1章ー7

 全部ではないにしろ、細部までではないにしろ、くずぶっている思いはあるにせよ、大まかなことについては話し終えた。スラスラと舌が滑るように語れたわけじゃない。途切れ途切れの、目も当てられないような、情けない語り口調だっただろう。一仕事終えたことを認識したら、急に現在が戻って来た。照りつける日差しに皮膚が焼かれている。熱い。ずっと喋り続けていたせいか、ひどく喉が乾いていた。公園の入り口にある自販機で、何か買っておけば良かったと、軽い後悔が押し寄せた。


 あれからもう七年も経っているのだが、俺は今でも後悔ばかりしている。


「こんな盛り上がりに欠ける話しを聞かせてすまんな。ご静聴ありがとうございました、と礼すら言わなきゃいけない気にすらなってきた」


 千春は、何かを得心したらしく、うんうんと頷いていた。姉と最後まですれ違った話を、千春はどう捉えたのか、どう感じたのか。


「いえいえ、こちらこそ話しをして頂いて助かりました。あの日に何かあったことはなんとなくは察していたのですが、何があったのかについては、姉は教えてくれなかったんですよ」


「そりゃあんまり言いたい話ではないだろうけどさ。それで、この日以降の、千夏の様子ってどうだったんだ?」


 こんなことを聞く筋合いはあるのだろうかと思ったが、千春は躊躇ためらいもなく答えた。


「いつもより元気がないなあ、とは思っていましたね。といっても、大したことじゃなさそうでしたけどね」


 その言葉を聞いて、卑怯なことに少し胸を撫で下ろした。もしこの出来事を思い切り引きずっている様子だと聞かされたなら、自分でこの選択をしておいてなんだが、罪悪感に似た何かの感情で、ものすごく気分が悪くなりそうだ。


「全然大したことなかったですよ。物思いにふける時間が伸びていったり、睡眠時間が短くなったり、食欲も減退していたみたいで、好物のクッキーサンドクリームパンを半分しか食べなかったり。そのくらいですね」


「めちゃくちゃ大したことあるじゃねえか」


 訂正。気分悪くなってきた。


 これで大したことじゃないというのなら、千春にとって何が大したことになるんだよ。路上で衣服が消し飛ぶクラスの災害じゃないと、大したことって認めてもらえないんじゃないのか。


 あるいは、ただの皮肉なのか。


「元気がない様子は真実なので、冗談とは言ってあげられないですが、大したことじゃないというのは本当ですよ。一番良くないなと思ってた時期は心配にもなりましたけど、春休みが終わって、大学に入学してからは普通に通ってましたしね。けど」


 と千春は一度言葉を区切ったので、先を促した。


「けど、なんだ?」


「友達付き合いは減っていきましたね。今まで、誰かに誘われれば基本的には優先してご一緒していた様なんですが、段々と遊びの誘いも断るようになっていきましたね。良いか悪いかの問題ではないですが、連絡を取る友達の数は減っていったように思います」


 俺は何も言えなかった。どんな答えかはわからないが、出来事に対する自分なりの解答を出した結果なんだろうけど。出来事の解釈によって、自分の理解のやり方の違いで、起こった事は様々な意味を持つ。千夏はどんな意味をつけたのか、どんな解釈をしたのか、どんな影響があったのか。その結果を、評価することは俺の役目としては違うんじゃないかと思う。だから何も言えない。


 毎日マンネリを感じるような日々だとしても、おもしろく変化する事象が圧倒的に少ないとしても、同じ音で、同じ気候で、同じ香りで、同じ景色で、同じ味わいの日が一日でも存在するのだろうか。哲学的な問いと思わせて、そんな日はあるわけない、とあっさり結論づけようと思う。高校生だった頃と同じ日なんて、二度とないんだ。


 ともあれ、千夏の生活は変わったのだろう。性格は変わっていないのかもしれないが、何らかは変わらなければやってられなかったのだろう。一人の人間を変えたことに関わったかもしれないと考えると、とてつもなく重い。俺にはなんの力もないと無力感を常に感じている身としては、影響を与えてしまうことのほうが恐れ多い。加害者自意識過剰。


「姉の大学生活は、浮き沈みがないという意味では、順風満帆だったのでしょう。特に浮いた話も聞かなかったですし、逆に沈むような話も特に聞く事はなかったですね。姉に大学生活はどうかって聞くと、大丈夫だよって言うんですよね。質問の答えとしては少しちぐはぐな受け答えだと思いますが、それが姉なりの真摯な答えだったのでしょう」


「大丈夫って言われてもな……」


 大体大丈夫だっていう言葉は、本当は大丈夫じゃない時に使う言葉だろう。


「それから、大学を卒業した後、姉はとある一般企業に就職しました。名前を出せば聞いた事はあるんじゃないかと思われるところですね。詳しい仕事の内容は聞いてませんが、特に専門性のある仕事ではなかったと思います。初めの方は何事もなく仕事に行ってましたが、徐々に口数も減ってきて、気だるげにしている様子が目につくようになりましたね。学生から社会人になったことで、ストレスが溜まってるんだろうな、程度に考えてました。明大さんも、覚えがあるんじゃないですか」


「まあ、それはあるな。初めは何をしていいのかすらわからないし、何を言われてるのかもわからないくらいだったよ。学校の授業ってただ受けて、テストがあればとりあえず規定の点数以上を取ればそれで良かったんだけど、点数なんてわかりやすい基準がないってのは、なかなか辛いものがあったよ」


 基準がないというより、老若男女あらゆる人が一緒にいるわけだから、人によって基準や評価が変わってくるということに随分と戸惑ったものだった。同じ仕事をするのに、人によっては教え方もやり方もまるで違うんだぜ。それで意にそぐわなかった怒られるなんて、理不尽にもほどがあると、当時はよく愚痴をこぼしていた覚えがある。


「姉は勉強自体は出来る方でしたし、表面的な人間関係を渡っていくことは出来てたのかもしれないのですが、きっと何かに耐えられなかったんですね。姉は突然仕事を辞めました」


 ただ仕事を辞めるだけなら、そう珍しい話じゃないと感想を持つところだろうが、もうこの先の顛末を先に聞いてしまっている身としては、ショックな話だ。


「それからの姉は先ほど申し上げた通り、就職しては仕事を辞める行為を二回繰り返しました。あの時から、全然うまくいかないなあって。そんなことを言っていましたね」


 うまくいかない、思い通りにいかない。それが人生だ、言ってしまうのは簡単だけれども、そんな当たり前な正論を言ったところで、うまくいかないことは何一つ解決するわけじゃないのだ。


 千夏の言うあの時とは、思い返しているかもしれないあの時とは、いつのことだろうか。


「そして、姉は五日前にどこかへ消えて行ってしまいました。書き置きや、連絡は何もないですし、ちょっとどこかへ出かけただけだと思っていましたが、姉は今日まで家に帰っておらず、未だになんの手がかりもないというのが現状です」


「今の状況は大体わかった。教えてくれてありがとう。ただ、何の連絡もないってところが、引っかかるな。あまり考えたくはないんだけど……何らかの事件に巻き込まれたなんてこともあるんじゃないか?」


 誘拐や、殺人といった犯罪行為はメディアでは頻繁に取りざたされるが、身近なところで猛威を奮ったことは、幸いなことに今まではなかった。けど、もしかしたら何らかの犯罪に巻き込まれた可能性も充分にあるのだ。今まで漠然と、明日があるから大丈夫だと信じて生きてきたことを恥ずかしく思う。何も起こらないことが日常だけど、明日も何も起きないなんて保証は誰にも出来ない。ガラガラと崩れていく平穏の音を感じた気がした。明日は我が身、かもしれない。


「もちろんその可能性も考慮してはいるんですが、ねえ明大さん。五日前という日に、何か心当たりはありませんか?」


 千春はそう言った。般若の面が真正面から俺を見据えている。答えを知っているのに、そのことを言うのは自分じゃないんだと訴えかけられているようだ。五日前、ただの火曜日で平日。犬もバテて寝込むくらいの猛暑を誇っていた。いや何の意味もないはずはないんだ。俺と千夏との中で、関係のあることがきっと何か。


 あっ。


 思い当たったところで、背筋が冷たくなった。他に思い当たるような出来事はないかと、思い出を検索してみたが、該当する結果は得られなかった。どんなに可能性が低いことであっても、考えつく答えがそれしかないのなら、これを答えとして提示する他はないのだ。まるで自分が出し忘れた宿題を、今更になって提出を迫られているような、そんな居心地の悪い気分。


「俺の……誕生日……デス」


 真中明大、二十と五歳。


 知らないうちに、とんだ誕生日サプライズを用意されていたもんだ。


 千春は、納得がいったというように頷いた。真意はわからないが、とてもわざとらしく感じる。


「やっぱりそうでしたか。昔明大さんに遊んで頂いた時に、そういう話をされていたことを思い出したので、もしかしたらと思っていましたが」


「根拠としては弱いのかもしれないけど、何かしらの関連性はある気がするな……」


 俺の誕生日にいなくなったのだという千夏。たったこれだけの出来事であれば、単なる偶然と言い張れるかもしれないが、千夏の過去から今に渡る流れ、千夏が抱えていたであろう想いから想像すると、無関係だと笑い飛ばせない。


 鼓動が早くなる。動物の生涯で呼吸する回数は決まっているという説があることから、動物の生涯鼓動する回数も決まっているかもしれない。寿命が急激に削られていくようだ。


 千夏は、俺のせいで失踪したのかもしれない。


「千夏は、一体何を考えているんだと思う?」


 藁にでも、いや蜘蛛の糸をも掴む思いで尋ねた。


「さあ……そればかりはわかりませんが、もしかしたら明大さんに少し遅れた誕生日プレゼントを持ってくるのかもしれませんね。プレゼントは私、みたいな」


「男が憧れるセリフではあるけど、このタイミングで言われると恐怖しか感想が出てこない」


 一度は言われてみたいけど、出来れば自宅のベッドとかがいい。


「今日明大さんにわざわざ来て頂いたのは、姉についての手がかりを探すためでもありますが、明大さんが心配という理由もあるんですよ。幼い頃に構って頂いたよしみもあります。何か変わったことがあったら、いつでも私を頼って下さいね……生きている間に」


「最後の一言」


 千春って本当は、俺のことが嫌いなんじゃないか疑惑。


 そりゃあまあ、嫌う気持ちもわかるけども。


 千春はそう言って立ち上がり、敷いていたハンカチを畳んで、自分のポケットにしまった。


「今日はこれくらいにしましょうか。ハンカチは、次に会う時にでも洗ってお返し致しますね。私の方も何かわかればご連絡します。それと、今日も送って頂かなくて大丈夫です。大人の男性に送って頂くことは慣れていないので、少々気後れしてしまいますし」


「ああ、わかったよ。今日はありがとう。俺の方も何かわかったら連絡する」


 俺がそう言うと、千春は鉄橋の下の道に向かって歩いて行った。後ろから見ても、千夏と背格好が大分似通っていると感じた。確か千夏の身長は160センチぐらいだったはずで、千春も同じぐらいだと目測した。


 ふいに、千春が振り返った。


「そういえば、五千円あれば、包丁くらいは買えますよね」


 千春は、失礼しました、とだけ言って、会いたくなくて会いたくなくて震える俺を残して、去って行った。


 今その冗談は(冗談だと信じている)、俺の人生史上ぶっちぎりで笑えない。

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