを落札するとしたら、いくら払う?」

 突然、彼女はそんなことを口にする。

「現金で? そうだなあ、一千万くらいかな」僕は適当に答えた。

「えっ、それ本気で言ってんの? 安すぎでしょ」

「安いかな」

「だって、北極圏に近いところにいる人たちは、みんなあの光の束を愛しているんだよ。それを独り占めして買い落とすっていうんだから、もっと払わなきゃ」

「だったらどれくらい?」

「百兆円くらいかな、日本円にして」

 ほう、と僕は思う。彼女の話は続く。

「一つの国の国家予算まるごと費やします、ってこと。それくらいの覚悟があって初めて、あのオーロラの一部をちょん切ってしまえるのよ」

「それじゃあ、国はおそらく破産だね」

「今も破産してるようなもんじゃない」

「言えてる」

「人生には大事な勝負の時がきっとあると思うの。私にとってのそれは、あのオーロラをものの見事に落札することね」

 彼女はよく「勝負」という表現を用いる。なんでもかんでも勝ち負けで決まるのなら、人類は大した苦労をしてこなかったかもしれない。それでも、彼女はいつもそうした言い回しをしたがる。すべては勝負よ、戦うの、と。

 その自由奔放さを、僕は時に羨ましいとさえ感じる。自分の中に確固とした哲学を常時備えていて、いつでもそれを引っ張り出せるだけの習慣が、彼女にはある。僕には、ない。そんな優れた常備薬を、僕は持ち合わせていない。

「あっ! あれ見て」

「なに?」

 彼女の指差した方角に、一機の戦闘機が浮遊していた。

 その悠々たる動きは、オーロラの海を優雅に泳いでいるようにも見えるし、あるいは、地上のどこへ爆撃をしかけようかと迷っているようにも見える。

「気分下がるなあ。ああいうの見ると」彼女ははあ、と白い息を吐く。

「嫌な時代になっちゃったな。急に現実に引き戻されたよ」

 僕はそう言ってから、自分自身が発したその一言をひどく後悔した。嫌な時代だと決めつけているのは他でもない、自分だったから。時代が悪いわけじゃない。僕の、僕自身の、世界に対する捉え方がまだまだ浅すぎるだけのことだ。きっと、そうだろう。自分にとっての世界なんて、いくらでも変えようがあるはずだ。そのきっかけさえあれば。

 でも、その時訪れた変化は、僕の外側で発生した。彼女が「大事な話があるの」と切り出したからだ。

 僕はてっきり「結婚したい」とか、情熱的な一言が彼女の口から発せられるのかとばかり考えていた。けれど、彼女が口にしたのは、そんな期待を激しく裏切るかのような、悲劇的な台詞だった。

「……私、男になりたいの」



「実はこないだ、性転換手術をすると自分で決めたの。昔から男の子になりたくて、その夢が叶うからもう嬉しくて。やっと、自由に生きれるんだって。生まれて初めてそう思えたの」

 その時の彼女の表情は、少なくとも今までに僕が目にしたものではなかった。生まれながらに泣き叫ぶ赤子の正反対みたいな、清々しい破顔だった。

「そう、なんだ」とだけ、僕は答える。それ以外の返答を思いつかなかった。それと同時に、彼女が長年口にしてきた「勝負」とはこのことを指していたという事実と、彼女は全く自由奔放ではなかったのだという驚愕に、頭を支配された。むしろ、彼女はこれまで誰よりも不自由していたのだ。

 その衝撃があまりにも強すぎた。僕の脳を、ゆっくりと揺らす。

 僕の知らない間に世界は少しずつ変化している。それを気づかせてくれたのが、彼女、いや、彼だった。深い居眠りからやっと目覚めたかのような気がした僕は、友人のコメントを思い出す。「神秘的」。

「……じゃあ、僕の親友になってよ。世界初の」

 彼女は少しだけ頬を赤らめ、やがてこう返した。

「史上最悪の悪友になるかもね」

 それでもいいよ、と僕は言う。頭上では巨大なオーロラが何の気なしに僕らを見下ろし、そのすぐ傍では、戦闘機が流星に衝突され、爆発をした。

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