3章ー6

「痛っ」


「大丈夫かな? 無茶なんかするからだよ。もう」


 痛む体を抱えながら、小学校の校舎を後にして、正音の車に揺られている。絆創膏を貼ってもらったが、消毒薬などは持ち合わせていなかったので、何か処置をするのなら帰宅してからとなった。


 国道を突っ切るための交差点に差し掛かった。ここの信号は、より交通量の多い交差点からの通行を優先するために、やたらと待ち時間が長いんだよな。


「ねえマメくん」


「なんだよ、マサ姉」


 今更またいつもの呼び方に戻すのも余所余所しくて、俺たちは昔の呼び方のままだった。


「なんだか今の私の気分を表すならね、ほら、あれだよ。帰ってきたドラえもんでさ、のび太がジャイアンに立ち向かったシーンあったでしょ。その時のドラえもんの気分だ」


「なんだよ、それ」


 いじめっ子で、のび太にとっては小学校の世界内では恐怖と支配を司る存在。それがジャイアンだ。そんな権力に、暴力に、立ち向かっていける強さを示すことで、守ってくれる存在であるドラえもんに、安心を与えようとしたのび太。ジャイアンに殴りかかった時、のび太は言葉ではなく、行動でこう言ってたんだ。


 僕はもう、大丈夫だよ。


 無様にも体を放り出し、怪我や病気の危険性すら放棄して得た勝利は、正音に何かを伝えることは出来たのだろうか。


「マメくんは大丈夫だよ」


 正音の横顔を眺めた。そこに迷いは感じられない、穏やかな顔つきだった。月明かりに照らされて、この世のものとは思えない神聖さを孕んでいた。


「マメくんは大丈夫だよ。これまでも。そしてきっとこれからも、大丈夫だ」


「マサ姉がそう言ってくれるなら、そんな気がするな」


 車が発進する。夜も深まり、視界が狭いせいか、正音の運転はいつもより穏やかで、とてもゆったりとしたものだった。


 正音がこの街を出て行くまでまだ時間は残されてはいるし、それまでに一回くらいは会えるかもしれないが、俺が言えなかった十五年にも巡った後悔の言葉を、吐き出すなら今が一番。そんな気がした。


「なあ、マサ姉」


「なにかな」


「今度はマサ姉が出てくほうだけどさ、言えなかったことを、今言わせてよ」


 停車する。ハザードランプを灯すと、正音は、こちらに向き直った。


 真っ直ぐな、瞳。


「またね」


 正音は顔を伏せ、両腕でハンドルと表情を覆い隠した。何を感じてくれたのかなんて、それを口に出すほどは野暮ではないつもりだ。


「もう、マメくんのくせに生意気だ」


 正音は、ドラえもんよりも、むしろジャイアンのようなことを言った。


 時折すするような音が聞こえ、噛み殺した声が聞こえた。俺もとてもじゃないが、正音のことを見続けられる気がしなかったから、ぼんやりと空を眺めた。


 今日の月は、泣いているのか、何故かキャンバスに水を滴らせたかのように、滲んでいた。


 仮にそう見える原因が俺側にあったのだとしても。


 さっき作ってしまった傷が痛むだけ。


 それだけのことだ。







「で、俺が勝った約束を果たしてもらおうか」


「もちろんわかってるとは思うけど、エッチなこととかはダメだよ」


「……んなこと言うわけないだろ」


「その間」


 うるせえ。


「冗談はともかくとしてだな、ちょっと、相談に乗ってくれ。千夏のことで気になるところがあるんだ」


「うん、もちろんいいよ。私にもわかることがあれば答えるよ。それで、どんなところが気になったのかな?」


 俺は、水崎千春のLINE名で呼び出された日のこと、俺が抱えていた自己完結的な想い、その日の顛末、疑問点や仮説などを、出来る限り詳細に伝えた。


 正音は、しばし考えるような仕草をした後に、自分の考えを述べた。


「なるほどね。前回気になっていたことも、そう考えたら筋が通るわけなんだね。うん、マメくんの考えは、きっと間違ってないと思うよ」


「マサ姉のお墨付きを貰えて、少しホッとした気分だ。けど、どうしてそんなことをしたのかはわからないままだ」


「私は少しわかるような気がするけどな。かくれんぼをした目的を考えるとね。かくれんぼって本来は、見つからないことを目指す遊びじゃないかな。まああくまで私の想像だし、本当に千夏ちゃんのことを理解できているわけじゃないから、ここから先は言わないけど」


「最後に宿題を残されるなんて、ほんっと最後まで厳しいなマサ姉は」


「可愛い子には旅をさせよ、だよ。ほら、こんなにおっきくなったんだから大丈夫だ。ここから先は直接聞こうよ」


「この歳になって可愛い子ってのもなんだかな。とはいえ、千夏と直接話そうにも、俺は連絡を取ることは出来ないんだよな」


「マメくんは出来ないんだよね。だったら、出来る人に連絡を取って貰えるように、頼めばいいんだよ」


 そう言って、正音は千夏絡みで連絡が取れそうな奴の名前を教えてくれた。


「がんばるんだよマメくん。それじゃあ、またね」


 俺は、遠ざかって行く正音に、中途半端に挙げた手を振りながら呟いた。


 ありがとう。


 またね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る