3章ー5

 する気だった。


 しかもやる気まんまんだった。


「明大くんが転校してったのって、確か運動会を直前に控えてた秋頃だったよね。覚えてるかな、運動会に向けて、100メートル走の練習で、グラウンドを走り回ってたこと」


 どちらがそんなことをしようと言ったのかは思い出せないが、確かに練習で走ったことがあるという出来事は、かろうじて覚えていた。正音には何度も指摘されたように、小学生時代の俺は身長が低く、身体能力は成長途上だった。クラスの生意気でガキ大将ポジションだった、小島だか大島だかみたいな名前の奴と、100メートル走では同じ組みになってしまったので、少しでも一矢報いてやるという気持ちがあったように思う。


「一応覚えてるけど、それが今走ることとなんの関係があるんだよ」


 正音にしては珍しく、顔をしかめたかと思えば、肩をすくめて嘆息した。


「やっぱり覚えてないんだね。まあ子供の頃のことだからしょうがないけど。運動会本番で、早い記録を出した方が勝ちだって勝負してたでしょ?」


「……ああ」


 練習をするのであれば、何か目標や勝負事があれば、もっとやる気が出るんじゃないか、そう言い出したのは多分正音の方だったと思う。それで、運動会本番で記録が良かった方が勝ちという、簡単だけど、やる気を上げるにはそこそこ効果的な勝負を約束したんだった。


 しかしだ、この時の勝負の結果は、実を言うと未だに出ていない。


「まだあの時の勝敗は決まってないよ。運動会前に、明大くんが転校しちゃったからね」


 親の仕事の都合上仕方がないとはいえ、運動会に参加する寸前に、別のところへの転勤が決まってしまったため、運動会には参加出来ず仕舞いだった。転校することを伝えたのは、運動会を一週間前に控えた、通学路を帰宅するために下っていた時だった、と思う。


 俺にとっても、転校は唐突な決定だったが、正音にしてはさらに寝耳に水だったらしく、混乱したのかいきなりランドセルを顔面にぶつけられた。「しょうがないとは思うけど、ばーか」そんなことを言って正音は、今までに見た最高のスピードで、 自宅までの道のりを駆けていった。


 残された俺は柄にもなく、泣いた。痛みで。


 思えば、この時に初めて、恨みや辛みを忘れないように、呪詛の言葉をノートに書き溜めた。人の心の理不尽さを、受け入れると共に、いずれ全てを爆発させてやろうと、密かな野望を抱いた記念すべき出来事だった。


 それ以降、転校するまでの間は、正音と会うこともなく、俺は無事に転校することができた。あまり深く関わった友人はいなかったし、正音にはあの時ばかりはムカついていたので、寂しいという思いが湧いてこなかったことだけは、幸いだった。


「思い出したぜバッチリと。あの時の痛みも一緒にな。自慢じゃないが、俺はあの出来事以来、赤いランドセルを見ると顔面がチリチリと疼くようになったんだぜ」


「本当に自慢じゃないね。それとその事は再会した時に謝ったから、これ以上の謝罪はしないからね」


 やる気が湧いて来たので、足を曲げ、手足を動かし、簡単にストレッチをした。全力で走るなんて行為は、社会人になってからめっきり機会がないので、今の俺にどれだけの能力が引き出せるのかは未知数だった。


 ただ、俺は仕事で体を動かすことは多いし、不摂生すぎる生活はしていないので、極端な体力の衰えはないだろう。それに、流石にこの歳となると、男女としての身体能力の差は完全に現れている。成長期を経て体力、身長、筋力などは飛躍的に向上している。まだ成長差が著明に現れない小学生時代とは違う。流石に負けるわけがない。


「負けるわけがないって顔をしてるね。随分と強気でいいことだね。でも忘れたとは言わせないよ。小学生時代のことだけど、私に100メートル走では一回も勝てたことがないってことをね」


 痛いところを突かれる。本番は訪れなかったので、本番ではどのような結果になったかは、今となっては謎のままだけど、練習の際においては、俺は一度として正音に100メートル走で勝てたことはなかった。負けるイメージがふわりと湧いてきたので、頭を振って振り払う。負け癖がここにきて出てくるのは、とてもよろしくないな。


「ちなみに、勝った方は負けた方に一つだけお願い事が出来るってことも覚えてるよね?」


「忘れてた」


 うっかりしていた。子供同士の約束なんて、今思えば可愛いものだけど、大人になってからそんな約束を盾にされると、一体何をされるかはわからない。軽はずみなことを約束した過去の俺を殴り倒したい。


 けれど、ここで話をひっくり返す、無責任な奴にはなりたくなかった。


「まあいいさ。勝つのは、俺だからな」


「うん、その粋だよ。それじゃあ、始めようか。100メートルのラインはわかるよね。そこのラインから、あそこに建っているポールまでだね。スタートの合図は、アラームのアプリセットするから、開始音が鳴ったらということにしよっか」


「いいよ。じゃあ早速セットしてくれ」


 俺はスタートの位置に着いた。クラウチングスタートなんて慣れていない真似はせず、右足を後ろに構えてのスタンディングスタイル。


「時間は、一分後の二十三時に設定したからね」


 そう言って正音は、自分のスマホを俺の足元に置いて、スタートラインを跨いで、前方20メートル先ぐらいで両膝を地面に着け、ジワリと迫り来る、スタートの瞬間に備えた。


「ってちょっと待て」


 俺が抗議の声をあげようとした瞬間、正音は顔だけこちらを向けた。勝ち誇るような憎たらしい笑みが見えた。


「ルールのわかってない明大くんに、ヒントをあげます。小学五年生の運動会での走行距離って、どれだけだったでしょうか?」


 すべての小学校がそうだったのかは知らないが、男女の身体能力の差を考慮しているのか、女子の走行距離は男子よりも短い。その差は確か20メートル。


 ということは、女子の走行距離は。


 80メートル。


「だましたなこのクソアマああ!」


「あはははははは。運動会での記録勝負って初めから言ってたからね。そのことを考えなかった明大くんが悪いんだからね」


 思えば、俺と一緒に練習する時は、毎回100メートルを走っていたことが、今考えるとおかしかったんだ。今更になって、正音との一回目の別れから十五年も経過して、遅ればせながらやっと気づいた。


 あの時から鏡正音は、俺に勝利を許す気なんて、微塵もなかったのだということに。


 十五年にも渡る伏線の回収には、素直に脱帽せざるを得ない。けれど、認識の穴をつかれたことで、急激に怒りの感情が放出されていくのを感じた。足に腕に、頭にも、血が巡り、筋肉が脈動することを感じた。腹わたが煮えくりかえる。なんだろう、久々に陰鬱以外の気持ちが表面化してくるのを感じた。最近の沈鬱な出来事ばかりで、エネルギー溢れる感情を忘れてしまっていた。暗い気持ちだけじゃなくて、気が狂いそうなくらいの強い感情、それと共に生きていくのも、少しだけ、心地好さそうだ。


 絶対に、ぶっちぎってやる。


 パンッ。正音がセットしたアラーム音が鳴り響き、右足を強く蹴り上げた。正音も勢いよくスタートし、チラリと視界の端をわずかな赤がよぎった気がしたが、今は必要ない情報だった。


 スタートダッシュは成功したとは言い難く、勢いをつけるのに二歩、三歩と進める他なかった。一方正音は勢いよく飛び出すことに成功しており、開始直後の位置は20メートルよりも、さらに差が広がっていた。


 腕を強く振り力を太ももから足首だけじゃ足りないので足の裏から指先まで地面に触れる箇所には流れるように力を注いだ。息を吸い込むのを忘れて一瞬で肺を一杯にしたがすぐに吐き出さないと力を維持できなさそうだ。汗が勢いを増して吹き出してくるのを感じる。たった数十メートル超えただけなのに裏ももやふくらはぎに緊張を感じた。けれどもここで力を緩められない。正音はまだ俺よりも前にいる。

 正音も前を向いて一心不乱に走っていた。まるで手加減などする気がないようだ。女子特有の腕をほとんど振らないような女の子走りではなくて大きく腕を振り上げ連動して足も大きく回し一回一回の踏み込みごとに力の流動を感じる素晴らしい走りだった。きっと俺が観客の立場であれば見惚れてしまいそうな走りだ。都会の路地裏を颯爽と駆け回る黒猫のようなイメージを感じた。

 徐々にではあるが体の大きさが勝るつまり歩幅も上回る俺は距離を詰めることは出来てきたけれど足りない。俺も正音もおそらくは最高スピードに達しているがスタート位置の差と競う距離の短さそして正音の身体能力の高さが俺の勝利を遠ざけていた。俺がこのまま抜き去るにはコース全体の距離が最低でももう十メートルほどは必要だろう。


 くそう。くそくそくそ。


 走馬灯のように、瞬間的に流れていくシーンは小学四年生頃の自分自身について。クラスメイトの小島だか大島だかの勝ち誇る顔。クラスの優秀者を褒め称える教師。なかなか勉強や運動も出来ず、いつも拗ねたような態度をしている弱者側の生徒。成功者も失敗者もそのすべてに、そして自分自身にすら、腹が立っていた俺。

 正音が俺を嗜める。だめだよーと間延びした声で背伸びするような発言をする。従わずに俺は逃げるけれど、それでも根気よく関わり続けてくれた。放課後のグラウンド。100メートル走りきるたびに、得意気な表情をしながらも、次はもっと早くなれるなんつって激励をくれた正音。兄弟姉妹もいない一人っ子だった俺の、ちょっとだけ前を歩いたり一緒に歩いたりしてくれた、まるで本当の姉のような存在。絶対に本人には言わない、俺が憧れていた存在。まあまあ可愛らしくみんなに愛され、運動能力もそこそこあり、意外過ぎるほどに頭も回る。そんな奇跡みたいなキャラクター。俺みたいな奴をおちょくりながら、そして心配だなーなんて言いながら、今でも真っ直ぐに関わり続けてくれている。正音は、俺の少し前を走る。全力で。


 そんな正音は、もうすぐ行かなければならない。


「まけねえええええええええ」


 咆哮する。声を出しながら走ることで瞬間的に力を開放できるということを思い出した。わずかに足が回る。わずかに腕が回る。わずかに距離が縮まるがまだ届かない。残りの距離は約10メートルを切った。


「らあああああああああああ」


 俺は迷わず上半身を前方に大きく突き出して足を蹴り上げて体の自由を完璧に物理法則に委ねた。この一瞬だけの距離を刹那で埋めるための最終奥義。ヘッドスライディング。


 普段は味わうことのない浮遊感に抗うことなく完全に体を投げ出す。本当にわずかの一秒足らずかもしれない瞬間の出来事だけど俺は確かに飛んでいた。空を飛び続けられない人間でもほんの一瞬飛ぶことが出来て行きたい場所に行くことが出来る。


 ズドン、と胸から地面に落ちて、顎、両足、両腕と地面に接触し、勢いが流れていくままに砂利が身を削っていった。熱を持った痛みが、脈動するように襲ってきた。おおよそ十五年ぶりぐらいに味わう、擦り傷の痛みだ。


 正音は、俺のところまで戻ってきて、しゃがみこんで手を出して来たので、その手を取って起き上がる。スタート直後によぎった視界の赤は、決して間違いではなかったことが確認出来た。


「ありがとうマサ姉」


 約十五年ぶりになる呼称に、正音は恥ずかしそうに顔を逸らした。かつて小学生時代の俺が呼んでいたことを、今更になって言われることは、思うところがあるらしい。


「もう無茶したら、危ないでしょ! 勢いよく突っ込んでったから、心配したんだからね。ほんとマメくんは、ほんっとマメくんは。いくつになっても、危なっかしいよ」


 小刻みに呼吸し、肩を上下に揺らしながら、正音は言った。心配という感情もあったんだろうが、正音は少し拗ねているような口調だった。いつのまにか、正音まで呼び方が昔のものに戻っていた。


「悪い悪い。で、どっちが勝ったんだ?」


 ヘッドスライディングで体を投げ出し、地面と体ごとスクラムする寸前、必死に伸ばした右手が、正音よりも先にポールの横を抜けたように見えた。けれども、ゴールテープは存在しないし、体のどこの部分がゴール判定になっていたのかは決めていなかったから、正音が認めなければ、俺が勝ったとは言い難いだろう。


 正音は少しだけ沈黙し、閉眼した。何かを考えているのだろう。下される判決を、俺は待つしかなかった。今持てる全力を出し切った結果なので、どちらに転んでも文句はない。


 まるで合格発表を待っているような気持ちに委ねていると、正音は相貌を崩し。


 月にも勝るほどの煌めいた表情で、言った。


「おめでとう。マメくんの勝ちだよ」


 小さく、だけど力強く確実にガッツポーズをした。


 苦節十五年。


 十五年越しの因縁の末に。


 鏡正音に勝利した。

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