第4章 過去と現在と、儀式と祈りと黒歴史
4章ー1
八月に入ると、猛暑は本格的に地上を灼熱地獄へと変貌させていた。道行く人々の顔は暑さにすっかり参っているようで、絞り出される水滴をタオルや腕で拭う光景を見ると、所詮人間は自然の広大さの前には無力でしかないんだ、と改めて思い知らされた。
陽炎とまではいかないが、熱と光の強さに虹彩が抑制されたか、レンズがイカレたのか、景色が少し歪んで見える。
夏という季節に恋が生まれたり、一夏の思い出なんていう甘い展開を抱いたりする。それは間違ってなんかいないけど、素敵な出来事の裏には、素敵じゃない出来事に敷き詰められた多数の人々がいるんだ。思い出になれなかった夏は、主役に躍り出られなかった夏は、ただの拷問の日々でしかない。いいことがない夏なんぞ。
滅べ。
夏に起こるイベントは好きと言えるだけに好意は存在するが、夏っていう四季の一部としては、苦手だ。暑いから、暑いので、つまり暑い。
炎天下の中、かつて学業に励んでいた高校の校門前で、約束の人物を待っていた。まだ約束の時間までは、十分ほどの余裕がある。まあ時間を守らない奴ではないが、きっかり時間通りに到着するほど神経質な人物でもないので、もうわずかに待つ必要がありそうだった。
命を燃やして開かれる、セミたちの一週間限定の大合唱は、かつて自分が学生であったことを、思い起こさせる。バットが白球を打つ音、ボールがネットを揺らす音。体育館からは号令や怒号、そして多数の人達が一斉にコート内で、様々な思惑と戦略がひしめき合い、勝利を目指して駆け回る、足音。そんな青春というアルバムを作る際、一つ一つのピースになりそうな熱く輝く世界に、おじさんは胸焼けしそうだ。
高校時代は、研究会という名の帰宅部であったので、今も引き継がれている青春バトンを繋ぐ一員ではなかった。ただ、夏休みになるとどうしても暇なので、意味もなく研究会室に集まり、偶々暇を持て余していた奴とグダグダしていたことを、今更になって思い出した。
運動部の奴らもよくやるもんだ。ほんっと青春してんな。
誰かが持ち寄ったアイスキャンディーをかじりながら呟いてた俺たちも、それはそれで立派に青春をしていたんじゃないかと、今更ながら、今になって、今になったから、思う。
「やあ、お待たせ。なんだかすごく久しぶりな気がするけど、まだ一ヶ月ぶりくらいだっけ? 珍しいね、明大の方から呼び出してくるなんて。ついに僕の結婚式でスピーチをしてくれる気になったのかい?」
明るく、男性にしては高音気味の弾むような声を踊らせるように撒き散らしながらやってきたのは、松澤友樹。
あの日、偶然などではない仕組まれた再会のためには、俺がその日に何をして、何時頃に帰宅するのかをわかってないといけない。もし探偵やスパイなんて飛び道具を使われていたら、なんて考えると、可能性は無限にあるので、事の真相を知ることはできなかっただろうけど。
その可能性を排除したならば、あの日俺の行動をリークした奴は。
こいつしかいないはずだ。
「友樹……」
俺が名を呼ぶと、友樹は立ち止まり、真剣な眼差しを向けてきた。一瞬にして空気が張りつめる。まるで、宿命のライバルとの世紀の対決に挑むかのごとく、肌が震える。カーン、と金属バットが白球を捉える音が響いた。むせ返るほどの夏の匂いに、体の中からひりついてきた。
「どうやら、真剣なんだね。そうこなくっちゃ張り合いがないよね」
友樹の口角が吊り上がる。瞳は挑戦的に輝いており、表情には余裕すら伺えた。物事の展開をまるで上から見下ろされているような、神の視点から掌の上で踊らされているような、そんな俺にとっては不自由な感覚。遥かな高みから物事を仕込み、操るような立ち回りを行なってきたんだろう。俺はとんだピエロだ。
けど、それももう終わり。少なくとも、終わりに向けて進めていってやるさ。
「俺がお前と飲みに行ったあの日、その情報をリークしたのは、友樹……お前だな?」
友樹は笑う。ようやく気付いたのか、そう言いたげに、友樹は笑うのだった。
「ああ、そうだよ」
やはりそうだったのか。
別れる直前に正音が言っていたことは、正しかったんだと、改めて思い直した。
「じゃあ、水崎千夏が失踪するだなんて、そんなシナリオを思い描き実行したのも……お前なんだろう?」
友樹は、答えない。
熱を含んだ風が過ぎ去り、生温さだけを置いていった。シャーシャーと喚く蝉の声、掛け声や怒号が駆け巡る。友樹は、黙っている間も、ずっと俺を見据えていた。何を思っているのか、瞳の奥に沈んでいる感情は、計り知れない。
高校時代の時、思えば研究会室を手に入れたり、学校中の人間とある程度交流を持ち、教師達とも関係を築いていた。根回し、関係づくり、理由づけなど、今思えば社会人に必要なスキルを、学生時代から駆使していたことに、二十五歳になった俺は、素直に賞賛の言葉を送りたい。
よくやってくれたじゃねえか。
どんな答えが、どんな理由が待っていたとしても、まずは話を聞こう。受け入れられるかどうかは、その後だ。
額に、頬に、首元に汗が滴る。友樹は取り出したハンカチで、手際よく汗を拭い、そして、言った。
「え? 違うんだけど」
そっか、違うのか。
え、嘘。
なんで?
「え? 違うのか?」
「うん」
拍子抜けだったことを、誠に申し訳なく思うんだが、こいつの言葉を全面的に信頼するなら。
どういうことか。
違うらしい。
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