第2章 後悔の後にある今

2章ー1

 千春と別れた後の同日夕方、水崎千夏に包丁で刺されて俺は絶命した。


 という自業自得展開は訪れず、俺はどっこい生きているのでした。気分としては最悪で、もう死んでいると言ってもいいくらいのテンションではあるが、気分が悪かろうが、体調が悪かろうが、仕事があるので行かなければならなかった。学生時代であれば、隙あらば学校に行かなくて済む方法を考えていたものだけど、社会人七年目ともなると、どうにかして行かなきゃならないと考えている自分に気づいた。台風って学生時代はワクワクしたけど、今となっては仕事に行きづらくなるから勘弁してくれと、天気予報のお姉さんに文句を言うのが今の俺だ。人はこうして社畜になる。嬉しくはない。全く。


 施設のドアをくぐり、いよいよ老朽化の進んで来たエレベーターで三階に上がる。ライトアップされても、尚少し薄暗い廊下を進み、詰所に入った。


「お疲れ様でーす」


 挨拶をして、部屋の隅にある椅子に腰をかけた。時刻は十六時半を周っており、夜勤をする職員はもうすでに集まっていた。日勤帯の申し送りを聞くべく、椅子を並べて、各々ワークシートを持って待機していた。


 俺の仕事は、ほらあれですよ。未来というものを若者に託した方々の今後を、物理的にも精神的にもお手伝いする、とても誇り高いお仕事ですよ。中には未来を思うどころか、過去すらも忘れてしまった方々もいるけれども。


 申し送りはつつがなく終了した。アルコールジジイ(本人には言わない愛称)がまたゴチャゴチャと文句を垂れていたらしいということ以外、特に大きな問題はなかった。各自の仕事がない限り日勤者はここで帰宅し、以降の業務は夜勤者の範疇となる。


 今日の相方は、ヤンキー先輩とカフェラテ先輩だった。ヤンキー先輩はそのあだ名のごとく元ヤンで、カフェラテ先輩はアラフォーの独身女性だ。誰かが落ち込んでいると、そっとカフェラテを差し入れしてくれる心優しき女性だ。くだけた言葉遣いと、人のことにもぐいぐい突っ込んでいく性格もあり、苦手な人は苦手だろうが、基本的には利用者さんから信頼を得ている。大丈夫? カフェラテ、飲む? という決め台詞を持っている。俺も欲しいもんだな、決め台詞。


 仕事は決まった時間にやるものもあるし、随時何か起きたら対処するものもある。もっとも、人を相手にする仕事はなんだってそうだろうけど、定型的な業務をこなしながらも、基本的には他人の都合で仕事を進めなければならない。機械を相手にするわけじゃないのだ。人それぞれに、意思も感情も行為もそれぞれ意味があって、因果があって、他人の都合など御構い無しだ。つまりは毎日振り回されっぱなし。


 飯はまだかー。あらやださっき食べたじゃないですか。トイレに行かせてくれ。はいはい今も行きますよー。その場その場で対応している内に、時計の針はぐんぐんと進行する。一体いつからそんなに早く進んでいくようになったんだい。小学生時代なんかは、たったの一時間ですら、まるで永遠のように感じられたというのに。


「おい、さっきの食事に酒が入ってなかったじゃないか」


 利用者の一人、富永さんは対応し難いいちゃもんのをつけてきた。愛称はアルコールジジイだが、決して本人の前では言わない。当然だが、倫理的に社会人的に言うことではないし、もしそんなことを言おうものなら、訴えるぞと素敵な脅し文句を聞くことが出来るだろう。日本はいつから訴訟国家、いや正確には訴訟するぞ国家になったのか。


「いやいや、お出しするわけにはいかんですよ富永さん。ルール上施設では出せませんし、そもそもお医者さんにアルコールの摂取はダメだって言われてるでしょう」


 富永さんは御歳七十を超えている。若い頃は土方でならしていたらしく、体力に自信があったらしいが、体育会系の宿命か、アルコールをしこたま飲み続けたせいで、筋力や肝機能も低下しており、自宅での生活が困難となり、施設入居に至っている。ただ身体的な理由だけでなく、酔って暴れる酒癖の悪さもあってか、妻と子供には愛想を尽かされたことも、施設入所の一因になっているようだった。妻と子供は面会にも来ないどころか、そもそも連絡すらももう取れないとのことだ。家族からの援助がないので経済的には、困窮しており、年金だけでは足りないので、国のセーフティーネットに引っかかり、保護費をもらっている。俺たちの税金がこうして色々な方々に使って頂けるなんて、ほんとありがたいですねえ。日本に生まれた幸福に感謝の念を持ちながら、日々生活して欲しいマジで。


 富永さんはおもしろくなさそうに顔を歪めて、ふんと鼻を鳴らした。顔面は年相応以上に皺で覆われていて、アルコールを摂取していなくとも常に赤ら顔だ。


「生意気なことばかり言いよって。若いモンは本当に礼儀がなっていないな」


 アルコールに依存している老人に酒を出してあげる礼儀なんて、俺は知らない。けどそのことを咎めたところでさほど意味なんてない。言っても、また明日には同じ要求をするから。


「それはすいませんね。お酒は出せませんけど、茶でも飲みますか? あんまり水分を摂りすぎるのもダメですけどね」


「いらん」


 そっけなく返された。いつものことだ。決してキレたりはしない。しないけれども、グツグツと煮え返ってくるこの気持ちの行き場を教えて欲しい。勝手な提案なんだけど、ストレス負荷がかかりやすい職場にはサンドバックを設置することを、法律で義務化して欲しい。絶対職員方の対応が良いものになるから、いやほんとお願いします。


 富永さんが黙ったうちに別の仕事に取り掛かろうと思ったが、まだ解放してくれなかった。


「なんか、お前さん今日はいつもよりしけたツラしてるな。さては女にでもフラれたか?」


 そう言って、富永さんは嫌味ったらしく笑った。人の弱みに対して発揮される眼力には素直に脱帽した。


 だが惜しい。フラれたというよりは、狙われているかもしれないからな。もしかしたら富永さんよりも、俺の方が命の危機は迫ってるかもしれないんだぜ。


 もちろん、そんなことは言えるはずもなかった。


「まあ、ちょっと色々ありましてね」


「はっ。あんた程度での色々なんてたかが知れてるだろう。どうせ悩んだって答えが出ねえことはごまんとあるんだ。ごほっ。せいぜい後悔しねえように、今を頑張って生きるこったな」


 富永さんは言いたいことだけを言って、そのまま自室まで歩いていった。足取りは若干危なげだが、むやみに介助しすぎることで、歩けなくなっても困るので、自分で歩けるうちは歩いてもらうという方針だ。手伝おうとして富永さん本人から怒られることもあるし。


 後悔しねえように、今を頑張って生きる、ねえ。


 そういう富永さんは後悔なんてなく生きてきたのだろうか。きっと、そんなことはないはずだと思う。妻とも会えず、子供達から面会を拒否された上に、連絡を取れる家族がもう誰もいない、そんな人生に、後悔が全くないわけじゃないだろう。あまり他の利用者ともつるまず、職員には不満や毒を吐き、人の集まりの中でも、尚孤独に生きようとする姿は、俺の主観かもしれないが、時折寂しそうに見えた。

 だからこそ、だからこそ。


 後悔しねえように、今を頑張って生きる。


 そんな言葉が、そんな限りなく正しい言葉が、あっさりと言えてしまうのかもしれなかった。

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