4章ー3

 言い訳を聞いてやると言われたけれど、言い訳をさせてもらえる暇はなく、出会い頭に一発。


 事情を説明し理解してもらった上で、さらに一発。


 保健室に連行され、アホなことばっかりしてるんじゃない、もう大人だろう、と嗜められつつ、最後に一発。


 計三回の愛の鞭という名称で守られたゲンコツをくらい、俺も友樹もテンションがだだ下がった。


 社会人になり、直接接触を伴う指導を頂くことは本当に久しぶりで、少しだけでもあの頃に戻ったような気分だ。何年の月日が経過しようと、俺たちにとって凍矢先生は教師であり、凍矢先生にとって俺たちは生徒のようであった。


 保健室は、俺たちが学生であった頃と、ほとんど変化していないように感じた。急病者や負傷者を休ませる真っ白なベッドが二つ。当然プライバシーを考慮して、クリーム色に近いカーテンが設置されている。応急処置などに使うであろう薬品からは、保健室独特の特殊な香りが漂っており、とても懐かしい思いで満たされた。薬品棚の上に設置されたコーヒーメーカーだけは汚れや傷もなく、真新しい様子だった。


「ほれ、まあせっかくだから飲んでいけ。生徒たちの大半は夏休みだし、私も正直暇だからな。勝手に校舎内を歩かれて事件扱いされてもかなわない。ここで大人しくしているなら、少しばかりは歓迎してやろう」


 凍矢先生は、カップを三つ取り出し、コーヒーを注いでくれた。その内の二つを、俺と友樹に手渡してくれた。凍矢先生と接したことのない奴は、総じて怖そうだの、思いやりがなさそうだの、凍矢先生を表現するが、鋭利な瞳と冷ややかな言動の裏には、凍矢先生なりの気遣いを感じられて、俺も友樹も好意的に感じていたものだった。


 人の性格は見た目に現れるという通説には、個人的には大いに賛成しているが、人を見かけだけで判断するというのは早計である、と考えている。見た目は一理あるだけであり、すべてではないのだ。


「あざす。コーヒーまで入れてもらってすんませんね。というか、まだ在籍してたんですね」


 俺がそう訊くと、凍矢先生は自嘲気味に笑った。


「お前らが一年生の時にここに来たから、もう九年もここにいるのか。我ながら長い間居着いてしまったと思うが、別の所に行けという辞令も出ないし、生憎人生で大きな変化もないものだからな。なあに、安定しているというのは、長い間働いていくことを考えると、そう悪いことではない」


 変化より安定。大学を卒業してから定年まで働くとなると、学生生活を送るよりも、格段に長い月日が流れる。様々な家庭上の変化だけではなく、地域も、国も、はたまた世界も変わってしまうには充分な時を過ごすことを考えると、刺激ばかりを求めることは辞めてしまうのかもしれない。俺も、社会人になってから徐々に感じている。


 若くなくなっていくと共に、新鮮さやエネルギーは徐々に失っていくけれども、落ち着きや思慮というものは、少しずつ磨かれている。きっとそうだと、思う。短距離選手から長距離選手への移行。そんなイメージだ。


 そして、今更ながらに思いついたが、今のシチュエーションは、チャンスなのではないだろうか。現在も現役で養護教諭として勤めているということは、現在の高校の事情にも通じているはずだ。


 水崎千夏の現在は知らなくとも、水崎千春の現在については何かを知っているかもしれない。


 しかし、どのように切り出せばいいかの妙案は、すぐには思い浮かばなかった。ただ、いきなり千春の話題を出してしまえば、勘ぐられて情報を引き出せない可能性が考えられる。となると、多少遠回りに、千夏のことから話題にするべきじゃないかと考えた。


「凍矢先生と会うのは久しぶりだから、何か思い出話でもしたいなー。そういえば、水崎千夏って覚えてます?」


 訝しげに睨まれた。顔が微妙に歪み、疑いの表情が顔面を支配している。友樹に至っては、肩をすくめて嘆いていた。明大、さすがにそれはないよ、と言っているように感じた。


 大根役者なんて言葉じゃポンコツさが足りない。かいわれ大根役者だ、俺は。


「……忘れてはいないな。お前たちの学年内では、知名度は段違いだったからな。積極的に保健室を利用する生徒ではなかったから、多くの交流はなかったが。それがどうかしたのか?」


 挽回のチャンスが巡ってきたようで、千春の情報を聞き出すのであれば、今しかないように感じた。さりげなく千夏の話題から千春へ興味が移るように誘導しつつ、千春の現在の情報を入手する。難易度は高いが、千夏への出来事をどんな形であれ終わらせようと覚悟したからには、なんだって出来る気がした。


「そんな有名だった千夏の妹が、今ここに通ってるらしいんですよ。うわあすごい偶然ですね。どんな子なのか気になるなあ」


 自分事ながら、とても見てられない。何これ、ひどい。


 友樹なんか、まるで自分のことのように恥じて、両手で顔を覆ってしまっている。見るに堪えないようだ。


 凍矢先生は額に手を当てて、苦しげに目を瞑っていた。わかってはいたけどそんなにダメでしたか。


「社会人になっても、お前は本当に悪巧みには向いていないな。なあ真中。お前は昔から捻くれていたけれども、それでも悪の道には進まなかったことは評価しているんだ。でも今になって、その理由を実感したよ。お前は善意にも悪意にも正直すぎる。もう少しくらいサラッと、調子のいい事を言えないのか。松澤は逆に根回しが過ぎるけどな。二人合わせて割るぐらいで、ちょうどいい感じになるんじゃないのか」


 耳が痛い言葉だけど、凍矢先生なりのフォローを混ぜてくれたため、反論の気持ちは湧いてこない。


 そして、懐かしさと共に違和感を覚えた。凍矢先生は間違っていた生徒には厳しい言葉をぶつけるけれども、調子のいいことを言えだの、卑怯さを促すようなことは言わなかった。規律は守るべきだとか、ズル休みはするな、などの常識的な範囲で叱ってくれていた。


「なんだか優しいというか、柔和なアドバイスで驚きました。歩んできた年月は、人を柔らかく変えていくんですね」


「一言余計だよ、まったく。私が歳をとって変わったというよりは、お前たちが変わったから、私が対応を変えているだけだ。言っていることはわかるか?」


「わからないので、ぜひとも教えて頂けないでしょうか」


 調子よく発言したのは友樹だった。素直に真っ直ぐな反応が出来るというところは、見習う必要が無きにしも非ず。


「松澤も相変わらずだな。まあつまりだ、お前らが高校生の頃は、私にとっては生徒だったのだから、この高校の生徒として必要な指導を行わなければならなかった。私自身も言われた経験はあるが、当たり前のことを当たり前に言わなければならないんだよ立場上な。つまらなくて融通のきかない正論は、有無を言わさないためには必要なことだ。だけどな、お前らはもうこちら側の人間だろう。どんな経験をしてきたのかは知らんが、社会人だからこそ、理不尽なことも、正論が通らないこともあっただろう。それが普通だ。お前らはもう私の生徒だった頃とは役割が違うんだ。多少卑怯でも、卑屈でも、わがままでもいい。ただ、うまく生きていけ。それだけが必要となってくるんだから、形だけの正論なんて今更いらないだろう。自分で自分を律し、自力で立つ。それが大人なのだからな」


 凍矢先生の熱弁に、思わず頷いていた。置かれている立場で、所属している何かで、肩書きで、あらゆる要素で扱い方や扱われ方も変わってくる。今の俺たちと凍矢先生の関係性だからこそ、今言えることがあるんだろう。


 そして、今となっては自己責任で生きていかねばならない、もうそんな歳であるから、凍矢先生としては、案じてくれているのかもしれない。


 ただ、うまく生きる。


 けど、それが出来ないあいつは。


「いやーやっぱり凍矢先生はかっこいい。素敵ですね! 高階良子に出会っていなかったら、凍矢先生を生涯の伴侶に選んだかもしれませんよ」


 弾むような調子の良さで友樹は喋ったが、凍矢先生は喜びでも怒るでもなく、顔を上下に動かし、何かに納得している様子だった。


「ほう、松澤はついに結婚するのか。それは良かったな。いい発表を聞くことが出来て、珍しくいい気分だ。やはりあの時見過ごしたのは正解だったのかも」


「先生!」


 凍矢先生が言うや否や、友樹が滅多にあげない強い口調で、先の言葉を制した。普段は滅多に見られない気まずそうな表情。


 無言の時間に包まれる。気まずさという感情に支配され、次の一言を待っていた最中。


「ぼ、僕はちょっとトイレに行ってくるね」


 そう言って友樹はそそくさと退散した。


 沈黙と共に、俺と凍矢先生は取り残された。運動部の生徒が、保健室の横をランニングの一環で走り去っていく姿を見送った。どうしようこの空気。


「ところで、真中。お前と水崎千夏は、一体どうなんだ?」


 こっちにお鉢が回ってきた……。


「いや、どうと言われても、別に俺と水崎千夏に何かあるってわけじゃなくて」


「当時な、保健室ではこんな話題でもちきりだったぞ。水崎千夏とよく一緒にいる、あのよくわからない馬の骨は誰なんだってな」


「おもいっきりバレてるじゃん」


 学生時代、見つからないように、噂にならないようにと気を遣い、長時間話すことはしない、登下校を共にしない、屋内の見つかりにくいところで絡む、といった努力は全くの無駄だった。


 おそらく、俺を積極的に見張っているやつはいないはずなので、どうしても千夏への注目が大きすぎるせいなんだと、考えられる。人目を惹く姿をしているので、監視をしている絶対数が違うんだろう。となると、わずかな目撃談ですら、積み重なれば大きな事実として認識されてしまうのは、当たり前なんだろう。迂闊。


 全然周知されていない、ある種秘密の関係めいた相互交流を、少しばかり楽しんでいたことは否定出来ない。しかし、実はそのことを周りが知っていたという事実。俗なたとえになってしまうが、父親のアダルトビデオを盗み見ていたことを、親にはバレていたという出来事ぐらい、恥じらいで満たされている。死にたい。というか、千夏がアダルトビデオみたいになってしまっている。


「ああああ」


「適当につけた勇者の名前じゃあるまいし、萎えるだろうが」


 意外な例えをツッコミに用いてきた。就学中にはそのような素振りを見せていなかったが、案外ゲームや漫画などの娯楽文化には理解があるのかもしれない。


 ともかく、隠し事をしても無駄なのだと悟った。まあ色んな選択肢も誘導の方法もあるのだろうけど、水崎姉妹に関する情報を何かしらでも手に入れるためには、多少の痛みが伴うことを、覚悟しよう。


 交渉とは取引とは、物であれ情報であれ、持っているものの引き出し合いなんだから。


「話してもいいんですけど、一つ取引……いえ、そんな大層なものじゃなくて、お願いがあるのですが」


 鋭利な瞳に鋭さが増す。喜色に満ちた表情をしていて、口元は僅かに口端が吊り上っていた。


「叶えられるとは言わないし、言えないが、それでもいいなら言ってみろ」


「水崎千春のことで、どうしても知りたいことがあるんです」


 凍矢先生の表情が曇った。意外に感じてくれているのかもしれないし、現役の生徒の個人情報を取引に利用することを、躊躇っているようにも感じた。だが、せっかく訪れた好機なんだ。俺だってみすみす逃してしまうわけにはいかなかった。


 時計の針が一周、二周と時を刻んでいく。押しつぶされそうにすら感じる沈黙は、凍矢先生によって破られた。


「不純なこと、というわけではないんだよな? 例えば、保健室にあるデータを利用して、スリーサイズの記録を手に入れるとかな」


「知れるものなら知りたい。ですけど、そんなことはどうでもいいんです。俺と千夏とのこれからを話すために、どうしても確認したいことがあるんです」


「ふむ」


 そう言って、凍矢先生は再び思考作業に没入する。


 俺は待つ。ただ、待つ。言葉をうまく操れるわけじゃなく、特別な才能に恵まれているわけでもないが、出来ることはやる。悪巧みは俺には苦手分野なんだろうが、真っ直ぐに気持ちをぶつけることしか出来ない。幼稚園児のほうがうまくやれそうなことだが、先へ進むためには、不器用だろうがやらなければならない。


 そして。


「悪いが、やはり約束はできない。生徒の個人情報を保護することも、我々教員の業務だからな。だがな」


 フッと凍矢先生はニヒルに笑った。


「お前が私に恥を晒してでも、といった気概で得たい情報を、お前が得られるように、最大限、誠実に努力はする。このような答えでもいいのなら、話すがいい」


 最大限の感謝の気持ち込めて、頭を下げた。


 我らが(母校の)養護教諭は。


 七年経ってもかっこいい。

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