第14話 臙脂色に塗りつぶされた災戦

 飛行船の中でぷかぷかと浮遊しながら、僕はライターで煙草に火をつけた。

口から吐き出された煙が狂ったように渦を巻き、やがて周囲の空気へ溶け込んでいった。

 この地球上から「重力」が消えて久しい。巨大な惑星が、その生命を終えるまでに一度経験するかしないかというほどの天変地異が起きたことが原因だ。というかそもそも、かのアインシュタインが一般相対性理論の中で、重力波の存在を予言した時点から、「重力」は消えてしまう運命にあったのかもしれない、とつくづく僕は思う。

 この星は、いわゆる虚数空間となったのだ。

 時間が逆行し始め、すべてのエントロピーが負の性質を帯びた。それまでの物質が反物質、すなわち真逆の性質を備え、僕ら人類の生活は一変した。

 そう、一言でいえば、なにもかもが宙に浮いた。人も列車も家も林檎も、猫も杓子も宙に浮かんでいるのが、人々の常識となった。自然界の生成物以外はすべてが大空を泳ぎ、ちょうど一人分の人生くらいの時間のうちに、続々と天空都市が形成されていった。

 小さな飛行船の中から、眼下に見える30年物の天空都市を眺めて、僕は彼女に語る。

「こうやって浮遊しながら君と乾杯ができるのも、世界が一度壊されたおかげだね」

 僕は正面でぷかぷかと浮かんでいる彼女と、葡萄酒の入ったチューブで乾杯をした。彼女はごくりと面倒くさそうに一口飲み干すと、食後の子猫のように両目を細め、窓からの景色を堪能した。

「そうね。台風の時、飛ばされた先の上空であなたと出会えたのは、ひょっとしたら何かの奇跡かもしれないわ。それと、私を助けてくれたのがあなただったこともね」

「そう言われると、嬉しいよ。でもほら、僕ら人間はあの天変地異が起きてから進化して、背中に二対の翼を生やしただろう? この翼がなかったら、いくら運動神経の良い僕でも、台風の中から君を助けることなんて到底できなかった筈だよ」

 そう言って、僕は自分の背中に生えている、すこし茶色く汚れた二対の翼を指差した。

「この世界、いいえ、この幸せが永遠に続けばいいのにね」

 彼女はそんなことも口にした。唇のグロスが光って、嫌がらせみたいにつるつるとしている。

「……永遠なんてつまらないよ」僕は、吐き捨てるように言う。「終わりを知らせる瞬間が無かったら、きっと情なんて湧かないしさ」

「そうかしら?」彼女は納得のいかないご様子だ。

「そうだよ。だって、僕らのいるこの天の川銀河でさえ、50億年後にはアンドロメダ銀河と衝突するといわれているんだ。そしたら、ブラックホールがとてつもなく巨大な力を手にして、しまいには新しい星なんて生まれなくなるんだから。フィナーレというものは、大抵の場合、悲しみを伴うように仕組まれてるんだ」

「それは……そうね。じゃあ、あなたともいずれは別れの時が来るのね。想像もしたくないけれど」

「僕だって考えたくもないよ。出来るものなら、君と半永久的に寄り添っていたい。でも、それもきっと叶わないんだ。親愛さえ、虚数で出来てるんだから」

 飛行船はゆっくりと数々の天空都市の上を通過していく。その一つに噴煙を大気にまき散らす、物々しい都市が見えた。

「……君も見えるだろ、ほら、あの都市だよ。煙と轟音が充満した、悪意に満ちた都市。こんな風に時代が変わっても、やっぱり人ってのはどうやら戦争が好きらしいね。天空の領土を奪い合うのだって、一種の野性的本能かもしれないけれど、その裏っ側ではたくさんの血が流れているんだ。やつらは、それに振り向きもしない。ただただ、戦う。滑稽だよ。世界は変わったのに、人間は変わらないってオチがさ、どうも僕は好きになれないんだ」

「あの醜い争いを止めるには、どんな手段があるのかしらね? 時空ごと歪めてみる、とか?」

「極端な発想だけど、君らしくていいじゃないか。そうだね、時空を歪めるといえば、アインシュタインがこうも言ってたっけ? ある双子の兄弟のうち一方がロケットに乗って宇宙へ飛び出し、光速に似た速度でとにかく移動し続ける。そしてちょうど1年後に地球へ帰還した時、相方の双子の兄弟はとっくに80歳くらいになってるってね。そういう話?」

「それって、根拠はあるのかしら?」

「一応、西暦1970年代くらいにさ、原子時計を載せた飛行機を飛ばして、実際に時間が遅くなることが示されたらしいよ。もちろん、本当かどうかは知らないけど」

「……ふうん。いずれにしろ、時間をいじくるぐらいのことをしないと、ああいう連中の血塗られた戦いは終わるはずがないわ」

「たとえ終わったとしても、悲しみを伴う、からね」

「そうみたいね」気づけば、彼女はチューブの葡萄酒をすべて飲み干していたようだった。

 僕も負けじと、一気飲みをして、チューブを空にする。

「そういえば、今夜はしし座流星群が見える日だったね」

「そんなに素敵な日にも、人は戦争をするのね」

「人間ってのは、馬鹿だからね」

 眼下に見える汚れ切った都市からは、まだ轟音が鳴り響いている。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る