1章ー3

 翌日の土曜日、目が覚めた時には、すでに日が傾いていた。水崎千夏がいなくなったことを聞かされて動揺したせいか、あまり眠れなかった。まだ二日酔いによる吐き気が残っていたが、風呂に入り歯を磨き着替えをし、俺は出かけることにした。あまりにも二日酔いの重みを感じたので、車での長距離移動はあきらめ、徒歩十五分ほどの距離に居を構える、高校時代の一つ年下の後輩、神川絵衣美の家に訪れた。


 家に入る直前になって、今来たことを電話で連絡したら、「ぎゃーちょっと待って下さい」と、とても慌てた様子の返事があり、電話は切れた。五分ほど待つと、神川絵衣美は少し不機嫌そうだったが、家に招き入れてくれた。


 昨日あったことを俺は誰かに聞いて欲しかったのだが、生憎高校生時代の友達は数えるほどしか連絡をとっていない上に、水崎千夏と俺に関することを知っている奴というのも、ほんの数人しかいない。その中でも、一番話をしやすいのが後輩である、神川絵衣美だった。


 俺は、昨日あった出来事を、覚えている限り絵衣美に説明した。


「ふむふむ。それで明大先輩は友樹先輩と飲みに行った帰りに、水崎先輩の妹さんに会ったのですね。それからどうなりました?」


 突然押しかけたにも関わらず、家に上げてくれるだけでなく、きちんと話まで聞いてくれる神川絵衣美は、元中二病患者だった。学生時代に発症件数が激増する重病、通称中二病。自分自身を光の国に君臨する王妃だったが、姉妹の裏切りにより国を追われ、聖なる力を持ちながらも欲望や悪意の侵食により、闇に染まった堕天使だと熱く語っていた。その背中には、一般人には見えない黒に染まりし片翼を携えている(という設定)らしい。高校生時代の絵衣美を思い返すだけで、俺まで背中がもぞもぞとしてくる。俺には翼はないんだがな。痛々し痒しだ。


 永遠に続いていくのかと錯覚すら覚えた絵衣美の中二病ライフも、高校卒業とほぼ同時に幕を閉じた。どうして夢から覚めたのか聞いてみたのだが、詳しい心境の変化については、ほとんど教えてくれなかった。ただ単純に飽きてしまった、ということであれば青春の一ページだったと語り種にもなるのだろうが、入学する予定だった大学を蹴り、二年にも及ぶニート生活を経て、今は実家のお弁当屋で手伝いをしている。絵衣美の人生の変遷と結果を見てきた俺としては、単純に飽きてしまった訳ではないのだろうと想像はつく。なんせニート生活をしていた時期は、会うことはおろか、メールのやり取りすらもほとんど出来なかったのだから。


「先輩、ちゃんと聞いてますか? いきなり押しかけて来たと思えば、今度は無視ですか? 泣きますよ、泣いてしまいますよ。裁判沙汰になれば確実に私が勝訴出来るくらいに泣きじゃくりますよ」


 絵衣美は、拗ねたような口調で脅し文句を垂れてきやがった。自室のベッドで体育座りをして頰膨らませる仕草は、小型犬の威嚇のようだった。堕天使から小動物へ。


 とりあえず話を元の方向に戻した。水崎千春と再会し、水崎千夏の失踪を聞かされた後、酩酊による眠気が限界だったので、詳しい話は後日聞くことにした。水崎千春を最寄駅まで送ろうとしたが、丁寧に断られた。「結構です。いや本当に結構です。まずは冷静に話が出来る状態になって下さい」と、とても丁寧に嫌そうだった。ただ連絡はとれるように、LINEのIDは交換しておいた。スマホを振るだけで連絡先をやり取りできることに驚いた。ハイテク化の波にさらわれて、そのままデータの海の藻屑と消えていけそうだ。


 その後、水崎千春からLINEが来ていた。姉のことで改めて話がしたいので、また都合の良い日を教えて下さいといった内容だった。俺はまだ、なんの返信もしていなかった。


 その旨を説明すると、絵衣美は腕組みをして唸った。


「それだけの情報だと、まだよくわかりませんね。警察に届けとか出しているんでしょうかね。人が一人いなくなるなんて、ましてや千春ちゃんにとっては家族が失踪しているなんて、ちょっとした事件ですよ」


「届出の件は現時点ではわからん。ただ、重大なことだからこそ、千春ちゃんはわずかな可能性にかけて俺のところにわざわざ出向いたんだろう。普通姉の高校生時代の知り合いで、直前に名前を言っていたからといって、千春ちゃんとはもう七年も会ってなかったからな。わざわざ本当に会いにくるってのは心当たりを辿った末の選択って感じなんじゃないか」


 水崎千春と初めて会ったのは、確か高校二年生の時。公立高校の文化祭なんてものは、大抵大きな規模でやるわけではなくて、一般公開もなく、来賓があるとしても、生徒や教師の家族くらいなものだ。文化祭は十月の後半頃に、行われていたはずだ。


 文化祭二日目。出し物は教室を一つのお店に見立てた喫茶店だった。無個性の塊のような発想だったが、擬似的とはいえ、店を営業することの非日常さに、クラスメイトたちは酔いしれていた。お祭りに参加する際に感じるもの全てが、お祭りのムードを高めていくんだろう。毎年盆過ぎに行われる、駅前から商店街を中心に展開される大夏祭りを思い出した。人と人が集まり発する熱気、絢爛けんらんで鮮やかな出し物や屋台、走るような太鼓に、踊る笛、子供の歓声大人の号令ソース多めの焼きそば、五百円以上もする豪快な焼き牛串、食べ物だけじゃなくて、人の集まりに漂う独特な香り。ありとあらゆる感覚が、調和が、一人一人では出せない膨大なエネルギーとなっているんだろう。


 ともかく、特に工夫はないように思える喫茶店だったが、そこそこには盛況だった。俺は店番を終えて、晴れて自由の身となった。学生たちの教室と職員室等、最も人が集まる校舎の正面玄関を抜けると、校門までストレートに道が繋がっている。屋台は主に、その脇に連なっている。


 俺は屋台街には向かわず、校舎右端から伸びている渡り廊下を使い、特別教室棟に移動した。文化部の部室や、理科室等の授業の際に必要となる教室は、こちらの特別教室棟にある。美術室、美術準備室をさらに超えた端っこには、歴史文化研究同好会が使用している部屋があった。もともとは行き場の無くなった備品等を入れておくだけの倉庫だったが、同好会を立ち上げるということで、部屋として使わせてもらうように交渉した。そう、友樹が。結果として、使用許可が下りた。


 同好会という形だと、部費もなく、部活動として行使出来る権利などほとんどないのだが、顧問の先生も必要ない。生徒の自主性と良心に委ねられるため、責任は自分持ち。大人になると出来れば誰も持ちたいと思わない、呪われた目に見えないアイテム、責任。まあ建前上はそうなっているが、実際に高校生に取れる責任なんてたかが知れている。保護されている立場だ。何かあった場合は学校側で動くはずだ。それが大人としての仕事だろうし、教師としての役割であるだろう。


 ただ、俺たちが在学中は、特に大きな問題もなかった。もしかしたらあの部屋は、今でも青春のワンシーンに貢献しているのかもしれない。


 時間は確か昼過ぎ頃、歴史研究会室の扉を開けていた。同好会の部屋ということになっているが、張り紙も名札も用意していないため、何も知らない人から見ると、ただの空き教室と変わらないだろう。特に出し物を用意していたわけではないので、誰も居ないだろうと思っていた。もし誰かいるとしても、人数合わせのために名前を登録している奴ぐらいだろうと思ったら違った。


「すごい! 学校の中に人がいっぱいいるね! 文化祭ってすごいんだね」


 部屋にいたのは、水崎千夏と見知らぬ少女だった。学校行事の最中だったので、千夏は制服姿だったが、千夏に脇の下を抱えられ、表情を綻ばせ瞳をキラキラさせながら、窓の外を眺めている少女は私服姿だった。ドット模様の上品なワンピース。年の方は10歳前後といったところだった。普段俺の前では、眉間に皺を寄せ、口を尖らせこの世の理不尽に嘆き、罵倒する底意地の悪い表情しか見せないのだが、少女を見る目は柔らかく、いつもの水崎千夏との雰囲気の差に、いつも通り話しかけていいのか戸惑いを感じた。


 ここまで説明したところで、絵衣美は話に口を挟んできた。


「明大先輩、途中から水崎先輩の話になってますよ。しかもディスってます。まあ、つまりその時に出会ったのが千春ちゃんだったということですね」


「そうだよ。あの頃はまだ小学生だったから、今高校生になっていても、別におかしくはないな」


 昨日会った印象だけなら、水崎千春は高校時代の水崎千夏に、ものすごく似通っていた。小学生時代にはなかった眼力の鋭利さが、ますます千夏のイメージと重なる。そこは姉を見習わなくても良かった部分だと思うが、やっぱり姉妹というものはどこかしら似てくるものだろうな。それこそ、千夏が高校生の姿のまま、現代にタイムスリップしてきたなどと突拍子も無いことを言われても、場合によっては信じてしまいそうだった。俺には兄弟姉妹がいないからわからないが、同じ遺伝子が受け継がれ、同じような生活環境に置かれるということは、周囲の影響も似たようなものになるということだろう。性格や考え方なんかの知的な部分も、少なからず容姿に影響を与えるものだろう。小学生当時から目立つ容姿をしていたし、順当に成長した結果、世の男性諸君を不毛な感情に落としていることだろうな。姉に似て美人に育ってまあ。容姿に至っては、千夏は抜群に良かったしな。外面に覆われた内面は、美人の振る舞いとは程遠かったが。


「先輩が高二の文化祭で水崎先輩と千春ちゃんに会ったことはわかりましたけど、その後文化祭でどうしてたんですか? 確かあの時、一日目は明大先輩とは会いましたけど、二日目はお会いできませんでしたね。どこで何をしてたんですか?」


「例の部屋でお祭り騒ぎを眺めながら興奮してる千春ちゃんの話を聞いてたよ。途中一回だけ買い物に行ったかな」


「へぇー。水崎先輩とその妹の千春ちゃんなら、さぞかし目立っていたでしょうね」


「いや、千夏は行かなかった。直前まで演劇の主役張ってたらしいから、人混みとか熱気とかに疲れてたんだと。おかげで俺は初対面の幼女を連れて、屋台街に出向く羽目になったよ。一般客なんていないから、幼女がいることも珍しいようで反応がすごかった。針のむしろっていうものを実感出来ちまったよ」


 いかにも純粋無垢な生き物が、高校生の群れの中に現れたことにより、色んな意味が込められた視線が集中した。千夏の妹だということをその時点では俺しか知らないはずだが、将来は美人になることを約束されたようなオーラに、女子からは「なにあの子超カワイー」と色のついた声援。男子からは「なにあの子超可愛い」と呟くような言葉に、熱視線。おいまだ小学生だぞ。若さを美徳と考え、純真や無垢に神聖さを想起させて祭り上げる人々を生み出しかねない千春ちゃんの魅力に、ただただ、恐怖した。


 屋台では、千春ちゃんのリクエストでお好み焼きと焼きそばを買った。暴力的なソースの香りを漂わせていた。綿菓子などを子供は好きなもんだから、買わないのか聞くと、これならみんなで食べやすいから、と。


 いい子!


「それからは、結局研究会室でダラダラして、千春ちゃんは帰っていったよ。それ以降はたまに千夏に会いに来るようになったから、そん時に会ったり会わなかったりって感じだな」


「ふぅーん。千春ちゃんと会うってことは、当然放課後だったり、休日だったりってことですよね。となると、当然姉である水崎先輩とも結構な頻度でお会いしてたんですね」


 微妙に口元が尖っていた。良くない空気だ。うん、良くない。


「結構な頻度ってわけじゃない。勘違いしないでくれよ、俺と千夏はただの……」


 友達と言おうとして言葉に詰まる。ある程度一緒にいて、本音も言い合ったり、どこかに出かけたりもしていた。楽しくなかったわけじゃないし、水崎千夏みたいな有名人と言葉を交わせることに、少なからず優越感を覚えていたことも否定しない。損得感情や打算が含まれていても、友達というカテゴリに入れることは出来る。人間関係において、友達の中でも求めるものは人によって変わると思う。自尊心を満たして欲しかったり、何かを学ばせてもらったりと様々だ。他者から見れば、きっと俺たちの関係を友達と評することに不自然さはない。見方によっては、恋人という評価を下す者もいるのかもしれない。流石にそれは事実ではないので否定するが、要は友達という関係を、一緒にいる時間や思い出の共有という面で見れば、俺と水崎千夏は友達ということで問題ないのだ。


 何が問題かって、不合理で不平等で不条理な、心という概念が、友達という表現を拒んでいる。俺は、千夏を、千夏との関係を、友達というカテゴリで表現したくないのだ。じゃあなんと呼べばいいのか。


 わからなかった。


「俺と水崎千夏の関係ってなんだろう?」


 絵衣美はズッコケた。愛用しているであろうペパーミントグリーンの枕に顔面からダイブした。ほんといいリアクションとるなこいつ。中二病時代から大袈裟な表現を好んでいたからか、今になってもとても面白い反応をしてくれる。別におちょくったつもりはないけど、ついついからかいたくもなってくる。

「おいおいどうしたんだよ絵衣美。唐突にエイミー・マリオネットの人格が乗り移ったのか?」


 エイミー・マリオネットとは、中二病時代の別人格の名前だ。名前が少し外国っぽいからこそ、そういう雰囲気の名称を選んだのかもしれない。


 絵衣美は酸素を求めて水面から顔を出すかのような勢いで、顔を上げた。怒りか羞恥か、多分その両方で顔は真っ赤に染まっていた。


「せ・ん・ぱ・いのせいですよ! そしてその名前で呼ぶな! あんまりふざけてると鏡先輩に泣きつきますよ。あることないことないことを吹き込んでやりますからね」


 嘘を多めに吹き込むつもりだった。粉飾決算もやり過ぎるとうっかり尻尾が出て本体まで引きずり出されるものだ。しかし、鏡正音に泣きつかれるのはまずい。夜中だろうがなんだろうが、優しい声でエゲツない説教が飛んでくる。幼馴染であることと、正音のほうが一つ年上という事実から、正音にとっては気安くかつ精神的に優位な状況で、正論を振りかざしてくるのだろう。


「悪かったよ。お詫びと言ってはなんだが、なんか奢ってやるから焼肉とか……いややっぱりパスタとか……やっぱアイスとか」


「どんどん値段が下がってます。許しを請う場面で値切るとか見上げた根性すぎて逆に尊敬出来ますよ」


「尊敬してくれるなら奢りはなしでいいな。まさか尊敬する先輩から金銭をむしり取ったりしないよな。むしろ尊敬料としてアイスでも奢ってあげる気概は持って欲しいな。いやいや遠慮することはないぞ。後輩からの施しを無碍むげに断るなんてことをするほど、俺は心の狭い人間じゃないからな」


 そう言い切ると、絵衣美は体全体を下げるような、大きな大きな溜め息を吐き、一転して天使ですら、その神聖さに怯んでしまいそうな笑顔を見せた。


「先に謝りますね。ごめんなさい。よし、謝りましたよ……前言撤回ですクソ野郎先輩。アイスでいいから奢れ」


「はい」


 俺は自称心の広い先輩として、後輩である絵衣美にアイスを奢ってやることにしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る