3章ー2
その後、すぐに病院へ運び込まれ、医師の診察を経て、アルコールジジイの病気についての詳細を聞くことが出来た。アルコール性肝炎。長い間飲酒を続けていたジジイは、アルコールを分解する肝臓に大きな負担を与え続けていた。肝臓は沈黙の臓器と呼ばれ、自覚症状が出る頃には、病態としては相当進んでいることが多々ある。
知らなかった事実として、アルコールジジイは勝手に施設を抜け出し、時折勝手に酒を飲んでは何食わぬ顔で戻ってくる、という出来事が繰り返されていたらしい。アルコールジジイは自立度は高く、日中は自由に過ごさせていたことが仇となった。言い訳だが、どうしてもオムツが必要な人、移動に介助が必要な人、等の支援者の介入がより多く必要となる人のほうが、危険度も高いため、付きっきりになってしまうのが現状だ。
ただ、今回の出来事をきっかけに、アルコールジジイへの介入レベルは、上がることになるだろう。無事に、施設戻ってくることが出来れば、という条件付だけど。
ともあれ、酷使を続けられた肝臓は、脂肪肝を経て、肝硬変と呼べるレベルにまで達し、ついに限界を超えたとのことだった。動脈硬化や糖尿病等、身体的なあらゆる病気の合併も考えられるため、検査と治療、そして何より禁酒が必要とのことだった。
この街の主要駅から、直通のバスも出ている、県下有数の市立病院に、アルコールジジイは入院となった。内科や外科はもちろん、一通りの身体的な病気について管理出来るだけの病床数、設備を備えている。また、医師に看護師、理学療法士や社会福祉士等のメディカルスタッフなどなどは申し分ない。とはいえ、病院というのは進んで行きたいという場所ではなく、昔父親が盲腸にて入院した時、お見舞いに行くのもあまり気乗りしなかった。一部は改修され、磨かれた大理石のような無機質な清潔さが少々息苦しく、長年使用されている場所は薄暗く、何かがいるような気がして気味が悪い。病気を治す場所だということは、治らない病気を診て行く場所でもあり、生きていたい人を生かす場所かつ、生きたい人を看取る場所でもあるのだ。生への執念の中に、色濃い死の香りが混在している。
家族がいない以上、入院に必要な手続き、入院生活の支援は俺たち施設の職員が行っていくこととなった。役所の担当も金銭の工面や退院時調整などは行なってくれるのだが、荷物や金はこちらにある以上、アルコールジジイに物を届けたり、金を持たせたりといった世話は、どうしてもこちらでやらなければならない。
そんなわけで入院日の二日後になり、アルコールジジイの様子を確認するため、見舞いにやって来た。受付を済ませ、エレベーターに乗り、七階で降りる。H型に広がる廊下を北向きに歩き、一つだけネームプレートがはめられた部屋に入った。
純真さを、清潔さを強調するような白さに、わずかに圧倒された。窓は十センチほど空いていたが、それ以上は開かないんだろう。万が一事故でも起きるとたまったものじゃないだろうし。
「ふん、なんだあんたか」
ジジイは、ベッドで横たわっていた。療養中なので当然かもしれないが、施設内ではたまによろけるとはいえ、自由に歩き回っている姿とのギャップに、なんとも言えない寂寥感を感じた。
「そうです真中ですよ。具合はどうですか?」
「酒を飲ませてくれないもんで、体調は良くなりゃあせんね。飲めば一発で治るって言ってるんだがな、医者という人種は頭が硬くてかなわんな」
医者の前でもブレないジジイのアルコールへの依存は、最早信念と言ってもいいんじゃねえかな。まあアルコール依存症は、実際に脳の病気であるという見解もある。酒を毎日摂取している人に、いつも飲んでいる酒を渡し、飲むフリをさせるだけで、実際に酒を飲んだような、そんな反応が出ることもあるらしい。例えば、顔が赤らんできたり、テンションが上がったりといった変化だ。酒を用意し、手に取った時点で、実際体の中に依存物質が入るかはさておいて、脳はもう飲むことが決定していることが原因らしい。まあ、信念だろうが、脳の病気だろうが、決して肯定出来るものではないけど。
「いやいや、酒飲んで倒れたんですから、今度飲んだら本当に死んじゃいますよ」
「減らず口を叩きおって。酒を飲まずに生き長らえるより、酒に溺れて死んで行くほうがマシだね。ゴホッゴホッ」
クソわがままなことを言いつつも、咳き込みは激しい。ベッドシーツに赤いシミが見えた。まだ交換されていないようなので、アルコールジジイは今日も吐血しているようだ。そんな状態のジジイに、尚更酒なんて飲ませられない。
「口数は減らないですよ。何故なら、納得して頂けるまで丁寧に説明しますからね。うっとうしいでしょうが、施設職員の立場としては、死なれたら困りますからね」
「ふん。施設の外に出たら随分素直じゃないか。ヘドが出るようないい人を演じてるよりは、今の方がまだらしいじゃねえか。生きていて欲しいなんて、偽善者めいたことを言われるほうが気持ち悪い」
思わぬところで評価が上がってしまった。捻くれていて、ひん曲がっっているのに、もうガチガチに固まって変えようがない。そんな捻くれ頑固ジジイの考えていることは、わからない。
「で、何しにきたんだ?」
「お見舞いですよ。ご家族じゃなくて申し訳ないですけど、まあ荷物持ってきたり、様子を見に来たりはしなきゃならないんですよ」
「手土産の一つも持ってこないのか?」
「病院食以外の食べ物については、内科の先生から控えるように言われているじゃないですか」
「はっ、おもしろくない」
ジジイはそう言って、ベッドに横になった。おそらく世話をしてもらっていう看護師さんにも、こんな感じの態度を取っていることが予想された。病気の患者を治療することが病院としての責務であり意義なんだが、かといって慈善事業というわけではない。金がなかったり、態度が著しく悪い者は、追い出されるということもなくはないのだ。お客様じゃなくて、治療を行う上で病院と契約する患者という立場なんだ。決して病気を盾に好き勝手振る舞うことが許されるわけじゃないということを、認識して貰わなければならない。もっとも、施設の利用者だってそうなのだけど。契約が成立しているから、お互いに介入が出来るのだ。
ジジイの行く先と今後の行く末について心配しつつ、面会者用のパイプ椅子を立てかけ、ベッドの横に設置する。座る。ジジイは顔をそっぽ向けて、窓の方を眺めていた。いつもの赤ら顔は見えない。落ちたら命が尽きると噂の木の葉は、高すぎる病室では見えそうになかった。
卑怯なのかもしれないが、施設から出ていることの開放感から、今ならアルコールジジイの今までについて、尋ねられる気がした。
酒を飲んで家族を失い、保護を受けながら施設で世話になるという、世間一般の基準で言えば、失敗したという表現すら当てはまってしまっているかもしれない現状。一体何を思うのか、純粋に気になった。
今だから、きっと今だから沸き起こってきた感情なんだろう。何かを失い、進むべき道を喪失している今だからこそ、成功の道じゃなくて、失敗かもしれない道標を知っておきたい、のかもしれない。
「富永さん。もし良ければ、暇な若者の話し相手になってもらえませんかね?」
暇というわけじゃなく、業務の一環として来ている立場なので、本当は長居することはあまりよろしくはないのだが、次はいつ機会があるかわからないので、久し振りにアルコールジジイの名に触れた。
「こっちは忙しいから、手短にな」
入院患者の忙しいという基準はわからないが、了承はもらえたので、色々と気になっていることの中から、今聞きたいことを脳内でピックアップした。
「どうしてお酒を飲み続けるんですか? 俺も飲みはするんですけど、友人と出かけた時くらいなんで、常習的に飲むわけじゃないから、どうしてかなって思いまして」
アルコールジジイの後頭部しか見えないが、大きく空気を取り込む息遣いを感じたと思えば、大きな大きな溜息が吐き出された。心底くだらないと、そう言っているようだった。
「愚問すぎて思わず眠ってしまいそうだが、退屈な若者に付き合ってやるか。中卒後に現場の仕事に入ってな。まあ当然だが完全な肉体労働でものすごくきつくてな。しかも周りには長年資材を運んだりコンクリ固めたりと、体の一つで頑張ってきた先輩方ばかりで、怒鳴られるわ殴られるわなんてのは、日常茶飯事だった」
やっぱり土方の世界は厳しいもんなんだな、と正直な感想を抱いた。
「そんな厳つい奴らが、唯一陽気に振る舞うのが宴会の場だった。毎晩ってわけじゃなかったが、飲みに行くぞの掛け声と共に、昔っからやってるような味のある居酒屋に連行されていった。初めはロクに飲めやしなかったし、毎晩のようにゲロ吐いてたな。けれども、ひよっこだった当時の俺も、その場では一人の仲間として受け入れられている感じがしてな、飲むこと自体は徐々に好きになっていったんだ」
アルコールジジイですら、酒を飲んで吐いていた時期があるということは驚きだった。けど、俺が酒の味を覚えてきたのも、つい最近になってからだ。誰しも初めてはあって、段々と慣れて日常へと変化していく。
「それで、先輩の紹介もあって、まあ二十代後半には結婚して、ガキも出来た。ようやく一人前の男に慣れたような気がした。俺が守っていかなきゃならねえと思って、より一層仕事に励んだ。だが頑張りすぎたのか、手を怪我しちまって、一ヶ月くらい休む羽目になった。休み自体はありがたくもあったが、どうにも働いていないことが気持ち悪くて、気を紛らわすという目的もあってな、昼間に酒を飲んだことがあった」
「昼間っからですか」最近の俺にも前科があるので、批判的な発言は出来なかった。
「そうだな。そっからどうにも癖になっちまったみたいでな。本来飲んじゃいけねえ時間に飲む快感と、嫌なことがあった場合の対処法として酒を飲む行為が、俺の中に染み付いちまったんだな。仕事に復帰した後も酒量は増えていった。俺自身はあんま覚えちゃいねえんだが、長い間飲んでるとたまに乱暴になる時があるみたいでな。晩酌のたびに、奥さんはあまりいい顔をしないようにはなっていったよ」
アルコールを摂取したことによる、脳機能の抑制。簡単にしか知らないが、理性が抑制される。酒を飲むと気が大きくなるというのは、結果的に本能の部分を抑えるストッパーが働かなくなるから、だそうだ。別に普段はなんてことのない普通の人だとしても、テンションが上がったり、暴言を吐いたりするのも、飲酒効果としては、よくある話だろう。
ただ、暴力行為を許すかどうかは、また別の話だ。
「どんどん増え続ける酒の量。けども、仕事で立場が上がっていく度にストレスも増えていった。そうなると、どうしても酒に頼ることは止められなかった。昼間から酒を飲んで仕事に行ったことも一回や二回じゃない。まあ、酒臭い息であれこれ命令してたもんだから、同僚や部下は気付いていただろうがな」
昼間から酒を飲むだけならまだしも、飲酒をした状態で仕事に行くという行為は、社会人として肯定的な感情は浮かばなかった。それはもう完全に。
アルコール依存症だ。
「それで、決定的だったのが、路上で暴力沙汰を起こしちまって、警察に保護されたんだ。そこでアルコール依存症だって言われて、精神科の病院に連れていかれた。なあ知ってるか、精神科の病院には強制入院なんてものがあって、俺の意志なんて関係なしに、家族の同意さえあれば入院が決まっちまうんだぜ。俺はまるで言葉の通じない宇宙人にさらわれるような心境だったよ。喚き怒鳴り散らしても、屈強な看護師に運ばれて、無理やり入院させられた」
「噂には聞いたことがあるんですけど、マジでそんなことあるんですね」
俺の人生には今の所縁のない世界だけど、話を聞いているだけで、背筋が冷たくなってくる。きちんと力を入れていないと、崩れ落ちてしまいそうだ。顎に力を入れて、小刻みに振動していることを悟られないように、我慢した。
そういえば、たまに精神科の病院を退院して入所してくる利用者の人が、いるにはいることを思い出した。けど、実態としてはアルコールジジイとは全然違う。精神科に入院するといっても、他の利用者はせいぜい認知症が進行したことによる妄想や衝動性だったり、せん妄状態の悪化のために対応困難になった場合に、治療をお願いするのだが、アルコール依存による精神科への入院については、恐ろしいイメージしか湧かない。
極めて奇天烈な状況下にある中で、ある程度の冷静さを持ち合わせてしまうということは、まさに地獄のようじゃないんだろうか。
「そんで保護室っていう、トイレ以外なんもねえ部屋に入れられた。俺が使えるような物はトイレとペーパーのみでな、他には天井から監視カメラが吊るされていた。完全に刑務所にいるような気分だった。鉄の扉には、鋭利なもので無理やり削られた跡があって、内容はわからないが人の行動を描いた絵だった。首らしき部分に縄が掛かっていた。俺は恐怖したね。このまま一生飼われるような生活を送るんじゃないかって。人の世界では生きていけないんだと判断され、まるで家畜のような扱いを受けるんじゃないかってな」
名前的には、何かを護るために利用する部屋なんだろうけど、一体何を護るのだろうか。何から、護るものなんだろうか。護るどころか、人の権利や尊厳なんてものを、根こそぎ奪うもののように感じられる。精神科という特殊な場所だからこそ許されているんだろうけど、やっていることは監禁行為だ。監禁が合法的に許される世界があるということが、ただただ、怖い。
「保護室は一週間で出ることができて、四人部屋の病室に移された。俺に課せられた目標はただ単に飲まないということだったから、入院生活は退屈だったな。入り口に鍵のかかる閉鎖病棟ってとこだから外出は出来ねえし、金も持たせてもらえなかったからやることがない。奇声を上げて暴れる奴や、意味不明なことを呟きながら病棟の中を歩き回るおかしな輩もいたが、案外普通に話せる奴もけっこうな数はいた。それで入院してから三ヶ月、俺はついに退院することになった」
その入院が長いのか短いのかは、経験のない俺では判断がつかなかった。けれど、アルコールジジイ本人からしたら退屈で、とてつもなく長い時間だっただろうことは、想像に難くなかった。
「退院する時、医者にも家族にももう飲まないようにしろって約束させられた。もちろん俺ももう二度と飲まないつもりだった。あんな所に入るのは二度とごめんだからな。けどな、人間ってのはよく出来ているもんで、時間が経つにつれて、俺はあの恐怖を、嫌悪感を忘れていった。まあ結論を言っちまうと、飲んじまったわけだ」
喉元過ぎれば熱さを忘れる。忘れるからこそ、辛いことも苦しいこともいずれは笑いあえるものなんだろうが、嫌なことを忘れてしまうからこそ、苦痛がいつまでも続かないからこそ、過ちは繰り返されてしまうのか。
「二度目の入院は半年間かかった。どんどん家族の面会が少なくなってきたことはわかってたよ。一回目の入院の時は、きっと期待してたんだろうな。もうこれで大丈夫だって、すべてうまく行くんだって。退院したの時は俺だってそう思っていた。でも期待は裏切られた。どうやら俺のせいらしい……二度目の退院があった後には、一体何があったと思う?」
アルコールジジイの顔は、そっぽ向いているので見えない。自分の失敗談を、なんの惜しげも無く晒しているジジイの心境は、ここまで話を聞いておいて、まだ読めない。
それで、次はなんなんだ。よく言うよな。二度あることは。
「三回目の入院の後は、もう家族との連絡が取れなくなっていたよ。この時ばかりは、医者も俺のために怒ってくれてた。けどな、妙に正義感の強い看護師には、勝ち誇るような顔でこう言われた。自業自得だってな」
自業自得。自分の行動が、自分に返ってくるということ。今の俺には、とても耳が痛い言葉だ。
「そんで家族がいなくなり、帰るところもなくなり、ついでに金もあてにできなくなったもんだから、すったもんだあってお役所様のお世話になることになった。で、そこから先はもう知ってんだろ。色々とつまらんことも語っちまったが、最初の質問について答えてやろうか。良いことも悪いことも含めて色々あった。きっとお前どころか誰にも理解出来ないようなこともあっただろうが、それでも酒を飲み続ける理由なんて決まってるわな」
一瞬の溜め。ジジイは、この上なく格好悪いことを、全く悪びれることなく、それが信念だと信じて疑わない真剣さで、言い放った。
「酒を飲むことが好きだからだ」
仕事よりも、家族よりも、金よりも、自分自身の体よりも、もっと大事なものであるとアルコールジジイは言う。くだらないし馬鹿馬鹿しい。価値観が違うのは当然だとしても、失うものと得るものの天秤を測ってみたら、何を重要視すればいいかなんて、わかるはずなのに。
かっこいいなんて思わない。もしこのジジイが俺の身内だったとしたら、きっとジジイの奥さんや子供と同じように、容赦無く切り捨てるだろう。世間一般でいうクソ野郎だ。
でも、でもでもだ。
自分の嗜好ばかりを優先する身勝手なジジイと、自分の思考ばかりを優先すり身勝手な俺との間に、果たしてどんな違いがあるのだろうか。
ジジイがクソ野郎なことは間違いないが、比較なんてするまでもなく、考えることすらもったいないくらい自明的に。
俺もクソ野郎だ。
「貴重な話を聞かせてくれて、どうもありがとうございました。全く同情が出来る気分じゃないですけどね」
「同情なんて気持ち良くもないものはいらん。俺は疲れたから一眠りするぞ。こんなところで油売ってないで、とっとと仕事に戻るんだな」
ジジイは左手を掲げて、払うように手の甲を二回、俺に向かってはためかせた。帰れという合図。
「へーへー帰りますよ。まあ話を聞かせてもらったお礼に、今度は手土産でも持ってきますよ。もちろん酒以外で。ところで」
帰り際になって、まるで悪役の捨て台詞みたいに、もう一つの質問をぶつけてみた。
「そんな人生を、後悔してたりします?」
「いや、全然」
あっそ。
様々な事実を鑑みて、今日俺が学ぶことが出来たことがあるとするならば。
クソジジイは。
どこまでいっても。
クソジジイ。
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