4章ー2

 教室棟二階には自動販売機が二台設置してあり、夏になるとよく冷えた清涼飲料水を求めて訪れる生徒でひしめき合うのだが、夏休みともなると誰もいない。時折、部活動の合間に炭酸飲料などを買いに来る者がいる程度だ。私服姿でうろついている部外者という立場である俺たちは、すれ違った生徒から好奇の視線に晒されたが、幸いまだ教師に報告をした者はいないらしく、教師たちに追いかけ回されることはなかった。あまり長居は出来ないだろうけど、一応は卒業生という立場なので、もし指導を受けても最低限の言い訳はきく、といいな。


 青色の公衆ベンチに腰掛け、俺は微糖の缶コーヒーを飲む。友樹は懐かしいと呟きながら、百円で売り出されている500mlのペプシコーラ缶を傾け、思い出のコーラを喉に流し込んでいた。学生の時は、安くて量があったため、人気の飲料で俺もよく購入していたことを思い出し、懐かしく感じた。


「でだ、お前はただ俺と飲みに行った日に、今から帰るってことを高階さんに連絡だけだと。そういうことなんだな」


「そうそう。あの日、明大と飲みに行ったのは、あくまで結婚の報告をしようと思ったからで、水崎さん絡みのことについては、僕はほとんど知らなかったんだ」


 友樹は、人好きのする笑顔で言った。常に浮かべられた微笑は警戒心を解す効果に長けていて、友樹の人の良さを感じずにはいられなかった。高校時代に初めて会った時は、いつでも楽しそうにヘラヘラしている様子を訝しく思っていたもんだったけど、接していくうちに、これが友樹の偽りのない姿なんだと、嫌でも実感させられた。そんなところがまた腹が立つ。


 裏表があるなんて人である以上は当たり前すぎることだけど、表も裏も陽性な人間がいるということは、認めたくはないが事実なようだ。


 積み重ねた関係、性格を推し量るには充分すぎる経験に裏打ちされて、友樹が嘘をついているようには思えなかった。


 缶コーヒーに再び口をつける。人工甘味料が口一杯に広がる。せめてブラックにしておけばよかった。今のもやもやとした気分には、微糖とはいえ甘すぎる。


 水崎千夏と 繋がっていたのは、友樹ではなく、高校生時代の同級生で、友樹と婚約関係にある高階良子らしい。俺と友樹は高校一年から三年まで偶然にも同じクラスだったが、確か高階良子とは一年と三年時、同じクラスだった。三年生の時は学級委員をしていて、面倒見が良く、絵に描いたような学級委員像だったように思う。


 それで、肝心な高階良子と、水崎千夏との関係はと言うと、俺や友樹とはクラスが別だった、高校二年生時に同じクラスであったため、ある程度の関係性はあったとのことだった。それで、卒業した後も何度か連絡を取り合ったり、時折食事に出掛けたりと、友人関係は続いていたらしい。


 俺と友樹がたまに出掛けたり飲みに行ったりしていたように、高階良子と水崎千夏も関係性があったわけだ。なんてことない話。俺の動向については友樹から高階良子に伝わり、高階良子から千夏へと繋がっていたわけだ。具体的なやり取りについてまでは、友樹も把握はしていないらしい。


 話を変えて、友樹と高階良子についてだ。友樹と高階良子の馴れ初めだとか、どんな思い出を積み重ねていって付き合うまでに至ったのか、詳しいことは知らない。高校生時代、誰かと男女の付き合いをしていると友樹は明言していなかったが、時折何かを待っているように携帯を何度も見返していたことがあった。友樹にとっての青春の一ページは、そんな誰かからのメールを待っていた瞬間なのかもしれない。


 事実に近づいたようで、まだ完全には掴みきれていない歯痒さに、言葉を失った。次のチャンスを、展開を、一体どこに求めればいいのだろう。


 途方にくれる沈黙が満たす中、唐突に、本当に唐突に、友樹は言った。


「僕はね、主人公になりたかったんだ」


「は、なんだよ突然」


 友樹はわずかに顔を上げ、遠くを見るように目を細めていた。友樹が映しているのは自販機に並べられたレプリカの缶なんかじゃなく、はしゃぎあって笑いあって、時に毒づいた高校生時代の残滓ざんし。あの頃の景色を、去来する感傷に従うまま、見ているのかもしれない。


 過去の出来事なんて、もう思い出せないことのほうがたくさんあって、覚えているものも、少しずつ新しい記憶で埋めるたびに、こぼれ落ちてしまっている。それを離さないでおくことなんてバカげているとはわかっていても、それをせずにはいられない。過去は過去で今は今。そんな言葉にするほどでもないくらい当たり前のことだけど、当たり前だからと軽んじられることが出来ないくらいには、まだまだ俺たちは幼すぎるような気がするのだ。


「ゲームや漫画なんかでよくあるでしょ。変な部活動を作ったり、学校一番の美少女と秘密の恋愛をしたり、やたらと権力のある生徒会で学校だけじゃなくて地域や、ついには世界とも戦ったりとかさ。恥ずかしながら、そんな夢物語をいっつも想像してた。なんかおもしろいことはないかなって、そう思いながら過ごしててさ、僕が思いついたのはまず、拠点を作ることだったんだ」


「拠点ってのは、あの研究会室のことか?」


「そうだよ。僕の、僕たちだけの秘密の場所。仲間たちとバカをやれて、素敵な思い出が溢れて止まらない。そんな場所だ。まあ現実的に考えて、ただの高校生が学校内の物を勝手に使用するわけにはいかなかったから、部活動としてではなく、研究会って名目で申請してみたんだけどね。その結果が歴史文化研究会。あまりにも突飛な活動をしますと宣言しても、そもそも申請が通らなかったら元も子もないないからね。名前や活動指針なんてどうでも良かったから、教師受けが程よくて無難なものにしたんだ」


「ふーん。素敵な思い出が溢れる場所ね。まあそれは成功してたんじゃないのか。俺は研究会設立のために名前を貸した程度の手伝いしかしてないけど、おかげさまでまあまあ心地よい居場所を使わせてもらえたわけだし。今だから言えるけど、ありがたかったよ」


 俺以外の誰に名前を借りて設立したのかを、俺は全然知らない。何故かと言えば、ある程度自由に使える部屋を取得するという目的のためだけに作った研究会だったから、特に何かしらの活動をしていたわけではないし、メンバー全員の顔合わせはなかったからだ。たまにクラスも名前も知らない奴が部屋を使用していることもあった。そいつらと交流するかしないかは当人同士のやり取りに任されていたから、暇だったら少し喋ったり、別に何もせずにボーッとしてたりと、過ごし方はその時その時で違ったのだ。


 ただ、何らかの用途で使用する時は、友樹に連絡をすれば、その時その時で今日は使えない旨の連絡が入った。調整役としての業務は、友樹が担ってくれていた。


「そう言ってくれると、僕も頑張った甲斐はあったね。まああの頃は必死に色んな人と交流を図ろうと苦心してたから、自分のために使ったことは、実はそんなに多くなかったかもね」


「そりゃ微妙に本末転倒な話だな」


「あはは。ちょっと器用貧乏に立ち回りすぎたのかもね。二兎を追うどころか百兎ぐらいを追い求めていたことは、分不相応だったかな。ま、その経験は僕にとって悪いものじゃなかったけどね」


「お前がそんな風に思っていたとは以外だな。友達が多くて教師受けも上々。成績は普通だったが、俺の中の松澤友樹は、誰よりも青春を謳歌していたように思うぜ」


 俺の言葉を受けてか、友樹は微笑む。どこか影のある、憂いを帯びた微笑みを、作った。


「でもね明大。そう言ってくれたことは本当に光栄に思うけど、僕が一番羨ましく思っていたのは、真中明大、君なんだぜ」


 一転して、友樹はニヤリと笑う。からかうような表情をしていたが、わずかに残った陰りは隠せていなかった。俺が友樹を羨ましく、眩しく思うことは当然だと思うが、その逆ははっきり言って考え難い。


「意味がわからねえな」


「水崎千夏さんと仲良くしていた。それだけの理由では不十分なのかな?」


 仲良くしてた、ねえ。


 右手が無意識に頭皮をかき乱す。なんとも言えないむず痒さを感じた。


「俺と千夏とのやり取りは、まあ何度か見てるだろうけど、あれが仲良くしてるように見えてたんなら、眼科や耳鼻科のお世話になったほうがいいんじゃないか」


 もしくは、精神科とかな。


「明大の方こそ、水崎さんに対する認識がズレてるんじゃない? 誰に対してでも柔らかく接すること彼女が、棘を突き刺すような交流を行なっていたのは、おそらく君だけだ。むしろその事実の方が異常だよ」


 改めてそう言われてしまうと、友樹の言葉には一理あるように思う。


 自分自身でも認めてしまっているように、俺にとっての水崎千夏は、嫌いであり好きなところもあるが、何よりも特殊で、特別だ。


「正直、ちょっと悔しかったな。好意や明るさで水崎さんに近付こうとしても、他のみんなと同じように、優しく理想的なやり取りで終わってしまうけれども、まさか悪意や罵倒ありきの、ネガティブな関係性こそが、水崎さんと近づける唯一の手段だったなんて、僕には理解できなかった」


「友樹、お前……」


 言いかけて、やめた。


 この先は言わなくてもわかるだろうし、今更になって言うまでもないことだろう。訊いたところではっきりとした答えは言わないだろうし、言ったところで過去を変えることも、なかったことにも出来ない。


「ふう。この話はおしまい。ちょっとした想いはあったけど、今の僕は僕にあった生活が出来ているし、結果的に最高のパートナーと一緒になれるんだし、とても幸せな気分だよ」


 友樹のやってきたことに何一つ間違いはなかっただろうし、その時に出来る最良の選択を選び続けてきて、今の友樹に見合った幸せを見つけているのだろう。


 友樹の青春の結末は、きっと誰よりも最高だ。俺が保証する。


 友樹は、残っていたペプシコーラを一気に飲み干し、空き缶を捨てるゴミ箱に向けて投げ放った。重力に従って放物線を描き、ガランと音を立てて、ゴミ箱の中心に吸い込まれた。ナイスショット。


「それじゃあ、次は明大の番だね。わざわざ僕を呼び出しておいて尚、水崎千夏のことはどうでもいいなんて物言いは無しだからね。懐かしの母校にまでやってきたんだしさ。教えてくれよ、真中明大はこれからのことを、一体どうしていきたいのかな」

 友樹はこちらに向き直った。挑戦的な笑みを浮かべている。


 確かに、友樹まで巻き込んでおいて、ただ疑って思い出話をして終わり、というわけにはいかないだろう。水崎千春と再会してから、ただ押し寄せてくる出来事に流されていただけの俺だったが、そろそろ腹を決めなければならないだろう。


 俺は、水崎千夏とのことを。


「おい、そこの二人。生徒から不審な輩がうろついているって連絡が入った。神聖な学び舎に勝手に入って来るとはな。その度胸だけは認めてやるから、さっさと出て行ってもらおうか」


 鋭利な刃物を突き刺すような、激しい勢いの声が響いて、俺と友樹は振り返った。

 銀縁の眼鏡をかけ、仁王立ちで威嚇している姿は、野生の熊ですら怯ませられるくらいに様になっている。僅かに灰色がかかった白衣のポケットに、両手を突っ込んでいるその姿は、七年の歳月を経た今でも脳裏に焼き付いている。


「なんだ。てっきり不審者かと思えば、お前ら二人とも見覚えがあるな。昔馴染みのよしみだ。話くらいは聞いてやるから、言い訳をしてみろ」


 ほんの少しの温情を与えられたが、まずは礼を欠かないように挨拶から始めようと考えた。


「お久しぶりです。凍矢先生」


 保健室の女帝。俺たちの世代においての裏コードネームはミルクかき氷。


 養護教諭、凍矢先生の貫禄極まるご登場だった。

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