2章ー3

 地獄のような夜勤明け。夜勤が終われば、日もすっかり明けており、一般の会社員が仕事を開始する頃になり、やっと帰宅が許される。夜勤中に多少の仮眠は取るのだが、いつ何が起きるかわからないため、あまり深く眠るわけにもいかず、仮眠の時間もまばらだった。眠い。


 何かを考えられるほどの余裕もなくなっていたので、さあ家帰って寝るかと方針を決めたところで、スマホが振動した。一瞬の振動、ということは多分LINEだろう。無視しようかとも思ったが、いずれ見なきゃいけないし、千夏の件でまた新たな展開かもしれないので、眩しさに目をくらまされながらも、内容を確認する。


 差出人、鏡正音。


「げっ」


 別に嫌なわけじゃないし、幼馴染の関係故に、そこまで気負ったり気を使う関係ではないのだが、俺の反射は嫌そうなリアクションを選択してしまった。ただ夜勤明けに正音と絡むのは少々、きつい。中身を見ない未読スルーを決め込むプランを選びかけたが、追撃があった場合が尚面倒くさいので、観念してLINEを開く。


「えっと、今日は明大くんは夜勤明けだよね? お疲様! それで今日はたまたま午後お休みを取ったから、久しぶりに一緒にご飯でも食べに行かない? 行くよね……だと」


 ちなみに、ご飯でも食べに行かないは飲みにいこうと読み、行くよねは来いと読むのが、俺と正音の間では正しい。行かないなんて言ったら、えーなんで? の返信が正音の納得を得られるまで届き続ける。実質選択肢などない。


 わかったよ。何時にどこ行けばいい? と返信し、一旦スマホをポケットにしまった。とりあえず一刻も早く帰宅し、少しでも睡眠を取ろう。寝ないで遊び続けるだけの体力は、二十代後半ともなると持ち合わせていないのだ。いやまだ若いけどな。


 それに昼から暇ということは、奴は太陽が高いうちから飲む気だ。ちょっと清楚っぽい見た目の割に酒豪なのは、ほんと勘弁して欲しい。


 幸い職場から自宅への移動時間が、十分程度であって良かった。帰ったと同時に布団に潜り込めば、あと二、三時間は寝られるでしょう。







 帰宅して布団に潜り込み、午後一時にアラームをセットし、一眠りした。ピとポを合わせたようなアラーム音が鳴り響き、無理矢理にでも体を起こした。スマホをチェックすると、午後二時にいつものとこ、と返信があった。夜勤明けということを、一応は配慮してくれたらしい時間設定だ。シャワーを浴びて、ジメッとした体を洗い流し、ポロシャツとチノパンというラフな格好に着替えて、母親には夕飯はいらないと伝えて家を出た。ちょうど日で一番暑くなる時間帯で、少し歩いただけでも、すでに汗が服を濡らしている。息を吐くだけで口内ももやっとする。これからどんどん暑くなっていくことを考えると、すでに夏を乗り切れる気がしなかった。


 十五分程歩くと、この街一番の中心街に辿り着く。どこにでも勢力を伸ばしている大型ショッピングモールの攻勢もあり、商店街は商業的ピンチを迎えていたが、都会を真似たようなオシャレな飲食店を揃えることにより、ショッピングモールとは差別化を図り、徐々に休日にも人通りが戻ってきている印象だ。


 居酒屋や飲食店、カラオケ店などが立ち並ぶ一角に、正音が行きつけにしているカフェがある。昼間は主にサラリーマンや主婦が利用するオシャレなカフェだが、夜になると主に酒類を提供するバーとしての趣きが目立つ。とはいえ、昼間でも酒類は提供しているので、正音はコーヒーよりもコーヒーリキュールを愛飲しているのだった。


 カフェに入り、正音の姿を探したがすぐに見つかった。一番奥の二人掛けのテーブルに座っていたので、正音の向かいに座った。おかしいな、約束の時間ほぼぴったりのはずなのに、すでに空のグラスがあるんだけど。


「おー明大くんお疲れー。来てくれてありがとね。まずは何を飲むのかな?」


「正音の方もお疲れ様。飲むには飲むけど、ちょっと飯も食わせてくれ。まだロクに物も食ってないからさ」


「まだギリギリランチセットを頼めるんじゃないかな? 今日のランチはハンバーグプレートだったと思うよ」


「じゃあそれで。飲み物は……じゃあジントニックで」


「了解したよー。すいませーん」


 正音が店員さんを呼び止めて注文もしてくれた。追加で自分のソルティドッグもちゃっかり注文。むしろそっちが本命なんだろうが。


「もう二杯目頼むなんて、相変わらず早いな」


「二杯目じゃないよ、四杯目だよ」


「四杯目……」


 想定よりも上をいかれた。いかれてる。


「まだ全然足りないから、明大くんにもまだまだ付き合ってもらうからね」


 正音はとても得意げだった。


 まあ、鏡正音は昔からこうなのだ。わがままなところが多々見られるが、身内には甘く、面倒見はいい方だと思う。小学生時代に学区が同じだったから、集団下校中によく色んな世話を焼かれたものだ。小学生の頃の自分がどんなのだったか今となっては思い出せないが、正音に言わせると、捻くれたチビ、だそうだ。ふん、少なくとも今はチビではないけどな。


 ただ、それからずっと正音との関係性があったわけではなく、小学四年生の頃に俺が別の場所に引っ越したため、一旦関係は途切れている。高校生の頃になり、今の自宅に家を建てたのでこっちに戻って来たという流れだ。高校で再会したのは本当に偶然で、初めは俺が誰だかわからなかったらしい。結局のところ、偶然の再会から今まで関係が続いているという状態。気安く、お安いというのは少し違うが、気兼ねないのは間違いなかった。


 真昼間から飲む酒は、とても魅力的だ。多くの人々は学校に行ったり仕事をしているにも関わらず、自分たちだけが楽しんでいるという優越感。それに、酒を飲むのは、大抵夜からだというイメージはほとんどの人が持っているだろうし、俺も基本的には、夜しか飲まない。だからこそ、たまに昼間から理性が剥がれていく快感を感じながら、体の芯の部分から温めていく新鮮さが、イケナイことをしているような背徳感が、とても心地よいのだ。


「それでねー。新人ちゃんも大分色んな仕事が出来るようになってきて助かってるんだけど、仕事とは別の部分で困っててね。フロアリーダーとか部長さんとか、管理職の人が新人ちゃんを気に入ってて、周りから見ると目にかけてもらってるってわかっちゃうんだよね。それで内心面白くない他の女子社員から反感を買っちゃってるんだよね」


「やっぱ女性が多い職場だとそういうことはあるよな。別にそんな新人の子が悪いんじゃないんだろうけど、かといって他の人が面白くないって気持ち自体はわからなくもねえもんな」


 会話の内容は、主に正音の仕事の話になっている。デパートで店員をやっているためか、普段から気苦労も多く、特に職場内での人間関係には気を使っているとのことだ。その苦労の甲斐もあってか、最近では上司に評価されることも増えており、仕事に対するモチベーションは高い状態だそうだ。しかし、正音のやる気とは裏腹に、集団である以上、様々な意思や意識があるわけで、良い状態の人だけでなく、悪い状態の人もいるため、どうしてもストレスを感じることは多いらしい。学生の頃よりも、社会人ともなると、人間関係には気を使うよな。自分の好きな人、接しやすい人とばかり関わっていくわけにも行かない。人間性はともかく、与えられた役割があり、その役割に応じて合わない人とも仲良くはしなくてもいいが、うまくやらなければいけない。俺はまだ人間関係には恵まれているのかもしれないが、それでも、とてつもなく苦痛に感じることは、今でもある。


 そして、そんな苦痛に耐えられない人間もいる。


 耐えられないならどうなるか。言うまでもないことだろうが、排斥されるのだ。社会から。


 その、後は……。


「明大くん。明大くーん。もしもーし」


 ぺちぺちと頰を叩かれた。掌で触れる程度の力加減じゃなくて、きっちり両頬を勢いよく叩かれた。つまり往復ビンタだった。加減はされてたから痛くはないけど、往復ビンタておい。


 相変わらずやってくれるなこのやろう。正音なら叩いてもギリギリ大丈夫な気がする。アウトかなあ。


「って聞いてなかったの悪かったけど往復ビンタはやめろ」


「おマメくんが聞いてないのが悪いんだもーん。だもーん」


 気持ちよく飲んでたのはいいが、大分言動が幼くなっている。酒が回ってきたな。誰だって酔っ払うと一定以上のテンションを見せるもんだが、正音の場合は幼児化の症状が出る。うっとうしい上に、俺への呼称が小学生時代に戻る。チビだったからというのもあるが、名前がまなか、めいだいだから、苗字と名前の頭文字を取って、マメ。この歳になってそう呼ばれるのは割と屈辱的なので、正音以外にはこのあだ名は秘密にしている。


「お姉ちゃんの話を聞かないとか悪い子だ。それで、何考え事をしてたの?」


「ああそれはな」


「もう飲み物ないよね。何頼む?」


「いや、だからな」


「すいませーん。カルーアミルク下さい! ボトルで! あと枝豆!」


「あの、それで」


「そうだそうだ、まだ食べ足りないよね。半分こしよっか。焼きおにぎりでいい?」


「話聞くんなら聞けよ!」


 言わせてもらえるなら、カルーアミルクはボトルで頼めないし(頼んだら原液でくるわ)、焼きおにぎりあるんだカフェなのに。


「うん聞く。わかりました聞きますよ。しょうがないなあ」


 俺が悪いみたいな発言をして、正音は一応大人しくなった。理不尽な物言いは水に流し、家に帰ったらまた書きためよう。そうすれば、許した後忘れても、また思い出せるしな。


 仕切り直し。


「で、何を悩んでたかって言うと」


「水崎千夏ちゃんのこと? 高校生の時に、マメくんと仲良くしてた」


「ちょっと待てなんで知ってんの?」


 昔から人の話を聞かないくせに、人のことをよく知っている節があったが、地獄耳すぎる。察しが良すぎるというのもここまでだと、恐怖しかない。怖っ。


「絵衣美ちゃんから連絡があってね、マメくんが千夏ちゃんことで悩んでるみたいだって言ってたから、心配はしてたんだよ」


 あーなるほど。絵衣美の仕業だったのか。それなら納得だ。


 こう見えても正音は、本当に信じがたいことに、勉強は出来るし、どうやら頭の回転も悪くないらしい。単純作業能力、記憶力、空間把握能力、推理能力、概念把握力、関連性の連想力などなど、頭の良さに必要な要素はある程度以上の能力を有しているらしい。飲んでる時だけでなく、普段の様子もアホっぽいのに、本当に意味がわからない。


 とはいえ、千夏の件で近々話を聞いてもらおうとは思っていたので、説明の短縮化についてはありがたい。絵衣美もたまにはいい仕事をするじゃないか。


 今度絵衣美に会ったら今度こそ美味いもんでも奢ってやろうと、優しい先輩のような気分になった矢先。


「あとはね、よくいじめられるのでガツンとやっちゃって下さいとも言ってた」


 訂正。余計なこと言いやがって。しかし正音に話をしておいてくれた功績はあるので、マイナス評価まではしなかった。奢るもんはあれだ、うまい棒だ。


「とりあえずだ、今の状況について聞いてくれ。あんまり話したいことじゃないんだが、俺の気付かなかったことがあるかもしれないから、第三者視点から判断して欲しくてさ」


「わかったよ。一応絵衣美ちゃんから話は聞いてるけど、マメくんからの話も聞いておくことが、判断には重要だからね。何があったのか教えて」


 俺は、今わかり得る情報を、出来る限り正音に伝えた。友樹と飲み行った帰りに、千春と再会したこと、昨日改めて話をしたら、俺の誕生日にいなくなってたってこと、大学には行ったが、仕事は三回も辞めてるってこと、タイムアタックかくれんぼのこと。


 そして、最後に再会を果たすことなく、千夏とはそれっきり会ってないということを俺は正音に説明した。


 千春以外に、初めてこの出来事について説明した。


 正音は、この時ばかりはふざけたテンションにはならず、真剣に話を聞いている様子だった。


 一通り話終わった。正音は人差し指を頭部に当てていた。考えているポーズなんだろう。


 ある程度疑問が整理出来たのか、正音は正面に向き直り、つまりは真っ直ぐに俺を見据えた。


「まずは、最初の疑問なんだけど」


 正音が気になったこととはなんだろう。なんだっていいが、少しでも解決の糸口となるなら、どんなことでもわかれば答えようと、心で身構えた。


「なんで千春ちゃんは般若の面なんかしてたのかな?」


 ですよね。


 そこですよね。


 そこについては俺も気になってる。実際に間近で見てた分、正音よりも俺の方が気になっている。絶対。


「それについては俺も知りたい。そりゃもちろん聞いてはみたけどさ、ひたすらはぐらかされただけだった」


 何かヒントを与えるというよりは、本当にただはぐらかすだけ、ごまかしているだけ、という印象の言い回しだった。まさか本当にコントの練習をしたかったわけじゃないだろうし。そもそもあの時しようとしていたのは真剣な話だ。


「うーん。般若面を着けてた意味はわからないね。わからないからこそ、わかることだけでも考えようか」


 正音は、カルーアミルクをジョッキで(ジョッキで!)グイっと飲み干した。


「なんで千春ちゃんは、般若の面を着ける必要があったのかな?」


 微妙な言い回しの変化。般若の面を着けていた意図については全く見当もつかないけれど、般若の面を着ける必要性について想像するという目的が出来た。視点を、考え方を少しずらすことで、新たな結論が出てくるかもしれない。


 問いかけについて考えるために、スマホで調べてみると、般若とは仏教用語で智慧と同義語で、あまり般若の面自体とは関係がないらしい。般若の面自体に意味があるとすれば、嫉妬や恨みのこもる女性といったところか。


 嫉妬については知らないが、恨みを表しているとしたらドンピシャじゃねえか。


「物が般若でなければいけないかはさておき、お面とか仮面ってどんな時に着ける?」


 新たな問いかけに、再度考えてみる。


 一般人がお面に縁がある機会といえば、せいぜい縁日で並んでいる屋台だろうか。有名な子供向けのヒーローやヒロインが軒並み並んでいる。なんでお面を着けるのか? 例えば、憧憬からくる、同化の願望。自分の憧れるものになりたいという思い。


 憧れる? 般若に? ありえなくはないが、決定打もない。


 だが、口には出してみる。アイデアがアイデアを呼ぶことを期待してだ。


「ぱっと思いついたのは、憧れ、かな」


 正音の首が、上下に二度動く。肯定。


「そうかもしれないね。何かになりたいっていう願望がある可能性は否定しないよ。私が思ったのはね、仮面って何かを隠すものかなって」


 仮面を着ける時ってどんな時だ。普段つける機会なんてないから想像でしか語れないが、仮面舞踏会って言葉があることを思い出す。確かに、仮面は隠すものだ。単純な表情、身分、素性、個人自身を、隠す。


「わからないことはわからないからしょうがないね。また何かわかったら教えてね。それで、次の疑問だけど、千春ちゃんと再会したのは金曜の夜、おマメくんの自宅近くだったよね。千春ちゃんがそこに居たのって、なんでかな?」


「そうだな。自宅の場所は高校生の頃から変わっていないし、家に上がらせたことはないけど、何度か通った記憶はあるから、場所は知っていてもそこまで違和感はないけどな」


「そこは特に疑問ではなかったんだね。じゃあ、なんで千春ちゃんは、マメくんの帰ってくるタイミングに、正確な場所で待っていられたんだろうね? もし帰ってくる方向が逆からだったら、会えない可能性もあったよね。それに、帰ってきた時間が夜の十時頃でしょ。女子高生が待ち続けるにはリスクが高い時間帯だよね」


「それは……」


 俺には納得のいく説明は思いつかなかった。急いで俺とコンタクトをとろうとしたからかもしれないけど、いなくなった初日はともかく、三日後になって、しかも飲みに行くなんて珍しい行動をとったタイミングで再会したというのは、確かに出来すぎている気がする。何かしらの意思が、なんらかの意図が、介入している気がする。


 まあそれが何かは、まだわからない。


「どうにもわからないな。あーくそ、なんか酒も回ってきた気がするし、気になったことは千春に直接聞いてみることにするわ」


 食い物や飲み物がなくなれば、すかさず正音が注文してくれていたので、足りなくなるどころか腹の具合的にも、アルコールの許容量的にも、そろそろいっぱいいっぱいになりつつあった。がんばれば、虹色に彩られた吐瀉物を撒き散らせるさ。


「まあ宴もたけなわですが」


 頼りになる幼馴染との宴会に、定型的な締めの言葉で飾ろうと思ったら。


「マメくんに次のしつもーん」


 大きな声で割り込まれた。正音の顔は大分赤みがかかってきたが、非常に残念ながら、まだまだ元気一杯のご様子で、本当に残念ながら、まだ満足していないようだった。


 口端が釣り上がり、右手の人差し指をビシっと突きつけられる。目は据わっている。据わりたくっている。


 嫌な予感。


「次、何飲む?」


「水」


 却下だった。

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