3章ー3

 相変わらず、千夏どころか千春とも音信不通。アルコールジジイは入院生活を続けていて、どれだけ日々の業務を積もうとも、給与明細の数字は魔法のようには増えてくれない今日この頃。


 正音から着信があったのは、なんの変哲もない平日の夜だった。


「こんばんわー。お疲れ様ー。生きてるかな?」


「死んでる」


 心は死んでいるも同然なので、あながちは嘘は言っていないぞと開き直り、電話を終わらせようとしたが、行動に移す前に正音に遮られた。


「おっと、ここで電話を切ったりしたら、明大くんは一生後悔するかもよ?」


 内容はいつもの軽口と変わらないように思うが、今日の正音の声色には真剣味が加わっていて、辛うじて電話を切る行為は辞めておいた。珍しい感じがする。


 ベッドから体を起こし、電波の先に繋がっている正音に、少しばかり意識を集中させる。


「……なんか用でもあんの?」


「そうだねえ。電話で言うってのもなんだし、今からでもちょっとどっか行かない? 日が変わる前には帰すからさ、今からちょっとドライブでもしようか」


 割となんでも明け透けに言う正音のキャラを考えると、ますます事態の珍しさに戸惑った。


 壁に掛けた時計を見ると、二十一時を回っていた。本来なら出かけるのには躊躇う時間だし、明日も仕事なのでますます億劫に感じるけど、相手が相手なので抵抗しても無駄のように思えた。


「わかったよ。何時ぐらいにどこ行けばいい?」


「外見てみて」


 窓から少し身を乗り出す。変わり映えのしない我が家の玄関前に、ハザードを焚いた普通車両が止まっていた。正音の愛車、赤ヴィッツ。


「四十秒で支度しな」


「いや、早すぎ」


 支度と言っても、特にやることもなく、財布だけ尻のポケットに突っ込み、リビングで副交感神経の働きに身を委ねる両親に出かけるとだけ告げ、家を出た。

 その間、三十二秒だった。







 工業地帯の良さがあるとすれば、夜になると昼間とはまるで違った景色を演出してくれるところ、かもしれない。海沿いの国道を走っていると、海を挟んだ向かい側に、コンビナート工場が夜間にも関わらず、経済を回す頑張りが見て取れた。黄金のような光を放ち、爛々と燃えゆく煙突から吹き出す炎は、ちょっとしたロマンチックの演出となることだろう。


 交通量が昼間よりも少ないため、車の流れはスムーズで、逆にちんたらと走ってしまうことに罪悪感を覚えてしまいそうだ。かといって、それで事故を起こしてしまったらどうしようもないけど。


 正音は、普段なら耳を塞ぎたくなるくらいに喋り散らすのにも関わらず、ほぼ無言の状態で運転していた。どこに向かうのかすらも教えてくれない。そんな雰囲気に飲み込まれて、俺もうまく言葉を見つけ出すことが出来なかった。


 俺たちが音を発しないまま、ヴィッツは様々なところを走り抜けていた。海浜公園の脇を抜け、中心街の繁華街を通り過ぎ、坂道を登った丘陵公園を横目に、俺たちが暮らす街の片鱗を、一つ一つ探っているようだった。


 正音の意図は未だにわからない。コンビニに寄ったり、どこか喫茶店に入ったりするわけでもなく、ひたすらドライブを続けていた。正音が運転しているわけだから、流石に今から飲みに行くという展開はないはずだ。


 いや、世の中には金を払って運転までもしてもらえる、運転代行という商売があるので、ないとは言いきれないけど。お願いだからないって言って。


「着いたよー。ここでちょっと話そっか」


 あれこれ考えているうちに、目的地に到着したようだ。


「ここは」


 場所を見失ったのではなく、疑問が出てきた。


 横一列に並んだ校舎に、400メートルほどのグラウンド。サッカーゴールが両端に向かい合って並んでいて、東側には園芸などを楽しむためのミニサイズの畑が広がっていた。


 見間違うことなんて、ない。そこは、俺と正音がかつて通っていた、小学校の校舎だった。


「なんでこんなところに?」


 俺は疑問を口にしたが、時すでに遅し。正音は鉄の柵で閉じられた小学校の敷地内に侵入していた。マジか。あいつ二十代後半にもなって、スカート姿で柵をよじ登ったのか。


 賞賛しつつ呆れながら、俺も鉄の柵をよじ登り、懐かしのグラウンドに降り立った。大丈夫か、カメラとかついてないよな。もしどこかに常駐しているかもしれない警備員にでも見つかれば、なんらかの処分を受けるかもしれない。どう捉えても、不法侵入だろこれ。


「おい、どこに行くんだよ」


 呼びかけに対し、正音は手を振って応えた。確か体育の授業で徒競走の競技をさせられた時に、スタートラインになっていた箇所に、正音は立っていた。


 小走りで駆け寄った。俺が横に立つと、何がおかしいのかわからないが、とにかく正音はあははと笑った。わけがわからないことに、俺は少しばかり腹が立った。


「おい、そろそろなんのためにこんなところに来たのか教えてくれよ」


「まあまあそんなに焦らないで。久しぶりに母校にまでやってきたんだからさ、少しばかり思い出話でもしていこーよ」


 ますます意味がわからない。俺はわからないけど、正音側としての理屈があることはわかる。正音がここに連れてきた理由を探るためには、そんな益体もなさそうな会話に応じる他なさそうだ。


「……別にいいけどさ」


 鏡正音との出会いを思い起こした。別に、何か特別なドラマがあったわけでもなく、ただ単に同じ学区出身だったから、集団下校で一緒に帰っている時に知り合った。それだけのことだった。


「明大くん、あの頃ちっちゃかったよね。私も別に身長が高い方じゃなかったけど、私よりももっとちっちゃかった」


「うるせえ」


 もう昔のこととはいえ、身長について指摘されることは今でもむかつく。そのことを指摘してくる友人とはほとんど付き合いがないので、今だに正音だけは俺の過去を知っているということが恥ずかしい。


「で、見た目はちっこくて人畜無害そうなのに、態度は大きかったよね。年上の言うことにも平気で歯向かうし、口を開けば文句ばっかりだったよね。ほんと素直じゃなくて、捻くれたガキだなあって思ってたよ」


「概ね間違ってないのが余計に腹立たしいな」


 年上だからなんだ、教師だからなんだ。俺よりも偉いのだろうけど、かといって偉そうに振る舞うことが強さだなんて態度をしている奴が、気に食わなかったことは確かだ。


「でも、今になって思うんだけど、明大くんってほんと変だなって。おもしろくなさそうな顔して、誰にでも噛み付いて、自分勝手で、そんな奴なのに、誰にでも平等に接する。悪い意味で平等だ」


 正音は、今まで言ったことのない表現でを俺にぶつけてきた。決して100パーセント褒めているわけではないのだろうけど、そう言う正音の笑みは、不思議なくらいに満足気だ。


 俺は苦笑する。


「悪い意味でって、なんだよ」


「だってね、普通平等に接するってことのイメージは、みんなに良い顔をする八方美人って感じだよね。でも明大くんは逆だね。八方悪人って感じ」


 新感覚言語で表現されてしまった。言ってる意味はわからないが、言わんとしていることはわかる。つまりそんなことを言う正音が、こんなことを改めて言わなければいけない正音が、何かを変えようとしていることも、わかってしまう。


「どうしたんだよ、今更こんなことを言い出すなんてさ」


「私が言いたいのはね、捻くれてて危なっかしくて、悪意や疑念に満ちていて、自己嫌悪してしまうくらいに純粋にめんどくさい明大くんだから、きっと長い間関係が続いたんだろうなってこと。この子は何かやらかしそうだなあ。放っておけないなあ、構ってあげないといけないなあって、お節介な気持ちが湧いて来るんだよ。今思えば、それが明大くんの魅力なのかもね。でもね」


 でも。でもね。


 今までの展開を裏返す言葉だ。来るべき言葉も予測出来てしまうが、何故だろう。その先の言葉は、今このタイミングで、軽々しく口にして欲しくはなかった。


 わずかに、正音の、大きく、柔らかな、印象の瞳が。


 揺れる。


「もうすぐ、お別れだ」


 水崎姉妹との決別。


 アルコールジジイの入院。


 そして、鏡正音の喪失。


 これらをすべて悪い出来事決めつけることは早計だろうけど、今俺の人生は、過渡期真っ最中。

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