1章ー2

 今日の自分の行動を思い返してみる。


 朝起きて仕事に行き、幸いなことに特に問題も起きなかったため、今日は十七時半には職場から上がった所までは、普段とさして変わりのない日だったはずだ。変化があるとすれば、約三ヶ月ぶりに高校生時代からの友人、松澤友樹に誘われて、近所の居酒屋に飲みに来たという出来事くらいだ。


 内容は、確か。








「誕生日おめでとう明大。つっても三日前の話だっけか。まあ何はともあれ、君ももう二十五歳か……四捨五入すると三十歳になるな!」


 ビール三杯目にして絶好調気味の友樹は嬉しそうに言い放った。三十歳の部分を、大声で必要以上に。


 今ここでこいつをぶん殴っても合法だと認めてもらえる手段はないか考えたが、すぐに思いつきそうもなかったので堪えた。行き場をなくした拳をほどく。なんで人は年齢の話をする時に、むやみやたらと四捨五入をしたがるんだ。四捨五入を持ち出してしまえば、たった一歳年が若返るだけで二十歳じゃねーか。一歳の差が一気に十倍になるとか、意味がわからない。


「四捨五入する意味がわかんねぇよ。お前だって同い年なんだから、後数ヶ月で俺と同じ立場になるだろうが。四捨五入してしまえば三十歳のおじさんにな」


 三十歳の扱いにはまだ早いとしても、二十五歳の扱いをこれから受けることになると思うと、少しばかり気が重くなる。友樹との出会いが高校一年生の時だから、もう九年も前の話になる。輝かしくも愚かに青春を送っていた高校生時代から、七年もの月日が経過していた。ただ歳をとったというだけのことだが、そのことを指摘されると、今までに感じていなかった焦燥感を感じた。理由ならいくつか思い当たる。まずは社会人として仕事をしている日々とかつての青春を比べてみると、どうしても今の自分が輝いているようには思えない。かといって、高校生時代の俺が学校の役に立つようなこと、世間に自慢できるようなことをしていたわけじゃない。逆に極端なアウトローで、闘争や暴力の蔓延る世界で、伝説となったわけじゃない。ただ、誰しもが感じている普通の生活だとしても、他人には決してわからない自分自身だけの特別な日々であった。今になってみると、そう、思う。


「なんだか随分と不満そうだね。何かあったの?」


 心底不思議そうに友樹は言った。この世には、優しさや幸せが溢れていると信じてやまない能天気な男。思えば、高校生の頃から友樹はそうだった。幸せかどうかは境遇が重要なんじゃなくて、考え方が重要なんだと、高校生ながらに、わかったようなことを力説していた。100%の正しさを感じるわけじゃないが、100%間違っているわけじゃないように思う。もしも、もしもの話、食う物がなく、住む場所もない、そんな一般的には幸せとは言えない境遇だとしても、幸せだと笑っていられれば、幸せなのかもしれない。


 ただ、俺はその考え方には、わずかでさえ同意できないけど。


「生きてりゃまあいろいろあるさ。友樹は相変わらず幸せな野郎だなって思っていただけだ」


「お褒めに預かり光栄でございますね」


「そういうところがほんとなんつうか……まあいいや。ちなみに、二十五歳って四捨五入すると三十歳だなって言ったのは、お前で二人目だ。最初に言ってきたのは職場の先輩な」


「へぇ。僕と同じようなことを言うなんてね。どんな人か興味あるな。ちょっとだけ」


「三十四歳既婚男性。過去に俺は悪かったんだぜアピールを繰り返す、熱い魂を持った素敵な先輩だよ。精神年齢が俺たちよりも若々しいんじゃねえかな。俺は密かにヤンキー先輩と呼んでいる」


 我ながらへったくそなあだ名だと思うが、ヤスシ先輩をわかりやすく表すには適した言葉だ。元不良で、今でもやんちゃな、酒とタバコとジャンプをこよなく愛する、ガキみたいな大人だった。割とすぐにキレる。弁当に箸が入っていない、間違いを指摘される、上司からの命令が下るなどなど、日常の中にヤスシ先輩のキレどころがゴロゴロしている。大人気なさには定評があるのだ。ちなみにヤスシ先輩は俺にそう言った後に、こう言い放った。


 俺は三十四歳だから実質まだ三十歳だな。からのドヤ顔。


 元ヤンでなければ、殴りかかっていた。


 まあそれでも、けっこういいところもあるんだけど。


「明大がそういう時は、大抵褒めてない時だよね。素直じゃないというか。うん、というかはいらないな。明大の方こそ相変わらず素直じゃないな。決して、けなしてるんじゃないんだよ。僕が思う明大のキャラクターが変わっていないっていうのは、友達としては安心したよ」


「褒められてるんだろうが、あまりそう感じないな」


 そう言って、俺と友樹はほぼ同時に、グラスに注がれたビールに口をつけた。わずかな刺激に加えて、苦味や言葉にし難い複雑さが襲う。初めてのビールは後悔しかなかったが、今となっては苦味の奥深さ、複雑さがビールの個性なんじゃないかと考えられるくらいには慣れた。うまいとは思わない、けど、続けて飲めるようになった。慣れと変化の果てに、俺は友樹とビールを飲んでいる。


 それからはいくつかの思い出話や、今のクラスメイトがどうしているのかについての話になった。例えば、学年内でそこそこ可愛いと有名だった加島愛理かしまあいりなんかは、現在キャバ嬢になっていて、子供が出来た上に、ほぼ毎日SNSに死にたいだの鬱だのといった投稿をしているらしい。他にもニ年生の時にクラスメイトだった川中茂かわなかしげるは、運動がまるで出来ずに、体育の成績は下の方で、率直に言うとデブだった。しかし、人生何が起こるかはわからないもので、女の子に告白してフラれたことを機に体を鍛え始め、今や体脂肪率一桁のナイスガイに変貌しているらしい。もし街中で出会っても気づかないかもしれない。


 そこそこ付き合いがあった奴、名前は知っている程度の奴、全く知らない奴など、様々な人物のあれからそれからについて話を聞いた。ほとんど友樹がしゃべり、俺は相槌を打つという流れだった。色んな奴と細く広く関わりを持つ友樹と比較すると、俺の人間関係はかなり限定的だ。狭く深くって言えば、数人の友達を大事にするいい奴みたいな印象もあるのかもしれない。だが友樹に言わせれば、俺の人間関係は、自分と他人、だそうだ。自分は自分で他人は他人。それはとても当たり前な話だと思うんだが。


 会話を続けると共に、飲み干したビールは増えていった。つまみとして枝豆や焼き鳥の盛り合わせ、刺身盛りに衣多めのからあげなどなど、冷静さがどんどん抑えられて欲望のままに注文をした。友樹はビールに飽きたのかハイボールに切り替えていた。俺はカシスオレンジを舐めるように飲む。そろそろペースを落とさないと、せっかく詰め込んだ食べ物を、胃袋以外のどこかに旅立たせなくてはいけなくなりそうだ。


「なあ友樹」


「あ? なーにー?」


 友樹は呂律の怪しい状態で返事をした。もう二十一時を回っている。二時間以上も飲み続けていたため、友樹のアルコール許容量は限界に近づいているみたいだ。もちろん俺も限界だった。


「昔は……良かったな」


 ふと、そう漏らしてしまった。


 言葉に、してしまった。


 アルコールに神経を麻痺らされたせいだ。


 普段なら、こんな弱音は滅多に吐かないんだがな。


「高校生の頃も楽しかったねぇ。色んなことがあったね。そういえば、明大が特に仲良くしていた水崎さんとは、連絡をとったりはしてないの?」


 言葉に詰まる。


「……一緒にいたからと言って、特に仲良くしていたかどうかはわからんだろ」


「でも、少なくとも嫌いな人だったら一緒に居ることは少ないんじゃない?」


 友樹の指摘は正しいっちゃ正しい。ただ単純に嫌いという表現を使うのは適切ではない。かと言って好意というわけでもない。好きか嫌いかの二元論では、俺と水崎千夏の関係は語れない。


 じゃあ……一体どんな言葉で、どんな関係だと語るべきなのだろう。


 考えがまとまらず、反応としては沈黙になった。お酒の許容量の限界が唐突に表れ、眠気が押し寄せてくる。まぶたが重みを増す。


 だめ、少し、寝る。


「今更なんだけどさ、今日飲みに誘ったのには、理由があるんだ」


 まどろみに侵食されかけていたため、返事は出来なかった。そういうことは、いい感じに酔ってきたっていうテンションも上げられそうな場面で、切り出すべきだろ。


「高校の同級生だった高階良子たかしなりょうこっていたでしょ? 半年後、彼女と結婚するんでよろしく。せっかくだから友人代表として、ちょいちょいとスピーチしてくれないかな? いい話しはどれだけマシマシでもおーけーよ」


 結婚……友樹が結婚する、だと。


 友樹が言った言葉をなんとか理解した時に、最初に出てきた感情は怒りだった。


 だからそういう大事な話は。


 もっといい感じの時にしろよ。


 思考を、意識を、虚空に手放す直前、かろうじて俺の気持ちを伝えることが出来た。


「やだよ」

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