2章ー4

 数日後、千春からLINEが入った。


 姉から連絡がきました。今日の二十一時に、ヤギ、丘陵、風見鶏の待つ場所で会いましょう、とのことでした。場所はわかりましたか? 私は行くつもりですので、明大さんも良かったら来てください。


 千春からのLINEを見た瞬間、身体中の細胞レベルで覚醒を始めた。失踪していた千夏からの連絡と脳が認識するよりも、体が先に反応してしまった。眠気も途端に姿を消した。


 千夏が、姿を見せるだって。


 その時に感じた感情は、俺が表現できる言葉の中には見当たらなかった。捉えようがなく、形は想像出来るけども、そこに相応しい名前がわからない。点滅して消えたり、雲のように変わったり。


 あえて、それでも、伝わるように、その感情を何かに当てはめるとしたら、わずかながらの嬉しさと、高濃度の恐怖。単独で存在しているというよりは、危ういバランスの中で混じり合っている。


 いてもたってもいられない。自らの体なのに、自分自身のコントロール下から外れているみたいだ。


 今日は日勤の仕事だというのに、全く集中出来そうになかった。


 おそらく今日という日は、体感としてはあまりにも長く、心を整理するにはあまりにも短いだろう。



 とても月が綺麗な夜だった。


 あまりにも有名すぎる言い回しのせいで、女性の前だと口に出すのは躊躇ってしまうフレーズではあるが、事実として、本当に月が綺麗な夜だ。皮肉にも月を眺めることになる相手が、千夏と千春の姉妹だってところに釈然としない。


 千夏が指定してきた場所は、丘陵公園の展望台だろう。隣の市に繋がっていく国道を通り、勾配が続く山道の脇を抜けると、自転車はおろか徒歩で登るのにも骨が折れる坂道があり、登っていった先には公園がある。


 山を切り開いて作ったようで、基本的には坂道で構成されているが、所々整地されている平らな一角には、遊具が置いてあったり、ヤギや羊などの動物小屋も見られる。散歩や家族でのアウトドア気分を味わうにはうってつけの場所だが、夜は流石に人通りは少ない。自然を体感するために、あえて森林の中に糸を通すような、細く曲線の混じった道のりとなっている。整えていない獣道のまま進むこのコースには、街灯はなくて、黒々とした森に覆われて月明かりも届かない。だからこそ夜に訪れるのは危険が伴うから、空が紫めいてくると、人通りは一気に少なくなる。


 昔ここに訪れたこともあった。俺も千夏も、決まって人通りの少なくなる、そのタイミングを狙っていた。賑やかだった展望台は、静寂のスパイスを兼ね備えた極上の空間へと様変わりするのだ。


 さて、千夏が指定した場所は、暗号でもなんでもない。ヤギと丘陵で思い浮かぶのはこの丘陵公園か牧場なのだが、風見鶏が見つめるている場所としては、こちらしかない。


 スマホの懐中電灯アプリを起動させながらでも、夜道は完全には照らせない。慎重に歩みを進める。昼間に同じ道を進むよりも、三倍ほどの時間をかけて登っていく。


 歩みが遅いのは慎重さだけじゃなく、ここを登りきってしまうと、千夏と再会してしまう。そのことへの期待と不安が、どうしても付きまとう。まだ自分の中で整理ができていない。


 七年間。数字で言うと、想像を巡らせると、とてつもなく長く感じる年月。けれども、今となってはあっさりと過ぎ去って、積み重なって、七年が終わっていた。終わってしまっていた。


 俺は、どんな顔をして千夏に会えばいいのだろう。


 そして千夏は、俺にどんなツラをして会おうというのだろう。笑ってくれる、っていうことは絶対にないだろう。他者との関わりの中で、笑顔を見せているイメージは持っているが、俺自身と関わる時に、向けてくれる笑顔なんて、冷笑か嘲笑くらいなもんだった。


 改めて思い出すと、少し口元が弛緩した。とことん可愛げがないなほんと。


 まあどんな顔をしていたとしても、どんな形であったとしても、なんだって構わない。


 展望台まで、あとわずか。



 展望台にあるのは、雨除けのためにこしらえられている、木造の屋根。そして屋根に守られて設置されているのは、木造のベンチが二組。休憩と景色の鑑賞が目的なのだが、簡素すぎる作りのため、長居には向かない。


 しかし、展望台の魅力というものは、言うまでもなく、景観を楽しむことが出来るところだろう。海沿いでどっしりと構えている商業用のタワーを除けば、この街で一番高いところが、この展望台となる。


 北を向けば、最大の都市部を覗くことが出来て、繁華街やデパートビルの明滅に、地上の星々を思わせる。欲望と暇つぶしと就業などなど、綺麗なのか汚いのかは別として、きわめて人工的な人々の営みから見える光は、まるで星座のようだ。


 南方向を向けば、県境を表す山々が広がっており、辺りの暗さと相まって、横たわる巨人のような圧倒的な存在感が見て取れる。詳しい名前もわからないが、毎日目にすることはできる、当たり前となっている世界の一部だ。


 東には海、西を見れば徐々に家屋の数は減り、生活の色もどんどん薄くなっていく。夜になると詳細な光景は見られない、田舎の風景だ。所詮、ちっぽけな地方都市。政令指定都市レベルになるには人口が足りないし、商業的な役割はあるけど、観光地等多くの人を呼べるようなものはない。特別なものはない。俺と同じく。俺には相応しく。


 坂道をさらに登る。わずかに見えた黒い線も、近づくにつれて確かなシルエットとなって、だんだんと焦点が合わさってきた。しなやかな背中が見える。天に顔を向けているため、その相貌を拝むことは出来ない。夜空を見上げているだろう姿は、何かを探しているようにも、祈りを捧げているようにも見える。住むべき場所は、生きていける場所は地上しかないのに、どこを目指しているんだろう。どこか、ここではない遠くでも夢見ているんだろうか。


 佇む人型は一つだけ、今いるのは、一体どっちなのだろう。


 さらに近づき、正体を確かめようと目を凝らした。確認できたのは、辺りの暗さに馴染みそうな黒いブレザー、チョークストライプのスカート。


 その瞬間に抱いた感情は、落胆と安堵の両方だ。矛盾しているようで、していない。複雑なんだ、心というものは。


「よお。こんばんわ」


 声に反応して、ゆっくりと、体ごと反転し、こちらに向き直ってきた。仕草自体は優雅なもので、ネバーランドに住む妖精が纏っているような、キラキラした光すらも幻視した。


 そして目が、合わない。


「お久しぶりですね、明大さん」


「お久しぶりってほどの期間でもなかったと思うけどさ……今日も随分と素敵な格好をしてるじゃねえか」


 衣服はもう見慣れてきた制服姿なのだが、今日は狐の面をしていた。前回の般若の面よりは表情は穏やかだが、また面を被っての登場に、何もかもを放り出して帰りたくなってきた。帰宅への熱い思いを、わかって欲しい。


「ええ、前回のものはあまり受けが良くなかったようですので、面は新調致しました。似合いますか?」


 そう言って、千春(だと思う)はスカートの端を少し上げ、小首を傾げてお辞儀をした。様になっているのだが、だからなんだよ、って投げやりな気持ちが湧いてくる。


 しかし、これは前回から比較した変化だ。般若の面から狐面へ。意味があるのは面自身なのか、面であればなんでもいいのか。


 それとも、今回は狐面であることに意味があるのか。


 まあ、まだわからない。


「千夏は、まだ来てないのか?」


「少なくとも、今ここにいるのは私だけですね」


 スマホで時間を確認する。二十時五十分。指定された時間よりは少し早い。日本人の間で認識されている暗黙の了解としては、もう集合していてもおかしくはない時間だが、まだ予定を回ってはいない。もとより来るまではやることもないのだ。


 二組あるベンチの左の方に腰をかけた。


「ちょっと座って待ってようぜ。特にやることもないしな」


 俺がそういうと、千春は右側のベンチに腰をかけた。そりゃ隣には座らないよな。別に馴れ合うような関係じゃないし。


 やることはなくて、なんとなしに空を見上げる。真上は屋根に覆われていて見えないが、視界の下半分から、ほとんど名前も知らない星々が映っていた。自宅で、あるいは職場で、もしくはふと道を歩いている最中で、どこで見るよりも、鮮明かつより多くの煌めきがあることを、気付かされた。どこで見るか、どこから見るかで、物事の見え方は全然違う。今見ている星空は、ここでしか見られない景色だ。


 風は少し生温いが、上空の空気に冷やされてちょうどいい体感となっている。風に運ばれて、動物たちの生の匂い、新緑や花の香り、重厚な木々の芳香、自然の息遣いを感じた。


「ここでこうして黙っているのも、どうかと思いますし、少しお話しませんか?」


 ぼーっと景色を眺めていると、千春から提案があった。特に反論はないし、ただ何もせずにいるよりは、気が紛れるだろう。


 こんなに穏やかで素敵な景色を前にしても、実を言うとそんなに落ち着けているわけでもないんだ。ざわざわと波を打ち付けられているように心は不安定で、気温の高さとは無関係に、掌には汗が滲んでいる。


「いいよ。といっても特に面白い話があるわけでもないんだが」


 と言ったところで、正音と話したことで上がった疑問について思い出した。


「そういえば、最初に会ったあの日の夜のことなんだけど、俺があのタイミングにあの場所で帰ってくるってわかってたの?」


「あーそのことですか。答えを言ってしまいますと、あの時間で帰ってくることは知っていました。親切なお方から情報を頂いてたものですから。ちなみに親切なお方というのは、個人情報保護の観点から、どなたからの情報かということはお答えできません」


 千春は、顔の前で両手をクロスさせて、バッテンを作った。ちょっと可愛いじゃねえか。


 ただ、千春が誰かは明言しなくても、飲みに行ったなんて情報を知っている人物は限られている。おそらくは。


「ところで明大さん、私からも質問があります。この前話して頂いた、姉との出来事についてなんですが」


 急な話題転換に、心臓が跳ねた。うっかり二倍ぐらいの血液が送り出されたんじゃないかと思う。


「前に話したけど、まだ気になるところがあるのか?」


「ええ。少し気になるところがありまして。ご質問させて頂いてもよろしいでしょうか?」


 狐面が俺の視界正面に移る。しばらく見つめられる。俺の表情は筒抜けだというのに、相手の表情はわからない。言葉に込められた感情も、意図も、一方的な情報で想像しなければならない。とても不公平だ、と思う。


「俺で答えられることなら」


 千春は、俺がそう言うや否や、初めから用意していたような言葉を投げつけてきた。


「明大さんは、どうして研究会室には行かなかったんですか?」


「…………」


 答えに詰まった。答えがわからないわけじゃない。どう答えるべきなのかに迷っている。


 ついに、質問されちまったか。


 まるで不正行為がバレてしまった犯罪者のような心境だ。前に話をした時に、特別教室棟に行ったと表現したけど、きちんと研究会室にも行っているんだと誤魔化してみる選択肢もあったが、千春は断定の表現を使っていた。なんらかの確信からか、もしかしたら女の勘ってやつなのかな。


 ただそんなことは、なんだっていいしどうでもいい。


 それでも、自らの墓穴を深く掘り進めるだけかもしれないけど、質問せずにはいられなかった。


「なんで、そう思うんだ?」


「詳細はわからないですが、姉が待っていたのはおそらく研究会室だったからですよ。姉と会えなかったということは、研究会室には行っていないのでしょう?」


 確証があるわけでも、証拠があるわけでもない、彼女の想像から至った答え。ただの妄想だと笑い飛ばすことも可能かもしれないけど、俺にはそんな肝の座ったことは出来そうになかった。


 だって、千春の想像は恐らく正しくて、そして千春が言った通りで。


 俺は、研究会室には行っていないのだから。


 千春は、続けた。


「明大さんも、本当はわかっていたんでしょう? 姉がいる場所が。姉を探して校舎中を探し回ったことは本当なのかもしれませんが、あえて研究会室を避けて探してたんじゃないですか?」


 俺は再び沈黙した。黙秘するということは確証には至れないことになるが、やましいことがあると人は黙るという現象は、共通認識として存在している。


 すなわち、沈黙は肯定と捉えられても、文句は言えない。


 水崎千春。俺の青春の一欠片、水崎千夏の妹。


 そういえば、いつぞよかに、千夏とここに来たことがあった。色っぽい雰囲気は俺たちには存在せず、暗闇に乗じて男女の快感プロレスを開始しようとする輩に、呪詛を吐きかけるだけの不毛な散歩だった。そんなスケベ共からすれば、俺たちのほうが意味不明な存在なんだろうなと、今更ながらに思える。そうだ、理解不能だ。大切だった思い出も、当時の行動理念も、今思えば意味のわからないことばかりだ。


 当時の自分に言えるなら言ってやりたい。お前、頭おかしいんじゃないか? って。


 で、そんな頭のおかしな行動と、意味のわからない積み重ねの後、結局後悔を続ける、今の俺に繋がっている。十年後、二十年後、今の自分をまた理解出来なくなる時が来るかもしれない。それはそれでいい。


 ただ、まだ覚えているうちに、まだ忘れることが出来ないうちに、ついに吐き出してしまおう。


 俺には出来すぎた舞台配置だ。大根役者であることは否めないけど、全力で踊りきろう。


「ふぅー」


 やっと、詰まってた息を吐き出せた。誰にも言ってなかった、誰も認識していなかった出来事を、やっと白日の下に晒す決心がついた。


 自分の心を晒すことは、とても怖いことだ。自分自身の弱点を、弱みを他人に知られてしまうという、生きていく上でいつそこを狙われるかわからない。武器も持たず、裸で生活をするようなものだ。どれだけの仮面や演技で防御しても、深淵を理解されてしまうことは、嫌なんだ。


 それでも、言ってしまおう。


 自分の弱みを見せるのは嫌だけど、思いを隠し続けていることも辛い。


「……千春ちゃんの言う通りだよ。俺は、千夏がおそらく研究会室にいるかもしれないと思っていながら、あえてそこには行かなかったよ」


 風が吹き抜けた。森の木々や遮蔽物を切るように過ぎ去り、轟くような音が辺りで響く。なんの動物かはわからないが、獣の鳴き声も聞こえた。なんとなく、辺りを照らす光量が減少したように思う。見上げれば、月が雲の体に隠れていた。


 さあ、七年越しの思いを、やっとのことで撒き散らしましょう。

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