2章ー2

 利用者さんの食事介助、トイレ誘導、服薬管理、体調のチェック、点呼、消灯、巡視、などなどなど。一通りの仕事を終え、気がついたら日を跨いでいた。認知的に問題が生じてきた方々は、夜間にも関わらず徘徊したり、夜間せん妄状態に陥ると、現実には見えない素敵な光景を見たと、メルヘン報告が入ったりする。ちょっとした騒がしさと、予測できない出来事の連続と、ファンタジーチックな話が聞ける施設というものは、最早現実世界というよりは、夢の国に近いだろう。金を払って楽しませてもらうか、金を貰って楽しませてもらうかの違いだ。そんな刺激に満ちた職場に、どうぞウェルカム。そんな遠慮なさらずに、さあ。


 月曜日最初の巡視は終わり、詰所に戻り、休憩室に入る。すでに一仕事終えたヤンキー先輩とカフェラテ先輩は、飲み物に口をつけて一息ついていた。ガスコンロの上にはヤカン。そして冷蔵庫と棚と机。簡素で人が五人くらい入ってしまえば、もう一杯になってしまうくらいの広さだが、休憩のスペースがあるだけでマシだろう。


「明大くんお疲れ様! 大丈夫? カフェラテ飲む?」


 出た決め台詞、と思った時には、すでにカフェラテが目の前にあった。カフェラテ先輩が図々しいのではなくて、その誘いを断ったことがないので、決まりごとのように受け取る流れになっているもだ。今日の物は、大抵のコンビニで買えるような一般的なものだった。


 カフェラテ先輩、本名、皆川さんはカフェ巡りが好きだとのことで、休みの日には一人で、もしくは友達と、地方情報誌片手に、隣県までも巡り行く。ミーハー気質でコンビニの新作スイーツを見つけたら、大抵購入している。なかなかエネルギーに溢れる素敵女性。それがカフェラテ先輩だ。


 カフェラテはよく冷えていて、仕事で生まれた熱が徐々に冷まされていく感覚があった。


「おうお疲れ明大。一通り仕事も落ち着いたし、休憩しとけよ」


 ヤンキー先輩は麦茶を飲んでいた。ピンクのポロシャツには、汗が滲んでいて、今日も元気に病を訴えるお年寄りの方々と、激しい交流があったことを物語っていた。


 休憩室で椅子に腰をかけて、ゆったりとした時間を過ごす。利用者さんが急に起きてくることも多々あり、完全には気を抜けないのだが、一晩中、ずっと気を張り続けていることは出来ないので、適度なところで休憩することが仕事を続けるコツだ。


 就業時間は全力で常に仕事をしなければならない。働くという行為を実感する前までは、誰から聞いたというわけでもない、そんな仕事に対する意識を実行しなければならない、と思い込んでいた。けど実際働いてみると、みんなうまい具合に案外サボっているものだということを学んだ。短距離を全力で駆け抜けるスタイルもいいだろうが、長く続けていくことを目標とするなら、休憩を設けるべきで、適度にサボるべきで、無理はしないべきだ。燃え尽きるのもけっこうだけど、残念ながら燃え尽きた後の方が、人生長いのだ。


 気が抜けたことで、一気に睡魔が襲ってきて、瞼の重みがどんどん増してくる。猛攻をかけられ、あわや敗北寸前かと思いきや。


「明大、なんか今日は元気ねえ気がするぞ。あのジイさんですら心配するなんて、珍しいなんてもんじゃないぞ」


「うんうん、ウチも思った。明大くんなんか元気ないぞー。何かあったんなら言うてみ言うてみ」


 流石に就業歴が長いだけあって、周りをよく見ているものだ。アルコールジジイと話していたところを目撃されてたとは。


 先輩お二人方は、どうやら心配してくれているみたいだ。勝手な分析だが、先輩お二人方は人の気持ちを深く考えるタイプではない、と一緒に働いている俺は思っているのだが、だからこそ自分の想いを正直にぶつけてくる。俺にはない性質だ。


 よく一緒になる先輩方は、基本的に優しい。


 それが、俺にとって最大級の幸運なのかもしれない。


「いやまあ、それがですね」


 実は昔の知り合いが失踪したことを、その妹さんから聞かされまして。それで失踪の状況とかを聞いたんですけど、なんだか俺とその人との約束が果たされてないことを、すごい気にしていたみたいなんですよ。もしかしたらすごい恨まれてるかもしれないんですね参ったな。偶然なのか、その人がいなくなった日が俺の誕生日で、命すら危ういくらいのびっくりなサプライズプレゼントが貰えるかもしれないんですよ。いやあ楽しみすぎて血の気も引きますよね。あははははたすけて。


 なんて言えるわけもなく。


「まあ、ちょっと色々ありましてね」


 出てきたのは皮肉にも、アルコールジジイに答えた言葉と完璧に一致した。前回の話はほんの数時間前とはいえ、なんの進歩もしていないのだった。


「色々ってか。そりゃそうだろうが、なんか引っかかんな。そうか、さては女にフラれたな」


「まあまあヤスシくん。フラれた人にフラれたなって失礼なこと言っちゃダメだぞー。こんな時は、そっと優しく見守ってあげればいいんだよ。大丈夫、ウチたちは明大くんの味方だぞ!」


 何も言わなくても、フラれたということで話がまとまりそうだ。本人の意見なしでまとまる話ってなんだよ。だからフラれるどころか、むしろ狙われている可能性すらあるっての。


 とはいえ、説明しない自分が一番悪いのだ。


 全部言ってしまえば、楽になる部分はあるんだが、少なくとも今は、この出来事を二人に言う気にはなれなかった。今の状態が、初めての展開すぎて、現実感が薄れている気がする。他に理由をつけるなら、今置かれている状況をうまく説明できる自信がない、話を大袈裟にしたくない、なんて理由として了解可能なものは思い浮かぶ。


 けれども、俺が言えない本当の理由は、本当の情けない理由としては。


 自分の失敗を、あの時残した後悔を晒したくないという想いがあるんじゃないか。この感情の根底は恥。これからも恥の多い生涯を送っていくのだろうが、どれだけ隠し通せるかを考えてしまう。悪癖だとは思わない。自分の行動に、自分の感情に完璧なる自信を持っている人は少ない。多かれ少なかれ、隠し事の中でみんな生きている。


 まあみんなそうだから、みんなやってるからなんて理論は、理由になったとしても、それが正しいことだという証明なんて、誰にも出来やしないけど。


「フラれたというわけではないんですけど、ちょっと悩みごとが」


 ヤンキー先輩はタバコに火をつけた。ハイライトメンソール。一応非喫煙者を気遣う気持ちはあるらしく、窓を開け、換気扇の下で煙を吐いた。


「おう言ってみろ言ってみろ。つまんなかったら罰としてコンビニ行ってジャンプと菓子買ってこいよ」


 言いづらいわ。


 カフェラテ先輩が「そんなこと言っちゃダメだぞー」とやんわり注意してくれたので、今この場なら多少失言しても大丈夫だろうと安心、てか慢心しつつ、言った。


「誰にでもあることだとは思うんですけど、今まで色んなことに対して、こうしておけば良かったのかもしれないとか、こうなれば良かったのにとか、まあ過ぎ去ったことをうじうじと、つい考えちゃってるんですよね」


「ふーん。終わったことを考えたってしゃあねえって気はするけどな。俺は基本的に後悔なんてしないし、過去を振りかえったりもしない。昔は……まあちょっとはやんちゃしてた頃もあったけどな。自慢じゃねえけど、ここら辺で本郷ヤスシの名前を知らない奴はいないって程度には名が通ってたしな」


 さすがヤンキー先輩。矛盾という言葉を教えてくれるのに、わずか五秒もかからなかった。そのスピード狂っぷりはパネェっす。見習いたくはない。


「そういうところはヤスシくんらしいよね。ウチは明大くんの気持ちわかるなー。たまに過去のことを思い出してもやもやしちゃうんだよねー。そんな時は、自分の気持ちをSNSとかでそっと呟くの。それで誰から反応があると、すごく嬉しいなーってなるよ」


 カフェラテ先輩は、俺の悩み事に共感してくれたが、流石にアラフォーともなれば(失礼)、自分自身で折り合いの付け方というものを確立しているようだ。まあ人それぞれに考え方があるし、発散のさせ方は迷惑をかけないという条件付きであれば、そこそこなんでもいいのだろう。


「明大も皆川先輩も、ごちゃごちゃ考えすぎ。自分のことを信じていれば、答えなんか後からついてくるってもんだ」


「じゃあヤスシくんは、やり直したいなって思ってることって一つもないの?」


「…………」


 珍しいヤンキー先輩の沈黙。タバコを咥え、吸い込み、吐き出すまでの動作が頻繁になり、貴重な一本が灰となり消えた。間髪入れず、もう一本を取り出し、咥えて火をつけた。ヤンキー先輩は、出来事を思い出すためというよりは、苦々しげに口を曲げていて、どうやらあまり言いたくなさそうだった。


 二本目のタバコを灰皿に押し付けた後、ようやくヤンキー先輩は口を開いた。


「小学生の頃にな、同じクラスにエリナちゃんっていう子がいてさ。女子の中でも背が高くて、頭も良かった。そして何よりクラスどころか学年でも一番くらいのカワイコちゃんでさ、クラスの男子の大体はエリナちゃんの話題で持ちきりよ。まあ何を隠そうこの俺も、エリナちゃんのことが気になってたんだなこれが」


 うんうんと相槌をうち、話を促したのは、当然俺とカフェラテ先輩だった。


「で、ある時エリナちゃんは強い男が好きだって噂が流れたことがあってさ、俺は正直舞い上がったよ。これはイケるんじゃね、って。なんせ学年でもトップクラスにガタイが良かったし、クラスの腕相撲でも俺に勝てる奴はいなかったからな。そういえばちょくちょく目が合う時があるような……そう思っちまったらもうやることは一つだよな」


 なんとなく話の展開は読めてきたが、口を挟まずに、ヤンキー先輩が話し始めるのを待った。自分の恥を晒すのは嫌だけど、他人の恥ずかしい話を聞くというのは、どうしてこんなに胸が踊るんだろうか。ゲスだからだね。そうだね。


 ヤンキー先輩は、三本目のタバコに火をつけた。


「で、俺はエリナちゃんに告白することにした、しかも俺が思う一番カッコいい方法でな。強い男が好きってことだったから、身近で一番強い奴と勝負して、勝った上で告白しようとしたわけだ。それは誰かっていうと、ちょっとイキがってる上級生をターゲットにした。体育の授業中に、いきなり喧嘩ふっかけてカッコいいところを見せつけて、告白しようって魂胆だったんだが、まあ当然失敗した」


 喧嘩で勝ったら告白とか、いかにも小学生らしいという感想が浮かんだ。


「奇襲気味にやったのはうまい具合にダメージは与えたんだが、そいつを殴ってる間に他の上級生に組みつかれて、そっからはもう一方的なリンチだよ。同級生はビビって助けにはこないし、しかも正義も義理もなく、一方的に殴りかかったのは俺だから自業自得だわな。で、同級生が呼んできた先生が上級生をひっぺがして、俺たちはグラウンドで正座させられてしこたま叱られた。エリナちゃんの反応はドン引きだった」


「うわあ。若気の至りっすね」


 結局ほとんど吸わないまま、三本目のタバコも消えていった。短時間で散った六十三円にただただ合掌。


「この時点ですでに俺は失恋してたわけだが、さらに最悪なことがあったんだ」


「さらに最悪なこととは?」


「エリナちゃんは……俺が喧嘩ふっかけた上級生と付き合ってた。まあこの出来事があったおかげで、今の俺があるのかもしれねえな」


「……それはそれは」


 世知辛れぇ。おかしい、カフェラテ飲んでいたはずなのになんかしょっぱい気がしてきた。感情に味覚が支配されたようだ。よくわからない自意識と自信によってもたらされた、的外れな行動は、ヤンキー先輩がグレることに一役買っていたようだ。つまりめちゃくちゃ引きずってたってことじゃん。


「まあ、結果今は俺も結婚しているわけだし、今となってはいい思い出だな。俺の話はこれでおしまいだ。こんだけ話したんだから、皆川さんも何か話してくれよ。俺の話よりも面白いってことはないだろうけどな」


 ヤンキー先輩は自信満々に笑った。


 その自信はともかくとして、ヤンキー先輩の話は面白かったので、この話を超えるようなものはほいほいとは出てこないはずだ。


 カフェラテ先輩は、うーんと唸りながら顎に人差し指をくっつけて唸っていた。

 それから十秒も経たないうちに、カフェラテ先輩は、思い当たるエピソードを見つけたらしく、思い出について語り始めた。


「ヤスシくんほど面白い話はできそうにないけど、後悔してることなら思い出したよ。ウチ、保育園児の頃に親が離婚してて、そこから女手一つで育ててもらってたんだけど、小学校高学年くらいになったくらいかな、クラス担任の先生がやたらと熱心な人でね。就業時間外でも家庭訪問に来て、ママやウチの世話をしてくれたのね」


 それで? とヤンキー先輩は相槌を打った。


「その担任の先生は見た目はすごくイケメンでね、ママもすっかり気に入って、家族ぐるみの付き合いみたいなものに発展したのね。でもね、担任の先生は結婚してて、妻子がいる身だったんだけど、ウチも先生のことは結構気を許してたから、ウチの家族と、先生の家族で集まった時に悪気はなかったんだけど、言っちゃったんだよねえ。先生ウチのパパになってよ、って。小学生にも凍ったような空気ってわかるんだね。それでその後にね、ウチのセリフを鵜呑みにしたママと先生が……」


「よし、充分休憩できたし、ちぃっと早いが巡視してくるわ」


 わざとらしく宣言し、ヤンキー先輩はそそくさと闇の中に消えていった。即断即決の男。最早話の展開が予想出来てしまったから、これ以上聞いても胸糞の悪さしか残らないだろうと判断し、一瞬で退散するその手腕。そのスピードは見習いたい。


 自分から振った話から始まったとはいえ、まさかこんな地雷が埋まっていたとは思わなかった。


 ただこの場に残された、俺とカフェラテ先輩の空気は、一体どうすりゃいいのか。今だけは、俺をなんとか殺して欲しい。何故だろう、今に限って言えば、ものすごく千夏に会いたい。ほら、出番ですよ。


 どんな人であれ、触れてはいけない話題というものがある。


 人生で一番長い一分程度の沈黙の後、この空気に耐えきれず、俺は苦し紛れに質問した。


「ちなみに……前両親に親孝行しなきゃって言ってましたけど、皆川さんの今の父親って?」


「先生じゃないよ。五人目」

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